刷り込まれた「思い込み」を捨てる勇気
「ふつう〜だよね」「みんな〜してるよ」「だいたいダメになるよ」
よくよく意識してみると、結構頻繁に聞こえてくるフレーズ。
じゃあ聞きたいっ!
「ふつう」。どこからどこまでが普通?どれくらいやれば普通?
「みんな」。何人くらい?どこに住んでいる人のどんな年齢層の何人中の何人?
「だいたい」。これもどれくらいの割合で?
これらを突き詰めて聞かれると、僕なら間違いなく口を紡いでしまうだろう。
こういった、おおまか〜な ざっくりした言い方を
Neuro Lingistic Programming(神経言語プログラミング)では
「一般化」と読んでいる。
この「一般化」は人の脳に「へえ〜そうなんだ」と思い込ませやすい性質を持った言葉のテクニックで、洗脳や催眠、マーケティングなどでも使われている。
ところが、多様化のこの時代に、
これらの「一般化」の手法は少しずつ効力を失いつつある。
多様化をもたらしたのはインターネットの出現が一つの要因である。
1950年代からインターネットの研究は進められてきたが、サービスとして実用化され始めたのは1980年代末徐々にスタート。
まだ、一般の人に馴染みがなく、2001年には情報の総数の51%、2007年にようやく97%がインターネットによって情報化され、その後の躍進で今がある。(wikipedia先生より)
インターネットが一般に普及するまでの、情報の伝達の仕方は、
①ブラウン管の中
②本や新聞、雑誌などの紙媒体
③人の言葉
が主だった。
だから、多くの人はそういった限られた媒体から仕入れた情報によって、価値観や思想を育てていった。
つまり、発信力や影響力を持った一部の人たちによって、社会全体の価値観や思考がコントロールされていた。といっても大げさではないと思う。
それはどんなに小さな組織や団体でも当てはまる。
年功序列や縦社会、男女の立ち位置の違い、気合いと根性と武士道、恥の精神・・・
こういった思考が「当たり前」だった頃、そこに馴染めない人たちは非常に窮屈な思いをしていた。(私を含め)
もちろん、日本文化ならではの良さや美しさの様に、大事にしたい部分もある。
が、文明の発達と擦り合わなかったり、一部の人たちにとって都合よく取り変えられた部分もある。
少しずつ歪みになり、浮き彫りになってきているが。
そして、「耐え忍ぶ」ことが美徳とされているこの国では、胸の奥に生きづらさを抱え、うまく処理できなかった人が起こしたニュースを、テレビの中で、スポーツコーナーを終えたばかりのキャスターが、急に表情を変えて、「信じられない!」というような口調で語っていた。
その風景は今も変わらない。
しかし、インターネットが台頭してからは、少しずつ社会全体の様子が変わってきたことは、多くの人が感じることだと思う。
個人や、小さな組織からの発信が広がり、大手の企業や政治家などの巨大な組織に集まっていた力が分散し始めた。
この国で生きるには「それしかないんだ!」と思っていた価値観、思想が揺らぎ始めた。
マツコデラックスさんとか、ミッツマングローブさんとか中性的な人が出てきたり、栗原類さんとか さかな君とか 黒柳徹子さんとかASD(発達障がい)を明らかにしたり。
多様な人の存在が当たり前に見られるようになってきた。
幸運にも、僕はそんな変化に富んだ環境の中で学生時代を過ごすことができた。
現に、僕自身も ある特殊な人に惹かれ、人生が変わった人間の一人である。
実習でお世話になった特別支援学校の生徒(言葉の出ないASDの男の子)が、校外学習の道すがら、タバコの自販機の前で立ち止まり、じっと佇むこと10分。
教室に帰って取り憑かれたように描いた一枚の絵には、さっき見つめていた タバコの自販機(タバコの銘柄も全て記憶して)が精巧に。写真みたいに。
ただただ度肝を抜かれました。
喋れなくても、その他大勢に適応できなくても、ある部分が特化していればカッコいい!できない部分は、できる人に補ってもらえばいい!
そういった感覚が今の仕事にもつながっているし、今の社会の見方にもつながっていると思う。
ちょっと10数年前まで「男は〜でなきゃいかん!男子厨房に立たず!」とじいちゃんに怒られていたのに、今ではイクメン男子もいれば草食系男子もいる。(これも古い?)
つまり、様々なフレームが溶け、多様な価値観(ダイバーシティ)の世の中になってきている。
「正解」はなく「最適解」。
「情報処理力」よりも「情報編集力」。
「ふつう」とか「みんな」とか「〜じゃなきゃいけない」とかいう概念がなくなってきているのである。
決まったことを言われた通りに的確にこなすことよりも、いろんな情報をまとめたり分かりやすくしたり組み合わせて作ったりする方が生産的。
時代は変化してきている。価値観も変化してきている。
何が良くて何が悪くて、誰がお手本で誰を参考にするのか、何を目指してどう生きるのか。
それらの判断基準は全て、「ぼく、わたし」という一人の人間の中にある。
誰のせいでもない。全ては自分の責任で選ぶ。
その代わり、これまでの学校教育や大人が刷り込んできた「ふつう」を疑い、その縛りから解き放たれて、自由になってもいい。
学校やお手本にしたい大人を自分が選んでいい。
人間という個体が生き延びるために集団に依存してきたが、その在り方が、変わってきている。
人に寄り添うことや歩みを合わせることは大事だが、同調圧力に屈する必要も無くなってきた。
そんな時代になりつつある。
だから、刷り込まれた「思い込み」を捨ててみませんか。
調べれば、学べば、動けば、続ければ、自分らしい生き方の方法はいくらでもある。いくらでも創れる。
歴史は変わる。科学も変わる。文化も変わる。
人は変わる。変われる。変わっていいんだ。
そんな時代を作ってくれた先輩たちに感謝しながら。
「変わっていくこと、それが学ぶということ。知るということです。
自分が変わっていなかったら、何も学んでいないと思えばいい。」
(養老孟司 解剖学者、東京大学名誉教授、作家「バカの壁」の著者)
ここでは、これからの時代を創造的に生きるための思考をお互いに育てていけるように、
筆者がそれなりに学んできた脳科学や心理学、教育学をベースとした
クリエイティブ思考をデザインするための、
様々な知識を伝えていきたいと考えています。
よろしくお願い申し上げます。