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アリス・マンロー「発作」(「愛の深まり」収録)-平穏な日常という幻想

アリス・マンローはお気に入りの作家だが、一つ一つの作品がとても噛みごたえがあるため、なかなか一気に読めない。

短編集を少しずつ読み進め、反芻し、悶々と考え、また読み返し・・・というように、ずっと口の中でもぐもぐしながら少しずつ自分の中で理解を深めていくという感じがする。

マンローという作家はいつも、現実を切り取る目線があまりに鋭く、描写の解像度が高すぎるため、消化するのに時間がかかるのだ。

この短編集「愛の深まり」に、「発作」という短編が収録されている。

彼女の作品はいくつも印象的なものがあるが、この短編は特に忘れられない。

「発作」のあらすじ

物語の中心となっているのは、とある田舎町に住む、ペグとロバートという中年カップル。

ある日、何の前触れも感じさせずに、最近家のそばに越してきた退職後の壮年カップルが自宅で心中するという事件が起きる。第一発見者は妻のペグだった。

小さな町を噂話が駆け巡り、住民は動揺する。一方、事件現場を目撃したペグは意外にも、普段とまったく変わらない素振りで職場に出勤したものだから、周りはそのことに驚き、ペグに違和感を覚える。

夫はそんなペグの気持ちを思いやるが、実は、警察の話と、ペグが現場で目撃したと自分に語った内容に、小さな矛盾があることに気づいていた。そのことを彼女に確認してもいいのか、夫は決めかねている・・・。

こんな感じの話である。

ちなみに、「発作」というタイトルは、心中事件について興味を示すペグとロバートの息子クレイトンに対し、ロバートが説明した以下のような言葉と関連している。

「これはな、地震や噴火のようなものだ。そういう類の出来事なんだよ。一種の発作と言ってもいい。地震や噴火が起きても、地球はちゃんと持ちこたえているだろう? それと同じで、人だって発作に耐えられるはずだ。しかもこれは一生に何度も起こるものじゃない。異常な出来事だ。」

この言葉を述べた後、ロバートは同意を待つように妻の方を見たが、普段は柔和で感情を表に出さない彼女が、この時は夫を見つめ返さず、

すっかり干からびて青ざめ、全身が静かで絶望的で、遠慮のない痛みに縁取られていた。

二人はその後言葉を交わさないまま、シーンは終わる。

妻は夫に何を隠したのか? 

この作品を読み終えた方なら分かるが、最後に出てくる「夫が気づいた矛盾」は、妻から聞いた「心中したカップルの家に足を踏み入れた時、二階の部屋の扉から不自然に足が突き出しているのが見えたから、確かめに登って、足をまたいで部屋に入った」という話と、警察が語った「男は部屋の外まで吹き飛んだ。頭の残った部分が廊下に突き出ていた」という言葉の食い違いである。

ペグが実際にまたいだのは、無傷の足ではなく、頭の残骸だった。言うまでもなく、その2つはものすごい差だ。

心中現場に足を踏み入れた時、ペグは自分の衝動に突き動かされていて、何も考える余地なく体が動いたのだと考えられる。

ただ、その後夫に話した言葉の練られた感じ(上記では簡略化して書いているが、作中ではディテールも混じった描写がされている)からは、今日の出来事を夫にどう伝えるべきなのか、頭の中で冷静に整理していることが分かる。

頭の残骸をまたぐことも厭わずに、自分の目で現場を見に行ったこと。それが、ペグの理性が夫から隠した事実だ。

これは何を意味するのか。

それを考えるために注目しておきたいのが、ペグが心中現場を発見した後、騒ぎもせず仲間に話して回ることもせず、淡々と日常に戻っていったという描写である。

彼女のその態度は、周囲から「あんなに刺激的な現場を目撃したのに動揺していないのはおかしいのではないか?」と訝しがられるが、実際のところ、ペグはあまりにも強いショックを受けたため、「これは自分とは関係がないこと」と自分に言い聞かせるように、意識的に普段通りの生活に戻ろうとしたのだと思う。

彼女がこの事件にどれだけ心を揺さぶられているかは、上記にも引用した、夫の言葉に対して「すっかり干からびて青ざめ、全身が静かで絶望的で、遠慮のない痛みに縁取られていた。」という描写からも明らかだ。

平穏な日常という幻想

ペグの行動は、日常の中に常に潜んでいる死や崩壊の影と、私たちはそれを頭から追いやることで正気を保って生きているという事実を思い出させてくれる。

日常を守るためには、人に嘘をつくし、自分にも嘘をつく。

まるで、そこに死の影がないように、そんなことは自分にとって何の興味もないことのように振る舞うことで、なんとか日常を生きているのだ。

この短編は、ハードカバーの書籍で30ページほどの比較的短いものだが、読み進めるほどに、自分の意識の奥底にいる誰かに扉をノックされるような、心がざわついた気持ちになってしまう。

そういう意味で怖さのようなものもあるのだが、淡々としているのに全編に漂う張り詰めたような緊張感が本当に巧みで、ついつい読み返してしまう作品である。


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