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【アーカイブ/論文】美術・アートにおける検閲、表現の自由、その限界と規制|放送など他分野モデルを参照項として

※この論文は、東京大学公開講座「AMSEA2018」(Art Management of Socially Engaged Art|社会を指向する芸術のためのアートマネジメント育成事業のうち2018年度事業:下記URL参照)の修了論文です。したがって、「あいちトリエンナーレ2019」の「表現の不自由展・その後」の事案発生以前に執筆したものです。2019年1月脱稿。

1. 概要(Abstract、Summary)
 本稿では、わが国の美術・アート分野(*1)における直近10年間(*2)の中から、表現の自由を抑圧しそれを損なうような争議や論争などトラブルとなった事案をとりあげた。そのうえで、表現という意味で芸術に隣接する放送など言論・報道を含む関連分野における表現の自由や、美術館に近似する図書館における自由に関する取組状況を参照モデルとしつつ、美術・アート分野における表現の自由の限界および規制について課題などを考察した。
 特に政治的な表現に関する事案を中心に考察した結果、
①事案の経緯などを当事者がドキュメントに残しアーカイブ化することによって、情報公開、アカウンタビリティを果たすことのほか、
②関係者の職責を明らかにするとともに編集権の独立の問題を探求すること、
③関係者の倫理上の取組を強化すること、
以上の3つの観点が重要との結論を導き出した
ものである。

*1 美術・アート分野:本稿では、わが国の近代における絵画、彫刻など造形美術の系譜に連なる戦後現代美術・現代アート分野を念頭においた。したがって、文芸や舞台芸術、映画、音楽などは含まない。
*2 直近10年間とした理由:(1) 日本でLINE、Twitter、FacebookなどのSNSの普及が急速に進んだのがこの10年間、(2) 自由民主党が2度目の下野をしたのが2009年(麻生内閣から鳩山由紀夫内閣へ)でそのころから政治の流動化が著しくなった、(3)『美術評論家連盟会報』web版第6号(2016.11.24.アップロード)の[1900年以降の日本における「芸術と摩擦」関連年表]で1990年代が3事例、2000年代が1事例に対し2010年代が8事例と急増している。

2. Introduction(背景、目的)
 日本国においては、表現の自由は憲法第21条〔集会、結社及び表現の自由と通信の秘密の保護〕によって保障されている。また、条文には「美術」や「芸術」といった直接の文言はないものの、美術・アートなど芸術における表現の自由も同条第1項の「その他一切の表現の自由」に含まれていると解されている(志田 2016:16、志田 2018:22、成原 2016:36)。
 そうした中で、近年、美術・アート表現においても、表現の自由に関係し争議や論争などトラブルとなった事例が増えている。こんにちほど美術・アート表現が圧力を受けたり批判を受けたりするケースが急増している時代はあまりない。まずはそうした事例を以下に列挙した(*3)
 もとより、表現の自由も絶対的な自由ではなく、公共の福祉(他者の権利)との衝突があった場合には一定の限界があり、表現の自由にもこのルールが当てはまるとされている(志田 2016:22、志田 2018:22、奥平 1988:11)。しかし、本稿で列挙したこれらの事例に関しては、規制を受ける、あるいは撤去要請などの圧力を受ける根拠が明確でない事例もあり、考察すべき問題が存在している。

【性的表現】
① ろくでなし子事件:2013年
② 森美術館の会田誠「天才でごめんなさい」展:2013
③ 愛知県美術館「これからの写真」展における鷹野隆大の作品:2014
【政治的表現】(*4)
④ Chim↑Pom《ピカッ》騒動:2008
⑤ Chim↑Pom《明日の神話》事件:2011
⑥ 福島第一原子力発電所指さし作業員:2011
⑦ 新宿ニコンサロンの慰安婦写真の展覧会:2012
⑧ 東京都美術館「第18回JAALA国際交流展」の《少女像》:2012
⑨ 東京都美術館「現代日本彫刻作家展」における中垣克久の作品:2014
⑩ 東京都現代美術館「ここはだれの場所?」展における会田家および会田誠の作品:2015
⑪ 広島市現代美術館「ふぞろいなハーモニー」展におけるリュー・ディンの作品:2015
⑫ 東京都現代美術館「キセイノセイキ」展(藤井光と小泉明郎の作品):2016
⑬ 府中市美術館の新海覚雄展:2016
⑭ 群馬県立近代美術館「群馬の美術2017」における白川昌生の作品:2017
⑮ 岡本光博《落米(らくべい)のおそれあり》:2017
⑯ ヤノベケンジ「サンチャイルド」撤去:2018
【その他】
⑰ 京都市立芸大ギャラリー「アクア」における丹羽良徳のデリヘル問題:2016
⑱ 札幌国際芸術祭のゲストハウスでの展示中止:2017
⑲ 六本木のギャラリーにおける「ブラックボックス」展:2017
⑳ 国立新美術館における「東京五美大卒制展」:2018

 上記に掲げた事例を概要も含めて別表のとおりまとめた。各事例は背景や経緯、内容は様々で考察すべき論点にも違いがある。「①ろくでなし子事件」と「③愛知県美術館「これからの写真」展における鷹野隆大の作品」はわいせつ表現の問題として刑法第175条に係るものであり、文芸・映画分野を含めればいわば古典的事例に属する。「①ろくでなし子事件」は実際に刑事裁判となり、「③愛知県美術館の鷹野の作品」は警察の指導・警告を受けた。
 20事例のうち14事例が美術館やギャラリー内で展示されたものであり、20事例のうち14事例が、公的な資金が使われているもの、あるいは国または自治体の施設での事例である。
 また、初めに通報した者、申告した者が一般市民の場合が20事例のうち8例を占め、一般市民の指摘や抗議をきっかけに、警察や自治体、美術館やギャラリー側が撤去(または撤去要請)した事例も4例ある。公権力からの直接圧力ではなく、市民からのクレームを受けた美術館など職員からの要請であっても、表現の自由は委縮しやすいものである(毛利 2017:26、志田 2016:20、志田 2018:33)。したがって、その後の表現者に大きな影響を与えかねない(*5)。こうした表現の自由の委縮しやすさを踏まえて事例を論ずることは大きな意義がある。
 なお、ここで例示したものは、ここ10年間ほどの事例であるが、それ以前の事例としてわが国の美術・アート分野において性的表現および政治的表現に関し争議となった重要なものとしては、次のものが挙げられる。
【性的表現】
・ホイットニー美術館のメイプルソープ回顧展カタログ写真集輸入事件(1993年 結審1999年)
・メイプルソープ写真集輸入事件(1999年 結審2009年)
【政治的表現】
・富山県立近代美術館の大浦信行の天皇コラージュ《遠近を抱えて》事件(1986年 結審2000年)
・沖縄県立博物館・美術館の「アトミックサンシャインの中へin沖縄」展で上記《遠近を抱えて》の展示不許可(2009年)

*3 列挙した事例:美術・アート表現においては著作権など知的財産権に関する事例は多数あるが、切り離して考えられることから、本稿では考察対象外とした。また、事案内容として性的表現に関係するもの、政治的表現に関係するもの、その他に3区分し、古いものから時系列に列挙した。各事案の概要は別表のとおりである。また、数字は便宜上のもので意味はない。なお、記述の中では事案名は適宜略称した。
*4 政治的表現:必ずしも明確には政治的な表現を意図した作品とは位置づけられないものもあるが、原子力および原発など国の政策に関するものやイデオロギー的な観点から圧力を受けたものは、こちらに区分した。
*5 ARTISTS’GUILDおよびNPO法人芸術公社編,2016,『あなたは自主規制の名のもとに検閲を内面化しますか』81ページで、Port B高山明は、「怖いのは匿名の市民からのクレームや、コミュニティに不快感を与えるものだから取り下げろ、といった「市民レベル」の検閲ですね。特にSNSが普及して以降は炎上を恐れている人が多い。そうすると、もう何も作れなくなってしまう。僕が一番危惧しているのはそこですね。」と発言している。

3. Method(方法、仮説)
 芸術分野に限らず、表現の自由に隣接する分野は、言論、報道(新聞、雑誌、放送、広告)、出版、映画があり、関係する分野としては学術、図書館がある。また、美術・アートが表現される場としての美術館やギャラリーは、道路や公園、公民館などのパブリックスペース(パブリック・フォーラム)の使用規制などの問題と重なりあっている。これらには、数多くの事例や論議、検討すべき課題があり、それぞれに関連している。また、内容規制のほか、内容中立規制の観点の問題も存在している(志田 2016:20、横大道 2017:50)。また、近年では、インターネットの発達、ソーシャルネットワークシステム(SNS)の普及などメディアの激変により、個人の発信力・影響力の増大(「個人が再び送り手としての地位に復権しつつある」成原 2016:36.)などの環境変化も大きい。そうした中でヘイトスピーチの問題も急速に大きな問題となってきている。
 そうした他分野と比較すると、美術・アート分野における表現の自由に関する議論の蓄積は少なく、関係者の対応や取組も大幅に遅れており脆弱である。そこで、放送や図書館などの事例を参照モデルとして、美術・アート分野のこうした問題について、以下に考察することとした。そうすることによって、美術・アート分野における表現の自由に関する争点がより明瞭となり、また、今後の課題も明確になると考えたからである。

4. 考察(Discussion)
4-1. 美術・アート分野の歴史的変容と事例の増加要因
 こうした表現の自由に関する事案が急増している原因は、特に現代美術・現代アートの分野においてはクレメント・グリーンバーグ流のフォーマリズムの影響力が衰退する一方、歴史的・地理的・社会的文脈を重視するコンセプチュアリズムが台頭し、ソーシャリーエンゲージドアート(SEA)と呼ばれるような社会と深く関わる美術・アート表現が増加していることがその背景にある。そのほか、もちろん、SNSなどのインターネットメディアの普及により、従来であればマスコミに取り上げられないような比較的小さな事案も特に美術・アートに関心の深い人たちを中心にSNSで拡散されて知られるようになっているということも影響している。
 美術・アートの概念は、特にマルセル・デュシャンの《泉》以降、更にはヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」概念以降、急速にその内包を深め外延を拡張してきた。これに伴い、美術・アートが従来の美学的な観点や美術史的観点などの学術的側面のほか、商品としての経済的な観点、表現の自由など法令に関する観点、政府などの公権力との関係、市民社会との関係、人工知能(AI)やバイオテクノロジーなど科学技術との関係に関する観点など、局面が急速に拡大されてきている。
 一方、日本という固有の場所における観点も極めて重要である。北澤憲昭の『眼の神殿―「美術」受容史ノート』(2010.ブリュッケ)などの著作研究にあるとおり、美術という概念が、日本という国民国家(ネイション・ステイト)が形成される過程と密接に関っている点も非常に特異である。
 明治以降、特に戦後、西欧および米国の美術動向を間断なく受容してきた結果、美術・アートの概念が拡張されてきたことに伴い、美術・アートは言論や学問といった分野に近接してきた。形式的にも演劇や映像という分野との横断が当たり前になり、作品のコンテクストや、フォルム、メディウムはますます複雑化している。
 ひと言でいえば、日本においては美術・アートは単なる装飾(*6)であった江戸時代までから、明治維新以降、近代的自我の表現へと変貌し、さらに戦後特に近年では、美術・アートが投機対象、学術、言論、社会活動(政治活動)という色彩を帯びてきている。現代においては、美術・アート概念のこうした急速な拡張に伴って生ずるその問題点を明らかにし、解決していくための活動が喫緊の課題である。いわば美術・アートは戦線を全面展開してしまったわけであり、伸びきってしまった“前衛”最前線というふうにも喩えることができよう。そうした状況を踏まえると、美術・アートの考察において、従来の美学・美術史学的観点から社会学的観点への転回も重要になる。
 では、なぜ最近になって美術・アートにおける表現の自由やそれに対する規制の問題がクローズアップされてきたのか。それは、わが国において、美術・アート表現が言論という側面の一形態となってきたのが、ごく最近のことだからである。明治以来今に至るまで、美術は「表現未満」の江戸時代以前(*7)と同様に単なる装飾の域を出ていなかったのである。
 つまり、美術・アートは明治以降において、表現ではあるが言論とはみなされておらず(さりとて思想や学問でもない)、したがって、関係者においてその表現の自由の確保について、なんらの具体的な努力を怠ってきたといっても過言ではない。

*6 装飾としての日本美術:中国の書画一致の伝統を受容してきたことから絵画が書としての側面もあったが、一部文人エリートのたしなみという側面が強かった。もちろん、宗教美術はあったが、あくまでも礼拝的価値であり、近代的な自我による表現という面はなかった。
*7 江戸時代以前の日本美術:例外的には浮世絵が幕府の取り締まりを受けてきたが、これは浮世絵が美術ではなく出版にカテゴライズされていたからである。

4-2. 各事案の分析
 ひとまず、各事案を性的表現、政治的表現、その他とおおまかに3つに分類した。

4-2-1. 性的表現について
 従来、芸術表現とわいせつ性については、わいせつを規定する刑法の有権解釈権限を一義的には警察・検察が有していることが実効上明確であることもあって、文芸・映画分野を含めるといくつかの重要な判例(*8)が出ており、美術・アート表現においても既述のとおりメイプルソープの2事例あり、論議できるだけの事例が積み重ねられている。また、性的表現においては、実態上その国内規制を無効にしているインターネット空間も存在しており、「①ろくでなし子事件」や「③愛知県美術館の鷹野の作品」の事案はそういう時代変化に対応できていない警察のアナクロニズム性を図らずも暴露してしまったといえる。特に愛知県美術館の事例の場合、黒田清輝の腰巻事件(1900年)を再現するという形で100年を超える当局の時代錯誤ぶりの揶揄ともなっており、警察の介入に対する応答自体が鷹野の作品を延長した極めて優れた表現になっている。さらに、その記録を美術館の研究紀要とwebサイト上でも公開しており、そうした点も極めて高く評価でき、今後の同様の事例の模範となる。
 なお、本稿ではわいせつと表現の自由問題にはこれ以上深入りして考察しないが、次のことだけは記しておきたい。それは、赤瀬川原平の千円札裁判や文芸・映画分野でわいせつを争った裁判、メイプルソープの2裁判、そして今回の「①ろくでなし子事件」、いずれの事案も弁護側がわいせつ性を減ずる芸術性を主張したことに関しては、筆者は全く賛成しない。なぜなら、芸術性を争うことは芸術性の高低を裁判所の判断に委ねることになりかねない(*9)からである。

*8 主要な判例として、チャタレー裁判(1951-57)、悪徳の栄え裁判(1959-69)、四畳半襖の下張裁判(1972-80)、日活ロマンポルノ裁判(1971-80)がある。
*9 後述の美術評論家連盟のシンポジウムにおいて、林道郎(美術史家・上智大学教授)から「美術性があるか、芸術性があるか、思想性があるかという判断を裁判官に委ねてしまうという危険性があるということです」、また、光田由利(評論家)からも「芸術性の判断を司法に任せないというのは私もそうだなと思うんですけども」と同様の懸念が示された(同シンポジウムの当日記録31ページ、49ページ)。

4-2-2. ドキュメンテーションの欠如
 性的表現に関する事案の一方で、最近特に事案数が増加しかつ内容としても複雑でやっかいなものが政治的表現や市民との摩擦を起こす事案である。「⑩東京都現代美術館「ここはだれの場所?」展における会田家および会田誠の作品」や「⑪群馬県立美術館「群馬の美術2017」における白川昌生の作品」のように誰からの介入なのかがはっきりせず、うやむやのうちに圧力を受けている事例もある。公権力は往々にしてその顔を見せずに間接的に圧力をかけて来る。一般市民を装っている可能性もあるかも知れない。そうした中でその多くの事例が、経緯が明らかにされないまま沈静化し忘却されている場合が多い。また、一般市民との摩擦を起こす騒動的なものも多い。こうした事例の多くは「③愛知県美術館の鷹野の作品」の事例の逆で、記録が公開もされることは少ない。このことは大きな問題といわざるをえない。
 このように別表を作成する過程で浮かび上がった多くの事例に共通する問題点は、各事例の経緯や内容がドキュメントとして公開されアーカイブされていないことである。特に当事者によるドキュメントなどの一次資料は、こうした事案が課題として積み重ねられ議論されていくうえでの大前提であり、また後世における再検証に資するためにも極めて重要である。アカウンタビリティとチェック&バランスが重要との指摘がある中で(神野 2016:60-61)、極めて問題といわざるをえない。
 そうした観点で見ていくと、裁判となった「①ろくでなし子事件」を除き、書籍として出版されたものは、「④Chim↑Pom《ピカッ》騒動」(Chim↑Pom・阿部謙一編、無人島プロダクション発行『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』2009,河出書房新社発売)と「⑩東京都現代美術館「ここはだれの場所?」展における会田家および会田誠の作品」、「⑫東京都現代美術館「キセイノセイキ」展(藤井光と小泉明郎の作品)」の3件だけである。ただし、そのうち、「⑩会田家の作品」は記録集(『おとなもこどもも考える ここはだれの場所?記録集』2016,東京都現代美術館)として発行されてはいるが一般書籍として販売されておらず入手しにくい上、発行したとする公式情報もなく、経緯についての記述はごくわずかである。
 また、「⑫キセイノセイキ」についての書籍『あなたは自主規制の名のもとに検閲を内面化しますか』(ARTISTS’GUILD+NPO法人芸術公社編,2016.torch press)は出版されているものの、この書籍にはこの展覧会の準備段階などにおいて関係者間でどのような調整が行われていたかの経緯がほとんど記述されておらず、極めて不十分な書籍と言わざるをえない。この展覧会がまさに規制の問題をテーマとし、皮肉っぽく言えば美術館の主催にもかかわらず出品者団体との共同企画である自作自演の予定調和的な展覧会といえなくもないことを考えあわせると極めて問題であり、この書籍の評価は低いといわざるをえない。
 一方で、書籍にはなっていないが「③愛知県美術館の鷹野の作品」の事案では美術館が研究紀要に事案の経緯を詳細に記述するとともに、研究紀要自体をwebサイトにもアップロードしており、極めて今後の模範となる取り組みをしている。また、「⑫岡本光博の「落米のおそれあり」」については、作家のwebサイトに作家の他の作品の事例も含めて詳細な経緯をアップロードしていることから高く評価できる。それ以外の14件については、経緯や内容に関する情報が新聞やネット報道、SNSのまとめ程度で、当事者による記録(*10)など一次資料が残されておらず問題である。

*10 当事者による記録:「⑮福島第一原子力発電所指さし作業員」については作品の狙いとして多くの情報を残さないことに意味がある作品と考えられることから例外扱いとすべきだろう。

4-3. 他分野との比較
 さて、ここで美術・アート表現の隣接分野として放送分野と図書館での取組状況について以下のとおり概観した。

4-3-1. 放送分野における自由と規制
 日本の放送は、現在、放送法と電波法により規定、規制されている。電波法は主に電波というハードウェアについての技術的な規制がほとんどであるため、放送における言論、報道、表現の自由に関わる事項は専ら放送法の規定によっている。放送法は、戦前の言論法制(新聞紙法、出版法)による検閲などの反省から(辻田 2018:8-9)、戦後唯一現行の言論報道法制として、昭和25年(1950年)に公布(約1か月後に施行)された。放送法の最も重要な考え方は「自主自律」である。我が国の他の業法のほとんどが業を営む者を規制している法律であるのに対し、放送法は放送を営む者を法的根拠のない圧力や検閲から保護している側面ももっている法律である(西土 2018:106)。つまり、〈国家による自由〉の保障といえる。それは具体的には放送法第1条〔目的〕の規定の名宛人の解釈としている。さらに付け加えるなら、放送法が他の業法のように所管官庁の一般的な監督に服さない(包括的監督条項がない)ことにも放送法が極めて慎重に制度設計されていることからもわかる。
 放送法は、放送番組の編集に関し、4項目の放送番組準則を規定し、放送局はそれに沿って具体的な放送番組の編集の基準を定め、これを公表している。また、外部有識者による番組審議機関を設置し議事概要を公表している。これらのことによって、放送局は番組編集の自律性を担保し、また、放送に携わる者の職責を明らかにしている(金澤 2012:25-86)。ただ、後述するが新聞と同様に放送局の個々の職員が職責を果たすための裏付けとなる職員の編集権の独立の問題は解決されていない。
 しかしながら、わが国の放送局は、特に1985年以降「やらせ」番組など多数の不祥事を惹起し、それを口実にした公権力の介入を許してきた。中でも決定的な契機となったのは1993年のテレビ朝日の椿報道局長発言問題であり、政治と放送を考える上で極めて大きな転機となった(西土 2018:100)。そうしたことを契機に、放送業界は、放送倫理・番組向上機構(BPO=Broadcasting Ethics & Program Improvement Organization:直接的な前身の設立は1997年)という第三者機関を設立し、放送局が受ける様々な圧力から自主自律の独立性を担保するとともに、視聴者に対し番組で人権侵害などした場合の苦情申し立て対応、放送番組に対する倫理的勧告や業界人のコンプライアンス教育などに努めてきた。
 また、訴訟に至る前段階の事案を扱う機関として準司法的機能を有しており、放送局が三権(立法、行政、司法)とアームズ・レングス的な距離の取り方(太下 2017:202)という観点からも評価できる組織である。
 なお、放送は、その成立直後2年間だけは米国の連邦通信委員会に倣い電波監理委員会という合議制組織の行政委員会によって所管され、当該委員会は行政府からは独立し裁判の第一審的な機能を持っていた。BPOはこれを代償する機能を持つ組織(*11)とも位置づけられる。

*11 BPOの類似組織:類似組織としては、1946年からの歴史をもち敗戦直後の放送制度が整備されたことと同様にGHQ(連合国軍最高司令官総司令部: General Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers)との関連が深い制度に一般財団法人 映画倫理機構(映倫)がある。ただし、映画倫理綱領には放送番組準則にはある政治的公平や多角的論点の項目がないという点が大きく相違する。これは映画が主に暴力やわいせつ問題と密接であることが関係しているからである。

4-3.2. 図書館の取組
 図書館は、社会教育施設として社会教育法上も美術館と並列に位置づけられている。また、図書館は図書館法、美術館は博物館法で規定されており、法律の構成も近似している。その上、双方とも自治体が設置する施設が多く、さらに、専門的職員である司書を置くこととなっていることも、学芸員との対比で比較考察できる。
 図書館も博物館(美術館)も「協議会」を設置できると規定されていることに注目すべきである。この協議会は図書館においては「館長の諮問に応ずるとともに、(中略)館長に対して意見を述べる機関とする。」と規定され、博物館(美術館)においても全く同様に「館長の諮問に応ずるとともに、館長に対して意見を述べる機関とする。」と規定されており、双方とも第三者機関として位置づけられている。放送制度における放送番組審議機関やBPOに類似しており、内部的自由の確保および内部のチェック&バランスの観点でこの協議会制度のさらなる活用も重要である(*12)
 また、図書館分野においては、公益社団法人日本図書館協会がその前身を含めると1892年に設立されており、1954年「図書館の自由に関する宣言」を採択している。この宣言では「知る自由」を前面に掲げ、資料収集、資料提供の自由、利用者の秘密の厳守、検閲への反対などを定めている。さらに、図書館員の倫理綱領を1980年に定め、図書館員の職責を明らかにしている。
 また、これらに関し自由の抑圧など問題となった事案をまとめた事例集を書籍として発行している。

*12  文部科学省は、2017年3月2日、現在は教育委員会が所管している公民館・図書館・博物館等の社会教育施設を自治体の首長部局が担えるようにするなどの議論を中央教育審議会に諮問し、2018年12月21日答申を受けた。このことは、教育委員会という合議制の行政委員会の所管から首長の所管に移行することで、博物館(美術館)・図書館・公民館が公権力たる首長とのアームズ・レングスな関係を構築するという観点から問題を含んでいるといわざるをえず、法制化など制度整備にあたっては、これらの社会教育施設の本来的役割に由来する自律性を担保する措置が確実に組み込まれるべきである。

4-4. 表現の自由に関する美術界の最近の動向
 美術・アート分野・業界でもこうした表現の自由に関する事案が多発する状況を受けて、対応する団体が出始めている。ここでは2つの団体を例に挙げる。

4-4-1. 美術評論家連盟
 美術・アート表現の自由に関して直接的に発言している団体として美術評論家連盟がある。同連盟は2016年7月1日に声明「美術と表現の自由について」を公表し、同年7月24日、東京都美術館講堂において「美術と表現の自由」と題するシンポジウムを開催した。このシンポジウムは直接的には「①ろくでなし子事件」(2013年)と「③愛知県美術館の鷹野の作品」(2014年)および「⑦東京都現代美術館の会田家の作品」(2015年)の事案の発生を受けたものである。
 また、同連盟は、2015年1月26日および2016年5月17日に「①ろくでなし子事件」に対する抗議声明(会員有志)、2016年5月28日に「⑦東京都現代美術館の会田家の作品」に対する公開質問状、2017年5月31日「⑪群馬県立美術館の白川の作品」に対する抗議声明、2018年6月7日に「⑳国立新美術館の五美大卒制展」に関する公開質問状を同連盟のweb上で公開している。
 なお、前述のシンポジウムのパネルディスカッションのモデレーターを務めた美術評論家清水敏男氏を2018年11月11日に取材したところ、同連盟では常任委員会の諮問機関として表現の自由などに関する研究会をまさに立ち上げたところであり、今後この問題を深く議論していくとのことであった。

4-4-2. 全国美術館協議会
 全国の388の美術館が加盟する全国美術館協議会は、「美術館の原則と美術館関係者の行動指針」を2017年5月25日の同協議会総会で決議・採択し、同年9月10日に同協議会のwebサイトで公表した。美術館の原則には「美術館は、倫理規範と専門的基準とによって自らを律しつつ、人々の表現の自由、知る自由を保障し支えるために、活動の自由を持つ。」とあり、美術館関係者の行動指針には、表現の自由と知る権利(見る権利)を保障し支援するとともに、自らを律し専門的基準の遵守が謳われている。
 この原則と行動指針は国際博物館会議(ICOM:International Council of Museums)の職業倫理規程に準拠したものと説明されており、美術館関係者が倫理規範と専門的基準を順守すべきと謳われていることが注目される。なお、公益財団法人日本博物館協会も同様の規程を2012年7月、全国美術館協議会に先行して制定している。

4-5. 他分野との比較による論点の抽出
 他分野との比較で、浮かび上がってくる論点について、以下に考察する。

4-5-1. 職責と編集権
 既述のとおり美術評論家連盟も声明などを発表するなどの活動を行っているが、声明「表現の自由について」は抗議声明の色彩が強く、例えば図書館の取組と比較しても極めて不十分で、特に表現者や評論家の職責についての記述が補1にわずかに「もし表現が、特定された個人の生活を脅かす、威嚇や強迫、中傷を含むものであれば、当然、その表現は表現として批判されなければならない。(後略)」とあるだけで欠落感が大きい。
 社会教育法上の社会教育施設として図書館と同列に位置づけられる美術館に関しては、全国美術館協議会が行動指針を2017年になって決定したことをみるように、図書館の取組から時間的に大幅に遅れている。図書館協会の行動指針の中で図書館職員の職責が明らかにされているが、この観点は新聞や放送などの言論報道分野における編集権の独立の問題と通底しており、今後、ますます重要な観点になる(山田健太 2018:93(*13))。この行動指針が絵に描いた餅にならないようにするためには編集権の問題を推進する必要があるが、この問題は具体的には極めて難しい問題であることからひとまずは「学芸員を孤立させ」ないこと(尾崎 2016(*14))が重要である。そうした意味で学芸員どうしの連携を図る取組も必要である。
 また、特に公立美術館や公的資金が投入されているアートフェスティバルのような公的イベントに苦情や抗議が寄せられた場合、施設側や主催者側のその苦情や抗議に対する対応が極めて脆弱だという点も指摘しておきたい。つまり、公的機関にあり勝ちな当該作品を展示すると判断した責任の所在があいまいである結果、窓口職員あるいは現場学芸員にそのクレーム対応が丸ごと押し付けられているという事情も問題である。こうした事態は学芸員や館長の職責が明らかにされておらず、また、公立美術館にあり勝ちな本来最終責任を有している館長が専門家ではなく名誉館長的な存在であるという問題も関係している(*15)。この問題は報道機関における編集権の独立性(*16)との問題と関連が深い。つまり、学芸員や図書館司書の内部的自由の問題である。

*13  山田健太(専修大学教授)は、将来的課題として、「この編集権や内部的自由の再構築が、とりわけ近い将来の日本における言論の自由やジャーナリズム活動を考えるうえで大きなカギになるのではないか。」と述べている。
*14  尾崎信一郎(鳥取県博物館副館長)は、「美術館と摩擦」(『美術評論家連盟会報』web版第6号 2016.の7ページ)において、三つの提案をしている。①「フリーランスで活動できるほど学芸員の立場は強くないため、個人として組織に抵抗することは困難である。表現の自由をめぐっては学芸員を孤立させず、組織として対処することが求められる」、②「検閲や自己規制に関する記録を残すこと」、③「検閲や規制に対抗する手段としてのSNSの有効性である。(中略)匿名性と無責任な拡散がともすればネガティブにとられがちなSNSであるが、隠蔽を本質とする検閲や自己規制に対抗するうえで有効なツールである」。
*15 館長の判断:私立の森美術館の事例では、館長は美術・アートの専門家であり、市民団体から性差別表現だとする抗議があったが、館長名で見解を公表し展示を継続するという最低限ではあるが筋の通った対応を行った。
*16 太下義之はアーツカウンシル(芸術のプロジェクトに助成金を支給する公的機関)のあり方を論ずる著書において、公金を支出す国や自治体とのアームズ・レングスな関係を構築する必要があると述べている。そのために、大学自治や新聞、放送における編集権の独立など異分野から考察し、「専門職能としての自由を保障する手段として、「編集要領」のようなものを制定するという手法も考えられる。これは、アーツカウンシルのPD〔プログラム・ディレクター〕・PO〔プログラム・オフィサー〕においても同様であろう。」と述べている(太下 2017:172)。〔〕内は筆者が補足。

4-5-2. 表現者の倫理
 表現という意味では芸術に隣接あるいは重なり合う分野として新聞、出版、放送、映画などの言論報道・表現分野があるが、これらの分野においては倫理的な取り組みの蓄積(*17)があり、また、公的なインスティチュートとして美術館の類似する図書館では、図書館に関する法レベルの規定には〝自由〟に関する条文がないにも関わらず、関係者が「図書館の自由に関する宣言」(1954年)を制定した事実をみても、当該分野の関係者の意識がかなり昔から高かったことがうかがえる。美術・アート業界・関係者も遅きに失したと言わざるをえないが、こうした事例にもしっかり学ぶことが喫緊の課題なのではないか。

*17 他分野の倫理規定の例:
放送:日本放送協会・一般社団法人 日本民間放送連盟「放送倫理基本綱領」1996
新聞:一般社団法人 日本新聞協会「新聞倫理綱領」2000
出版:一般社団法人 日本書籍出版協会「出版倫理綱領」1957
雑誌:一般社団法人 日本雑誌協会「雑誌編集倫理綱領」1963
広告:公益社団法人 全日本広告連盟「広告倫理綱領」1986
   公益社団法人 日本アドバタイザーズ協会「倫理綱領」2007
   一般社団法人 日本広告業協会「広告倫理綱領」1971
映画:一般財団法人 映画倫理機構「映画倫理綱領」1949
図書館:「図書館員の倫理綱領」1980

5. Result(結果)
 刑法に抵触するような犯罪など法律違反、民主主義を否定するような主張、テロや暴力を肯定するような表現が、アーティスト側の主観からみていかに美術・アート表現の自由だと主張されようとも、許される余地はないということは直感的にだれでもが是認でき、議論をまたない。したがって、その限界事例はどのへんにあるのかということが問題になる。
 もちろん、表現の自由は憲法上の権利の中でも最大限に尊重されるべきものであるということが通説となっている(表現の自由の優越性について(志田 2016:22、阪口 2017:4-17、奥平 1988:8))。ただ、一方で、〈アートは人権侵害することもある〉というような極めてロマン主義的な〈アート無罪〉の考え方にも与することできない。その間の無限にも近いグラディエーションの中で線引きができるのかが論点となる。

5-1. ドキュメンテーションと職責について
 どのような枠組みで納得感のある世論が形成されていくかの課程の透明性が確保されていないことこそ、まずは問題なのではないか。トラブルや批判、介入が起こったとしても、日本的〝大人の対応〟の中で風化していってしまい、事例と議論が積み重ねられていかないもどかしさがある。たとえ時間がかかったとしても起こった事実関係を明確にし、かつそれを公開し、しっかりアーカイブしておくような取り組み、検証を担うような個人・組織・機関の活動の活性化が必要なのではないか。つまり、問題が起こったことに対する説明責任、情報公開が十分でないことが極めて問題なのである。そして、後世の再検証にも資するような資料を残していくことこそ、その時代でその事件に出会った関係者の職責ではないか。放送法や美術館協議会においても職責(成原 2016:39)は関係者に強く求められており、個人として活動するアーティストにおいても職責の埒外とはいえない。

5.2. 関係者の倫理について
 美術・アートは現在、ある意味、学術に接近している側面があると筆者は認識している。そうした中では、学術分野でも憲法レベルで学問の自由が保障されているかたわら、例えば生命の尊厳を軽視するような研究は許されない。これを踏まえると、芸術の分野のみ〝アート無罪〟などと呑気な神話を未だに信じているとしたらそれは時代錯誤といわざるをえない。学問分野ほか他の分野でも取り組まれている倫理上の活動が着実に積み重ねられていることを見習うべき時期が到来していると考えている。(山田創平 2016:webサイト『Don’t exploit my anger! 私の怒りを盗むな』)(*18)

*18 山田は、このwebサイトにおいて、大学の自治や自律というものは研究倫理という考え方によって支えられており、「研究倫理は人命を守るために存在します「人命」は表現の自由、アートがいかに社会規範を攪乱するかといった諸々の議論とは次元が異なる上位概念です。」と述べている。

6. 結論(Conclusion)
 前々項4.考察(Discussion)および前項5.Result(結果)の中でも述べてきたが、今後、美術・アート表現の自由を考える上で重要な課題を3項目列挙することとし、以下のとおり箇条書き的に記して結論とする。
 なお、順番は重要度ではなく、比較的短期間で取り組み実現できるもの、あるいは実現へのハードルが比較的低いものから、取組むことが重要である。

6-1. ドキュメントの作成とアーカイブ化により情報公開、アカウンタビリティを果たすこと
 すでに述べたとおり、発生した事案に関する後世の検証、再検証に耐えうるようなドキュメントを作成し情報公開(ディスクローズ)、かつアーカイブすることが必要である。特に当事者によるドキュメントなど一次資料となるようなものが重要である。
 一般市民からの批判やそれを受けた美術館など施設側からの撤去要請が多発している現在、それらへ対抗できる根拠として表現者側が説明責任(アカウンタビリティ)を果たすとともに、美術館などの内部におけるチェック&バランスを可視化すためにもドキュメント化しディスクローズすることが、いわれなき圧力に対抗する観点からも重要である。事案の発生の緊急性によってはSNSなどでリアルタイムに発信(*19)することも必要である。

*19  「⑦東京都現代美術館の会田家の作品」の事案の場合、会田誠が撤去・改変要請を受けて急きょwebサイトでその事実を明らかにした(神野 2016:64、尾崎 2016)。また、成原もそうした経緯について触れている(成原 2016:49)。また、「⑬府中市美術館の新海覚雄展」の事案においても、担当学芸員が個人のフェイスブックに上司から圧力があったことについて書き込んだことから公になり、結果的に展示は継続された経緯がある。

6-2. 関係者の職責を明らかにするとともに編集権の独立の問題を追求すること
 美術・アートの表現者、関係者としての職責を明らかにすることは、自らの自律を確保するためにも必要である。組織団体に属している者、個人として活動している者いずれにとっても重要である。
 特に団体や組織における内部的自由の観点から、学芸員の専門職としての矜持と名誉に基づいた自律性(*20)を担保するためには、職責を要綱などに規定することによって明らかにすることが重要である。ただし、編集権の独立(*21)については、新聞業界において古く労働運動の時代から課題となっていたにもかかわらず現在も確立していないものであり、極めてハードルが高い。したがって、当面は、学芸員のみならずフリーランスのキュレーターも含めて連携してこの問題を検討する取組が必要である。

*20 前述の美術評論家連盟のシンポジウムにおいて、小勝禮子(栃木県立美術館元学芸員、実践女子大等講師)は、「例えば展覧会を開催することに関しては、担当の学芸員がひとりで決定するわけではなく、当然、館内の学芸員たちの学芸会議や、行政であれ、専門家であれ、館長、副館長というトップの合意を得て開催するわけですね。それに対し、後になって観客の中の誰かが「おかしい。変な作品で、私は見たくない」というような抗議をよこしたからといって、それに対して「はい、わかりました」ということで撤去してしまうなどということは、自分たちの職業の尊厳と名誉を汚す行為であると思うわけです。ですから、美術館にとって、自分たちが展示した作品を取り外すなどということは職業倫理規程上、違反する行為だというふうに、私はICOM〔国際博物館会議〕の倫理規程及び日本博物館協会の行動規範からも考えているわけです。」と発言している(36ページ、〔〕内は筆者が補足)。
 また、中村史子(愛知県美術館学芸員)は、「美術館という場は決して何でも自由にできる場所ではありませんし、私も学芸員という職務上、それはちょっとできないとか、その展示は難しいなということを作家に言うこともしばしばあります。私はそれを職務上、必要不可欠なものとして、ある種、矜持をもって行っています(後略)」と発言している。
*21 「ドイツでは長い議論の末、記事・番組に改変を加えようとする人に理由を説明する義務を課し、現場の記者にはそれを公に問う開示請求権を保障した。」(永井愛 2018:39)

6-3. 関係者の倫理上の取組を強化すること
 前項の職責を明らかにし編集権の独立を確立するためには、倫理上の取組を強化することが不可欠である。そうすることによってはじめて自律を確保することができる。このことも組織団体に属している、いないにかかわらず重要である。業界団体が率先して倫理要綱を策定し、公表することにより、はじめて外部からの批判に対抗できるといっても過言ではなく、取組が急がれる。個人で、ないしはフリーランスとして活動する者も、業界団体の倫理要綱に準拠して活動することが望まれる。
 特に美術・アート表現に社会的リサーチ型の作品が増えていること、作成主体があいまいになる可能性のあるAIを使った作品や、医学倫理に関係する可能性のあるバイオアートも出現している現在、この課題の解決は急ぐ必要がある。まずは、芸大や美大でも医学系・社会学系の大学では常識となっている研究倫理要綱に準じた要綱の制定について至急検討すべきである。

6-4. 結語
 規制すべきか否か、あるいは規制を内面化して自主規制することはけしからん、といった二項対立的な観点は不毛といわざるをえない。表現の自由ばかり声高に叫び、堂々巡りの論議ばかりで不祥事を繰り返し、BPOを設立することになった放送業界の轍を踏むことになりかねないのではないか(*22)われわれは、公権力としたたかに付き合っていくほかないのである。

*22 「⑰京都市立芸大ギャラリー「アクア」における丹羽良徳のデリヘル問題」に関し、山田創平が「今回のようなことが繰り返されると「大学」や「表現の現場」に権力の介入を招きかねない」と述べている。(山田創平,2016)

7. 補遺
 今後さらに深く考察すべき残された観点として、以下の3つを挙げておきたい。

7-1. パブリック・フォーラムと内容規制・内容中立規制について
 「⑤東京都美術館「第18回JAALA国際交流展」の《少女像》」および「⑥東京都美術館「現代日本彫刻作家展」における中垣克久の作品」の事案のように、美術館内で行われた展示では、美術館側が運営要綱を根拠に撤去・改変を要求する場合がある(愛敬 2017:224)。このように要綱などを根拠にした圧力は、形式的には古くはゴミ裁判(*23)や読売アンデパンダン展(*24)の事例などいわば古典的事例に属しているともいえる。ただし、ゴミ裁判や読売アンパンは衛生上など主に政治性以外の事由で撤去などを求められたものであることが前記の2事案とは大きく違う。また、この問題はいわゆるパブリック・フォーラムの問題とも密接に関連している(愛敬 2017:226)。
 すなわち、美術館やギャラリーがパブリック・フォーラムとして位置づけられるかどうかという観点だが、成原はパブリック・フォーラムとはいえないとしている(成原 2016:38)。ただし、筆者の考えとしては、例えば無審査のアンデパンダン展や私立の貸し画廊(*25)であればパブリック・フォーラムと位置付けられるのではないかと考える。ただし、政治的や宗教的であることをもって出品を拒否される内容規制がなくなったとしても、内容中立的な規制はなお残るものと考えられることから、美術館の要綱類における政治性や宗教性の定義の厳密化(*26)を考察する必要がある。なお、政治的中立という規定は、放送法の番組準則でも謳われているが、決して政治的な内容を扱わないということではない。したがって、美術館の運営要綱も政治的な内容の作品を展示してはならないという意味ではなく、政治的内容によって差別的な扱いをしてはならないと解釈・運用すべきことは明白である。
 なお、図書館や美術館と社会教育法上並列に位置づけられている公民館についても、パブリック・フォーラムといえるかどうかの議論があることも併せて考察すべきである(九条俳句訴訟の例。なお、このことは、注記12の中教審答申についても関連する。)。

*23 ゴミ裁判:1970年愛知県文化会館(愛知県美術館の前身)に展示された作品を会館側が衛生上の理由により廃棄したことについて争われた。1975年結審、原告敗訴。
*24 読売アンデパンダン展:1949年に開始された同展は無審査だったこともあり、従来の概念におさまらない作品の出品がエスカレートしたことから、会場の東京都美術館が1962年に「陳列作品規格基準要綱」を制定し、刃物などを使用した危険な作品や腐敗する作品、会場を汚染する作品などを展示拒否したことにより混乱し、1964年の展覧会直前に中止された。
*25 私立の貸し画廊:貸し画廊という日本独自のシステムは、不動産業と揶揄されることもあったが、パブリック・フォーラムという意味では貴重な存在である。
 なお、前述の美術評論家連盟のシンポジウムにおいて、小泉明郎と会田誠から、国内の美術館で展示できなければ海外(オランダ)でやればいいとか、民間のギャラリーがあるからいいという、国内の美術館には期待できない旨の発言(小泉の発言については出席者光田由里からの紹介)があったが、このこともパブリック・フォーラムの問題と関連している。39ページおよび42ページ
*26 愛敬浩二は、「⑨東京都美術館「現代日本彫刻作家展」における中垣克久の作品」の事案について、「中垣氏の作品の撤去を求めた小室明子副館長(当時)は、「税金で運営している以上、政治的中立が求められる」と述べたと報じられているが(朝日新聞2014年4月4日付)、運営要綱は同じ理由から「宗教的中立性」も要求している。副館長は本気で、キリスト教絵画の展示をする場合は必ず、仏教絵画も展示すべきと考えているのだろうか。」と論じている(愛敬 2017:224-225)

7-2. 公権力とのアームズ・レングスな関係について
 前記パブリック・フォーラムの法理も公権力による自由(志田 2016:15.24-25)のひとつとして位置づけられるが、これは公権力からの自由とともに重要な論点である。公権力と敵対するだけの関係では表現活動は不可能な時代と認識すべきであり、公権力とのアームズ・レングスな関係を築くことが重要である。その方法としては、第三者機関の設立や、法務的な相談窓口を業界団体が設置することも視野に含めて取り組むべき(*27)である。現在、英国や国内の先進的自治体では芸術への中間支援組織としてアーツカウンシルが設立されている事例があるが、そうした組織に“公権力からの自由“を確保するための機能を持たせることもひとつの方策と考えられ今後深く考察する必要がある。

*27 弁護士らがプロボノ活動の一環として、NPO法人「Arts&Law」という組織を立ち上げ、アーティストやギャラリーなどからの相談を無料で受け付けている。ただし、今のところ著作権や、民法上の契約の案件が中心であるようである。こういった取り組みが表現の自由といった分野にも拡大されることが期待される。

7-3. インターネット上の表現について
 インターネットのwebサイトについては現在、誰でもがアクセスし閲覧および書き込み可能な情報空間となっており、「公然性のある通信」として、ほぼ放送と類似のものとなっている。そして、その媒体力もたとえば代表的なSNSであるTwitterのフォロワー数がそれなりに大きければ媒体力を持つことになる(*28)。この論点は、ヘイトスピーチの問題とも深く関わるものであり、インターネット上での美術・アート表現が増加する可能性が高いことを踏まえると今後考察する必要がある分野である。

*28 エジプト議会は、2018年7月15日、フォロワー数が5000を超えるTwitterの個人アカウントを報道機関として扱い、報道規正法の対象にするという法案を可決した。議会のこの動きは、政府批判を封じることになると反発も強いとの報道あり。
https://www.bbc.com/japanese/44881875

8. 参考文献(References)
・奥平康弘,1988,『なぜ「表現の自由か」』財団法人 東京大学出版会.
・日本図書館協会 図書館の自由委員会,2008,『図書館の自由に関する事例集』公益社団法人 日本図書館協会.
・金澤薫,2012,『放送法逐条解説』情報通信振興会.
・志田陽子、成原慧、神野真吾,2016,「表現の自由・不自由」社会の芸術フォーラム運営委員会 北田暁大,神野真吾,竹田恵子編『社会の芸術/芸術という社会』,13-74.
・成原慧,2016,「制度としての美術館、あるいは表現の「場」と媒介者」『社会の芸術/芸術という社会』社会の芸術フォーラム運営委員会 北田暁大,神野真吾,竹田恵子編,2016,35-55.
・神野真吾,2016,「フォーラム総括 表現の自由と規制との間で考えるべきこと」『社会の芸術/芸術という社会』社会の芸術フォーラム運営委員会 北田暁大,神野真吾,竹田恵子編,2016,57-74.
・太下義之,2016,『アーツカウンシル――アームズ・レングスの現実を超えて』水曜社.
・ARTISTS’GUILD+NPO法人芸術公社編,2016,『あなたは自主規制の名のもとに検閲を内面化しますか』torch press.
・阪口正二郎,「表現の自由はなぜ大切か―表現の自由の「優越的地位」を考える」坂口正二郎ほか編『なぜ表現の自由か』法律文化社,2017,26-48.
・毛利透,「表現の自由と民主政―委縮効果論に着目して」坂口正二郎ほか編『なぜ表現の自由か』法律文化社,2017,26-48.
・横大道聡,「表現の自由に対する「規制」方法」坂口正二郎ほか編『なぜ表現の自由か』法律文化社,2017,49-63.
・愛敬浩二,「公立美術館の利用と政治的中立性」坂口正二郎ほか編『なぜ表現の自由か』法律文化社,2017,224-228.
・志田陽子,2018,「表現の自由とは」志田陽子編『あたらしい表現活動と法』武蔵野美術大学出版局,17-48.
・志田陽子,2018,『表現の自由の明日へ』大月書店.
・山田健太,2018,「ジャーナリズム法(言論法)の現状と課題」鈴木秀美編『メディア法研究創刊第1号』信山社,73-94.
・西土彰一郎,2018,「放送法の思考形式」鈴木秀美編『メディア法研究創刊第1号』信山社,95-113.
・辻田真佐憲,2018,「空気の検閲の歴史と教訓」『新聞研究』日本新聞協会,2018.11.1,8-11.
・永井愛,2018,「記者個人を守る制度改革を」『新聞研究』日本新聞協会,2018.11.1,36-39.
・山田創平,2016,「表現の自由を守るために」webサイト『Don’t exploit my anger! 私の怒りを盗むな』2016.2.14.
http://dontexploitmyanger.tumblr.com/post/139271998817/表現の自由を守るために
・美術評論家連盟2016年度シンポジウム「美術と表現の自由」当日記録(2016年7月24日東京都美術館講堂にて開催)。同連盟webサイトにアップロード2016.9.21.
・尾崎信一郎,2016,「美術館と摩擦」『美術評論家連盟会報』web版第6号の7ページ。同連盟webサイトにアップロード2016.11.24.

「別表」
わが国の美術・アート分野において2010 年以降、表現の自由に関して問題となった事例(①~③:性的表現、④~⑯:政治的表現、⑰~⑳ その他)
【公的】:公的施設を使用したり、公的資金が入っている展覧会、【市民】:市民等の通報により問題視が始まったもの】
① ろくでなし子事件:2013 年
 3D データの配布はわいせつ物頒布等の罪で有罪、デコまんの配布に関しては無罪が確定(Wikipedia等)。
② 森美術館の会田誠「天才でごめんなさい」展:2013 年【市民】
 一部の作品に対し、性暴力・児童ポルノ問題等を扱うNPO 等が抗議(NPO のweb サイト、森美術館のweb サイト)。
③ 愛知県美術館「これからの写真」展における鷹野隆大の作品:2014 年【公的】【市民】
 会期開幕後、匿名の市民からの通報を受けたという警察が猥褻物陳列罪に触れるおそれがあるとして撤去を指導。作家と協議して作品の一部を紙と布でおおう(美術館の研究紀要及び同web サイト))。
④ Chim↑Pom《ピカッ》騒動:2008 年【公的】【市民】
 広島市現代美術館での個展の作品制作のために青空に飛行機雲で描いた「ピカッ」が市民等から問題視され、個展が取りやめ(書籍『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』)。
⑤ Chim↑Pom《明日の神話》事件:2011 年
 岡本太郎の《明日の神話》に勝手にベニヤ板の絵が継ぎ足された。軽犯罪で書類送検(Wikipedia)。
⑥ 福島第一原子力発電所指さし作業員:2011 年
 防護服の作業員がライブカメラに向かって指をさした(ART iT)。
⑦ 新宿ニコンサロンの慰安婦写真の展覧会:2012 年
 新宿ニコンサロンの安世鴻(アン・セホン)の「重重中国に残された朝鮮人元日本軍『慰安婦』の女性たち」展に対し、ニコンサロン側から開催取りやめの通告。作家側が東京地方裁判所に提出した仮処分申請が認められ、写真展は一転して予定通り開催(web サイトartscape)。
⑧ 東京都美術館「第18 回JAALA 国際交流展」の《少女像》:2012 年【公的】
 同展に出品された慰安婦をテーマとしたキム・ソギョン&キム・ウンソンの《少女像》等が、同美術館の運営要綱に抵触するとして撤去(「表現の不自由展」カタログ2015 年ギャラリー古藤)。
⑨ 東京都美術館「現代日本彫刻作家展」における中垣克久の作品:2014 年【公的】
 都美術館は運営要綱で、「政治・宗教活動をするためのものと認められる」場合は、施設の使用を認めないと規定。中垣氏の作品には、総理の靖国参拝や政府の右傾化を批判する文言が入っており、これが要綱に抵触すると判断され、美術館側から撤去要請を受け、この部分を撤去した(independent web journal)。
⑩ 東京都現代美術館「ここはだれの場所?」展における会田家及び会田誠の作品:2015 年【公的】【市民】
 会期開幕後、チーフキュレーターと企画係長から、出品作のうち2 作品に対する撤去要請。経緯としては美術館友の会会員1 名からのクレームがあったことと、東京都庁の部署からの要請があったことをうけ、美術館として協議・決定。ただし、その後も展示は継続された(ITmedia㈱「ねとらぼ」)。
⑪ 広島市現代美術館「ふぞろいなハーモニー」展におけるリュー・ディンの作品:2015 年【公的】
 中国政府の輸出許可が出なかった上、作家がデータを送りそれを美術館がプリントアウトするという作家の提案を美術館が拒否。(web サイトREALKYOTO)。
⑫ 東京都現代美術館「キセイノセイキ」展(藤井光と小泉明郎の作品):2016 年【公的】
 藤井光《爆撃の記録》に使用するため、計画が凍結されている仮称東京都平和祈念館の資料を借用しようとしたが許可されなかった。(artscape 福住廉のレビュー)。小泉明郎《空気》が展示できず付近の私立ギャラリーで展示(web 版美術手帖、当該画廊のweb サイト)。
⑬ 府中市美術館の新海覚雄展:2016 年【公的】
 同展の担当学芸員が上司から展示の見直しを指示されたとフェイスブックに投稿(当該学芸員フェイスブック)。
⑭ 群馬県立近代美術館「群馬の美術2017」における白川昌生の作品:2017 年【公的】
 《群馬県朝鮮人強制連行追悼碑》が美術館の判断で会期開幕直前に出品取り消し、撤去(Buzz Feed News)。
⑮ 岡本光博《落米(らくべい)のおそれあり》:2017 年【公的】【市民】
 沖縄の地域アートプロジェクトで開幕直前、地元の反対でベニヤ板で覆われる(作者のweb サイト、web 版美術手帖、ハフポスト日本版)。
⑯ ヤノベケンジ「サンチャイルド」撤去:2018 年【公的】【市民】
 福島市の教育文化複合施設「こむこむ館」前に設置したサンチャイルドが、市民から風評被害を広めるなどと批判され、1 ヶ月あまりで撤去(web 版美術手帖)。
⑰ 京都市立芸大ギャラリー「アクア」における丹羽良徳のデリヘル問題:2016 年【公的】【市民】
 ギャラリー「@KCUA」で、丹羽良徳が《88 の提案の実現に向けて》というワークショップ形式の作品を発表。そのうちの1つ「デリバリーヘルスのサービスを会場に呼ぶ」の実現を検討するワークショップを開催。批判が起きた(京都HAPS web サイト)。
⑱ 札幌国際芸術祭のゲストハウスでの展示中止:2017 年【公的】【市民】
 企画者側等の管理不備により、ゲストハウスに設置された作品に対してゲストハウスのオーナーが展示継続を拒否し撤去(北海道新聞の報道、ゲストハウスのオーナーのweb サイト)。
⑲ 六本木のギャラリーにおける「ブラックボックス」展:2017 年【市民】
 真っ暗な展示室内で痴漢が発生。被害者が提訴(ハフポスト日本版)。
⑳ 国立新美術館における「東京五美大卒制展」:2018 年【公的】
 同展の搬入時に、美術館側から肖像権侵害と外国人及び人種差別への抵触を理由として撤去指示(美術評論家連盟のweb サイトの公開質問状)。

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【補論】アートが表現される「場」における自由と規制について|パブリック・フォーラム、インターネット上の表現~

※以下の補論は、上記論文を補足するために同時期に執筆しAMSEAに提出したものです。

1. 本稿の目的
 アート表現は、メディア(=媒介者)を通じて行われる。成原はそれを〈場〉と呼んでいる(成原 2016:36)。
 〈場〉には、美術館やギャラリーのほか、公園、広場、路上など街なかの公共空間もある。地域アートやアート・プロジェクトと呼ばれる種類の展覧会は、そうした街なかの〈場〉で行われるケースも多い。そのほか、インターネット空間も〈場〉となることが今後ますます増加してくると考えられる。
 アート以外の領域においても、デモなど政治的アクティビズムは道路や公園で行われる。集会は市民会館やホテルなどで催される。アートがアクティビズムなどの領域にも外延を拡張させ、境界的な表現が増え自由と規制が衝突する事案が発生している現在、アート表現の〈場〉における自由と規制について考察することは、アートと社会の関係を考えるうえで重要な局面となってきている。
 なお、本稿では、わが国近代の絵画、彫刻など造形美術の系譜に連なる戦後現代美術・現代アート分野を念頭に〈アート〉と記述している。文芸や舞台芸術、映画、音楽などは基本的に考察の対象としていないが、書店、図書館、劇場などでも表現の「場」という観点で、表現の自由にからむ事案が発生しており(注1)、同様の問題を抱えていると考えている。

2. 考察の方法・前提
 こうした〈場〉における表現の自由と規制について考察するにあたり、まず、パブリック・フォーラムの法理を確認した。さらに、表現の規制の方法である内容規制と内容中立規制という考え方も整理した。そのうえで〈場〉を美術館などの実空間の場合と、インターネット空間という仮想空間の場合との2つのケースに分け、さらに、実空間の場合を自治体の美術館などの公共施設の場合と、画廊・ギャラリーなどの民間施設の場合との2つのケースに分けて考察した。
 なお、放送法など隣接領域の制度も参照モデルとしつつ考察した。

2-1. パブリック・フォーラム
 パブリック・フォーラムの法理とは、政府や自治体が所有・管理する道路や公園など公共の場を、誰でもが集会やデモなどの表現活動のために自由に利用できるとする考え方である(成原 2016:38)。わが国における判例として代表的なものとしては、市民会館の使用不許可処分の合憲性が争われた泉佐野市民会館事件の最高裁判決があげられる(成原 2016:38)。
 泉佐野市民会館事件の最高裁判決の概要は、自治体が市民会館等の集会の用に供する施設の利用を「正当な理由」なく拒否することは、憲法の保障する「集会の自由」の不当な制限につながる。その上で、自治体が市民会館の利用を拒否できるのは、①施設の性質上利用を認めるのが相当でない場合や、②利用の希望が競合する場合のほか、③人の生命、身体または財産が侵害され、公共の安全が損なわれる明らかな差し迫った危険が具体的に予見される場合と判示したものである。(1995年最高裁判決、志田 2018:112-113)
 また、類似の判例として、上尾市福祉会館事件においても「公の施設の利用を拒むことができるのは、(中略)警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られる」と判示している(1996年最高裁判決)。

2-2. 表現内容規制、表現内容中立規制
 表現の規制の方法については、内容規制、内容中立規制という考え方がある。表現の内容規制とは、ある表現をそれが伝達するメッセージを理由に制限する規制をいい、表現内容中立規制とは、表現をそれが伝達するメッセージの内容や伝達効果に直接関係なく制限する規制でその中心の類型は時・所・方法の規制であるとされる(横大道 2017:49)。
 さらにパブリック・フォーラムで内容規制を正当化するためには、やむにやまれぬ利益を達成するために必要不可欠な規制であること、その目的を達成するために厳格に適合した規則であることを証明しなければならず、厳格審査が適用されるとしている(塚田:100、横大道 2017:56-57)。

3. 考察
3-1. 実空間の〈場〉におけるケース
3-1-1.  自治体の美術館など公共施設における貸館事業の展覧会のケース
 自治体などが設立した公的美術館のほぼ全てで、美術館が主催するいわゆる企画展や常設展のほか、展示室を外部に貸し出す貸館事業の展覧会が催されている。企画展や常設展は、学芸員という文化専門職としての専門的判断に基づく自由と責任において開催されるものである(成原 2016:39)ことから、パブリック・フォーラムでないことは了解できる。さらに成原は美術館のこの非パブリック・フォーラム部分に着目して、富山県立美術館の大浦信行作品の事件や愛知県美術館の鷹野隆大の作品の事案、東京都現代美術館の会田家の《檄》の事案を俎上に載せて、自由と規制について論考を重ねている。そこで、筆者は、本稿において、残りの貸館事業について論考することとした。なお、先行研究においても、企画展である富山県立美術館の大浦信行作品の事件と、貸館事業の展覧会である後述の東京都美術館「現代日本彫刻作家展」における中垣克久の作品の事案を比較して論じており、参考とした(愛敬 2017:225-227)。
 貸館事業の展覧会は、いわゆる公募団体展のような大きな展覧会から地元市民の趣味サークルの発表会のような小さなものまで様々である。また、貸館も東京都美術館のような大きな施設から市民会館・公民館のような小さな施設まである。貸館が公共施設である場合、市民に対する公平性の観点から、先着順や抽選といったルールはあるものの、一定の要件を満たせばどのような団体でも基本的には申し込めることから、この貸館事業における展示室はパブリック・フォーラムと位置づけられ、指定的パブリック・フォーラムと整理される(塚田 2017:100)。
 美術館における貸館事業においても、展示撤去など実際にトラブルとなった事例が発生している。最近の典型例としては、東京都美術館「第18回JAALA国際交流展」の慰安婦《少女像》の事案および、東京都美術館「現代日本彫刻作家展」における中垣克久の作品の事案が挙げられる。事案の概要を簡記する。東京都美術館「第18回JAALA国際交流展」の慰安婦《少女像》事案は、2012年、同展に出品された慰安婦をテーマとしたキム・ソギョン&キム・ウンソンの《少女像》等が、同美術館の運営要綱に抵触するとして撤去された事案である。東京都美術館「現代日本彫刻作家展」における中垣克久の作品の事案は、2014年、東京都美術館は運営要綱で「政治・宗教活動をするためのものと認められる」場合は、施設の使用を認めないと規定しており、中垣氏の作品には総理の靖国参拝や政府の右傾化を批判する文言が入っており、これが要綱に抵触すると判断された事案である。
 この2つの事案は、美術館側が運営要綱を根拠に撤去・改変を要求した例である。撤去を要請した根拠規定は、「特定の政党・宗教を支持し、又はこれに反対する等、政治・宗教活動をするためのものと認められるとき」(注2)であるが、ここでいう「政治活動」の解釈が焦点となる。すなわち、美術館側は、政治的中立が要請される自治体としては特定の政治的主張をする作品に場所を提供することはできないという考えである。
 こうした内容規制は、既述の「やむにやまれぬもの」とは考えられないことから、基本的には違憲の可能性が高いといわざるを得ないが、そのことは留保しつつさらに考察を進める。

3-1-2. 政治的中立について
 政治的中立という規定は、放送法の番組準則(放送法第4条第1項第2号)(注3)でも「政治的に公平であること」という文言で謳われているが、決して政治的な内容の番組を放送しないということではなく、公平に扱わなければいけないと解釈、運用されている。(なお、時間的公平か、質的公平かという点についてはNHKと民間放送で意見が割れている。)したがって、美術館の運営要綱においても政治的な内容の作品を展示してはならないという意味ではなく、政治的内容によって差別的な扱いをしてはならないと解釈・運用すべきである。
 公共施設における「政治的中立」については、さいたま市三橋公民館だよりに憲法九条を詠んだ俳句が掲載拒否された事件の判例も例証となる。この訴訟について、さいたま地裁は「本件俳句を本件たよりに掲載しないことにより、三橋公民館が、憲法9条は、集団的自衛権の行使を許容するものと解釈すべきとの立場に与しているとして、上記立場と反対の立場の者との関係で、行政に対する信頼を失うことになるという問題が生じるが、(中略)この点について何ら検討していないものと認められる」、「法律上保護される利益である本件俳句が掲載されるとの原告の期待が侵害されたということができるから、三橋公民館が、本件俳句を本件たよりに掲載しなかったことは、国家賠償法上、違法というべきである」と判示した(佐藤・安藤・長澤 2018:160,162)。(なお、この地裁の判決は高裁を経て、2018年12月20日、最高裁で確定している。)これも放送法の政治的公平の考え方と同様である。つまり、一方の意見を掲載しないという判断は、公平に扱わなければいけないということに反する可能性があるということである。また、放送法の番組準則第1項第4号「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」も、そういう考え方に基づいた規定である。
 さらにもうひとつ観点を加えるなら、放送法においても、ひとつの番組に着目して、政治的公平を判断するのでなく、その放送局の番組全体のバランスの中で、判断すべきという考えが従来の主流である(金澤 2012:60)(注4)。そう考えれば、「第18回JAALA国際交流展」なり、「現代日本彫刻作家展」なりを展覧会全体として捉えてもなおかつ“政治活動”といえる美術展だったのかを判断すべきであった。この点、先行研究も、同様に判断している(愛敬 2017:228)。
 なお、泉佐野市民会館の判例で示された判断基準に照らしても、当該作品を展示することにより、公共の安全が損なわれる明らかな差し迫った危険が具体的に予見される場合ともいえない。この点も、先行研究は、泉佐野市の判例を引いて批判しており(愛敬 2017:227)、筆者との意見の一致をみている。

3-1-3.  画廊・ギャラリーなどの民間施設の展示空間のケース
 次に、民間のギャラリー等の公共施設でない展示空間について考察する。本稿では新宿ニコンサロンの慰安婦写真の展覧会の事件を事例として考察する。
 ニコンサロン事件は、2011年新宿ニコンサロンで展覧会が決まっていた安世鴻(アン・セホン)の「重重 中国に残された朝鮮人元日本軍『慰安婦』の女性たち」展で起きたものである。展覧会の告知直後、ニコンに抗議が殺到したことを恐れ、ニコン側が開催1か月前に一方的に取りやめを作家側に通告した事案で、作家側が東京地方裁判所に提出した仮処分申請が認められ、写真展は一転して予定通り開催された。ただ、大阪展は開催できず、その後、作家側が訴えを起こし、原告が勝訴したものである。
 2015年の東京地裁判決は、ニコンと作家との間に写真展の開催契約が成立していたことを認めた上で、中止決定をニコンが原告となんら協議することなく、一方的に写真展の開催を拒否したものであり、原告の表現活動の機会を奪うものであり不法行為に該当するというものだった(安・李・岡本 2017:6)。なお、この地裁判決に対し、ニコン側は控訴しなかったことからこの判決が確定している。
 民間ギャラリーは、営業の自由・契約の自由の原則から、パブリック・フォーラムではないことは議論を俟たない。しかし、判決では、「(ニコン側が)警察当局にも支援を要請するなどして混乱の防止に必要な措置をとり、契約の目的の実現に向けて努力を尽くすべきであり、そのような努力を尽くしてもなお重大な危険を回避することができない場合にのみ、一方的な履行拒絶もやむを得ないとされるのであって、被告会社が原告と何ら協議することなく一方的に本件写真展の開催を拒否したことを正当とすることはできない」と判示している。
 泉佐野市民会館の事案と比べても、非パブリック・フォーラムであることを加味しているものの、民間施設といえども契約関係が成立している以上、表現の自由の〈場〉を確保する相当の努力の義務が生じるとの判断であるといえる。

3-2. インターネットにおけるアート表現について
 一方、インターネットは、公然性を有する通信として放送類似サービスが提供されている。したがって、ネット空間は誰でもがアクセス、閲覧、書き込みできる仮想空間である。インターネットをパブリック・フォーラムと位置づける先行研究は見つけられなかったが、筆者としては、民間インフラ上に構築されてはいるものの、吉祥寺駅ビラ配布事件の伊藤正己最高裁判事の補足意見(注5)を参照すれば、ネット空間はパブリック・フォーラムであると考える。インターネットという〈場〉を通じたアート表現が今後も増えることが想定されることから、そうした場合の自由と規制についても考察しておく必要がある。
 仮にネット空間がパブリック・フォーラムだとすれば、それを内容規制しようとすれば既述のとおり厳格審査が求められる。しかし、ネット空間でも実空間同様、他者の権利を侵害する情報を流すことは表現の自由とはいえないことは議論を俟たない。こうした観点で、問題が先鋭化しているのはヘイトスピーチの問題である。筆者は、基本的にはヘイトスピーチは特別法で禁止されるべきだと考えている。それは委縮を引き起こし、対抗言論が不可能になるからである。ヘイトスピーチについては、本稿ではこれ以上深入りしないが、ヘイトスピーチは特別法で規制したとしても、インターネット全体として、どの程度どのように規制されるべきなのか、プロバイダ等はどの程度どのように規制の担い手――門番(gatekeeper)(成原 2016:37-38)になるべきなのかについてさらに考察を進める。
 インターネットにおいては、民法の特別法としてプロバイダ責任制限法(「特定電気通信役務提供者の損害賠償責任の制限及び発信者情報の開示に関する法律」2002年5月27日施行)が制定されている。他者の人権・権利を侵害するような書き込みなどについては、業界団体がプロバイダ責任制限法ガイドライン等検討協議会を設立し違法・有害情報相談センターを相談窓口として設けるなど最低限の対応はなされている。しかし、インターネットが、放送など従来のマスコミの媒体力に迫るような影響力を持ちつつある現在、プロバイダやプラットフォーム事業者、サイト運営者は放送制度に準じたもう一段踏み込んだ取組が必要な時期にきている。すなわち、放送法に定めるような編集準則やそれに基づいた内部規程の充実、時間を要する司法手続きによらず簡易な方法で人権などの侵害の苦情が迅速に処理できるような放送業界における放送倫理・番組向上機構(BPO(注6))に相当するような準司法的機能のある第三者機関の設立、あるいは既存団体におけるこうした機能の追加強化が望まれる。
 放送制度では、例えば生放送の番組で出演者が真実でない発言をし他人の権利を侵害してしまった場合、放送事業者も責任を問われる。民事上の損害賠償の責任とともに、放送法独自の訂正放送(放送法第9条)という事後救済制度も実行しなければならないことになっている。
 とはいえ、ネット空間の情報の巨大さを考慮すれば、ネット業界の自主的取組みにも限界があることから、例えば問題情報のサーベイランスを目的としたAI(人工知能)によるアーキテクチャー技術への投資を公的機関が支援し活用するなど、より一段踏み込んだ取組が望まれる。

4. まとめ
 以上のとおり、アート表現が行われる〈場〉における自由と規制をケース分けして論考してきたが、まとめと若干の補足を以下に述べる。特に争点となるのは、パブリック・フォーラムか否かという観点とともに、その〈場〉を規制する方法として内容規制がある場合、特に「政治的中立」をどう考えるかということになる。
 アートを「思想又は感情を創作的に表現したもの」という著作権上の定義としてとらえ直すなら、政治的に無色透明な表現ばかりということはありえない。アート表現も憲法第21条に含まれる表現である以上、言論という側面を帯びる作品が生まれることも当然である。むしろ政治的な内容を含んだ表現が民主主義を深めるための表現の自由であるなら、政治的な作品であることをもって公的空間の管理者が展示を拒否する内容規制は憲法に反する可能性が高いといわざるをえない。
 一方、インターネット空間が仮にパブリック・フォーラムと位置付けられるとすれば、規制に厳格性が求められるものの、ヘイトスピーチのような到底表現の自由とはいえない表現が横行している現状を踏まえると、ネット事業者はメディアとしての自覚をさらに深め、他者の権利を侵害する行き過ぎた表現については、〈門番(gatekeeper)〉としての役割を一層果たすべきと考える。
 さらに、ギャラリー等の民間施設においても、ヘイトスクラムとさえいえる暴力的な威嚇が表現を萎縮させている事例がある現状をみると、表現の〈場〉が狭められる可能性が極めて憂慮される。例えば総会屋対策などの反社会的勢力に対する対応のように官の協力を得た総合的な施策、つまり〈権力による自由〉(志田 2016:25)によって表現の〈場〉を確保する取組が必要と考える。筆者は、公権力による表現の自由への抑圧はもちろん問題と考えるが、こうした公権力以外の勢力による威圧こそ、今後、時代を窒息的なディストピアにしかねない重大な問題を内包していると考える。単に表現の自由を声高に掲げるだけでなく、公権力による規制は絶対悪であるという先入観から脱却し、もちろん厳格な運用の前提で公権力による規制が自由を保障する場面もあり得る(水野 2017:6-8)との発想に転換するべき時代にさしかかっていると述べて、本稿を締めくくりたい。


注1) 書店、図書館の事案
 2015年10月、MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店で実施されていた「自由と民主主義のための必読書50」と題するブックフェアを中止した事案。2001年8月、船橋市西図書館の司書が勝手に図書を廃棄し著作者の人格的利益を侵害した事件(2005年7月最高裁判決)

注2) 東京都美術館条例(抜粋)
(使用の承認)
第3条 (略)
2 知事は、次の各号のいずれかに該当するときは、前項の使用の承認をしないことができる。
  1 館の秩序を乱すおそれがあると認められるとき。
  2 館の管理上支障があると認められるとき。
  3 申請に係る施設等を知事が必要と認める事業に使用するとき。
  4 前3号に掲げるもののほか、知事が不適当と認めるとき。

東京都美術館運営要綱(抜粋)
(施設等使用の不承認基準-条例第3条関連)
第4 条例第3条第2項第4号の規定により館の施設及び附帯設備(以下「施設等」という。)の使用の承認をしないことができる場合とは、次の場合をいう。
(1)館の設置の目的に反すると認められるとき。
(2)実施する事業が公序良俗に反し、又は施設等を損傷・滅失させる恐れがあると認められるとき。
(3)実施する事業が特定の政党・宗教を支持し、又はこれに反対する等、政治・宗教活動をするためのものと認められるとき。
(4)実施する事業が専ら営利を目的としたものであるとき。
(5)東京都又は指定管理者の事業を行うために必要であると認められるとき。
(6)その他指定管理者が不適当と認めるとき。

 なお、参考として、国立新美術館の「展示室等及び備品貸付規則」該当部分も以下に掲げる。
(使用の取消等)
第14条 次の各号のいずれかに該当するときは、館長は展示室使用者に対して、展示室等及び備品の使用許可を取消し、又は制限し、若しくはその使用を停止することができる。
1~4 (略)
5 特定の宗教・政党を支持し、又は反対し、若しくは宗教活動・政治活動をするとき
6~11 (略)

注3) 放送法の番組準則
〔国内放送等の放送番組の編集等〕
第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
 一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
 二 政治的に公平であること。
 三 報道は事実をまげないですること。
 四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
2 (略)

注4) 番組全体かひとつの番組か
 2016年衆議院で、高市早苗総務大臣が、放送事業者が放送法違反を繰り返した場合、放送電波の停止を命じる可能性もあり得る旨を発言した。また、番組編集準則における政治的公平について、基本的には一つの番組というよりは、放送事業者の番組全体を見て判断する必要があるとしつつも、例えば、選挙期間中又はそれに近接する期間において特定の候補者のみを相当の時間にわたり取り上げる特別番組を放送した場合や、国論を二分するような政治的課題について、一方の政治的見解を取り上げず、ことさらに、他の政治的見解のみを取り上げて、それを支持する内容を相当の時間にわたり繰り返す番組を放送した場合などは、たとえ一つの番組でも政治的公平性の要請に反することになり得るとの見解も示している(齊藤 2017:241-242)。

注5) 伊藤最高裁判事の補足意見
 「一般公衆が自由に出入りできる」道路、公園、広場などの「表現のために場として役立つ」場所に関しては、「本来の利用目的のための管理権に基づく制約を受けざるをえないとしても、その機能にかんがみ、表現の自由の保障を可能な限り配慮する必要がある」とした(中川 2017:238)。

注6) BPO
 放送倫理・番組向上機構(Broadcasting Ethics & Program Improvement Organization:直接的な前身の設立は1997年)。NHKと民間放送局が設立した第三者機関。放送局が受ける様々な圧力から自主自律の独立性を担保するとともに、視聴者に対し番組で人権侵害した場合などの苦情申し立て対応、訴訟に至る前段階の事案を扱う機関として準司法的機能を有しており、放送番組に対する倫理勧告や業界人のコンプライアンス教育などを行っている。


【参考文献】
(先行研究)
・成原慧,2016,「制度としての美術館、あるいは表現の「場」と媒介者」『社会の芸術/芸術という社会』社会の芸術フォーラム運営委員会 北田暁大,神野真吾,竹田恵子編,2016,35-55.
・愛敬浩二,2017,「公立美術館の利用と政治的中立性」坂口正二郎ほか編『なぜ表現の自由か』法律文化社,2017,224-228.

(その他の参考文献)
・金澤薫,2012,『放送法逐条解説』情報通信振興会.
・志田陽子,2016,「制度としての美術館、あるいは表現の「場」と媒介者」『社会の芸術/芸術という社会』社会の芸術フォーラム運営委員会 北田暁大,神野真吾,竹田恵子編,2016,13-33.
・横大道聡,2017,「表現の自由に対する「規制」方法」坂口正二郎ほか編『なぜ表現の自由か』法律文化社,2017,49-63.
・塚田哲之,2017,「集会・結社の自由」坂口正二郎ほか編『なぜ表現の自由か』法律文化社,2017,94-109.
・齊藤愛,2017,「報道の自主規制と表現の自由」坂口正二郎ほか編『なぜ表現の自由か』法律文化社,2017,241-244.
・中川律,2017,「JR大阪駅前街宣活動事件」坂口正二郎ほか編『なぜ表現の自由か』法律文化社,2017,235-240.
・安世鴻(アン・セホン),李春熙(リ・チュニ),岡本有佳,2017,『《自粛社会》をのりこえる 「慰安婦」写真展中止事件と「表現の自由」』岩波書店.
・水野祐,2017,『法のデザイン』フィルムアート社.
・佐藤一子,安藤聡彦,長澤成次,2018,『九条俳句訴訟と公民館の自由』㈱エイデル研究所.
・志田陽子,2018,『表現の自由の明日へ』大月書店.

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