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入籍10ヶ月で適応障害になった話 〈3〉


そもそも私の母は私が3歳くらいの時に
乳癌が見つかり右胸を全摘していました。
その時に子供達を笑顔にさせるべく父が行った作戦は
ピザで子供達を釣ろう作戦!

その時に目も当てられないほど太り顎が無くなった話と
母の病室で描く母の似顔絵には
いつも天使の羽と輪っかがついており
母を不安にさせた話はまたの機会に。

それから約10年後に乳がんが再発しその頃には身体中に転移していました。
たくさんの治療をしましたが、
私が中学3年生の時に母は亡くなってしまいました。

もともと仕事以外の人付き合いが苦手な父は
親友でもあった母を亡くして意気消沈したいところだったと思いますが
4人の子供を抱えて慣れない家事をし、
息を吐く暇も無かったのではないかと思います。

そんな日々をがむしゃらに走り抜け
中学3年生だった私も気付けば大学で上京。
1番多い時には7人が住んでいた広い家に
当時父は一人で住んでいました。

父にとって寂しい日々だったのでは無いかと思いつつ
月に一回は父が東京に遊びに来てくれて現旦那さんと遊び
夏休み春休みには1ヶ月帰省して
年末年始は地元で過ごして結構な頻度では会っていました。

私と父は周りから見てもとても仲が良かったし
旦那さんも含めて3人での旅行もたくさんしました。
そんな私達の関係を仲良しという人もいれば
共依存という人もいるでしょう。

それでも私は、優しい父の様で、厳しい母の様で、
仲のいい友達の様で、手の掛かる弟の様な父が
大好きでした。
 
                            Nana.N



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