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バカの言語学:「バカ」の語義(4) 戦前の辞書より

バカの言語学:「バカ」の語義(3) その他の辞書より

 「「バカ」の語義」の(1)(2)(3)で見てきた国語辞典は、いずれも戦後に初版が刊行されたものでした。今回は戦前の国語辞典で「バカ」の語義をどう説明しているか見ていきたいと思います。


日本初の近代的国語辞典『言海』

 まず、日本初の近代的国語辞典である『言海』です。
 1875年、明治政府の文部省の役人だった大槻文彦が上司に命じられて編纂に着手したものの、何だかんだあって結局は自費出版の形で1889~1891年の間に刊行したのがこの辞書です。収録語数は39,103語。現在では大幅な改訂を経た『大言海』が冨山房から出ています。
 先ほど私は「何だかんだ」などと簡単に書いてしまいましたが、実のところ、とてつもない苦労を重ねて大槻文彦はこの辞書を完成させたのだそうです。「露命」という言葉の語釈を書きながら、涙を堪えきれずに原稿用紙を濡らしてしまった、などというエピソードも伝わっています。
 オリジナルの『言海』は、ちくま学芸文庫から復刻版が出ていますが、国会図書館デジタルコレクションのサイトでも書影を閲覧できますので、これを使って「バカ」を引いてみることにします。

バカ(名)馬鹿〔梵語、慕何、(痴)又ハ、魔訶羅、(無智)ノ転ニテ僧ノ隠語ニ起レル語ト云、常ニ馬鹿ノ当字シテ、秦ノ趙高ノ故事トスルハ妄ナラム、湯桶読ナルモ拙シ〕(一)オロカナルヿ。愚。アハウ。痴呆 (二)バカガヒ。

大槻文彦『言海』

 漢字は現代のものに改めましたが、そのほかは可能な限り原文を再現しました。「」は「事」を略した書き方です。
 語釈は、(一)のほうに同義語が並んでいるという程度で、非常にシンプル、というかぞんざいです。語源の解説のほうがずっと長く、俗説への言及まであるのとは対照的です。
 ちなみに「常ニ馬鹿ノ字ヲ当テ」とありますが、実際には「馬嫁」「破家」など、いくつかの当て字がかつては使われていました(「『バカ』の語誌(2)」参照)。また「『バカ』の語義(1)」で見たように「莫迦」という当て字もあるはずですが、明治時代にはまだ使われていなかったのかもしれません。
 この『言海』で「愚か」も調べてみましょう。まさか「馬鹿ナル」になっていたりはしないか、と思いつつ引いてみると、なぜか形容詞の「おろかな」ではなく、副詞の「おろかに」が載っています。

おろかに(副)愚〔梵語、阿羅伽ノ転トイフハ、イリホガナラム。足ラハヌ意ノおろおろト通ズル語ナルベシ〕智乏シク。理解ノ心欠ケテ。

大槻文彦『言海』

 「理解ノ心」というのは理解力や判断力のことでしょうから、簡明ではありますが、割と踏み込んだ語釈かと思います。
 ちなみに「いりほが」を『言海』で引くと「心ノ入リ過ギテ、実ニ遠ザカルコト」とあります。要するにうがちすぎた見方・考え方ということです。

有名小説家が作った『日本大辞書』『大辞典』

 『言海』の刊行が終わった翌年の1892年から2年間にわたって刊行されたのが『大日本辞書』です。全11巻(+付録1巻)、見出し語数は5万語以上。編纂したのは小説家・詩人の山田美妙です。
 山田美妙の作品を読んだことはありませんが、名前だけは高校生ぐらいのころに聞き覚え(見覚え?)があります。言文一致体運動に関わった人物の一人で、二葉亭四迷は「だ」調、尾崎紅葉は「である」調、山田美妙は「です・ます」調で書いた、というような話を何かで読んだ覚えがあります。今私が書いている文章も「です・ます」調ですから、山田美妙に感謝しなければいけません。
 山田美妙についてウィキペディアなどで調べると、一人目の結婚相手だった小説家の田澤稲舟が離婚後に自殺未遂を起こし、翌月に23歳の若さで病死。これが稲舟事件と呼ばれるスキャンダルとなって山田美妙も文壇を追われたのだそうです。もっとも作品がマンネリに陥っていたためという話もあるようですが。
 『日本大辞書』が書かれたのは稲舟事件より前で、『言海』への不満が動機だったといわれています。特にアクセント(「音調」)が示されていない点が『言海』は国語辞典として不十分だと山田美妙は考えたようで、彼の『日本大辞書』は日本の国語辞典で初めてアクセントを表記したものといわれています。また語釈が言文一致体になっているのもこの辞書が最初なのだとか。
 それではこの辞書で「バカ」を引いてみましょう。漢字を現代のものにしたほかは原文を再現しています。なお、こちらも国会図書館デジタルコレクションで閲覧できます。

ばか(第一上)名、及、根。{馬鹿}〔梵語、慕何、即チ痴愚ノ義。モト僧ノ隠語。常ニ馬鹿ノ字ヲ当テ、秦ノ趙高ノ故事カラトスルノハ附会ニスギル〕(一)オロカ。(二)バカガヒ。

山田美妙『日本大辞書』

 ( )内の「第一上」というのがアクセントで、つまりアタマにアクセントが置かれるということです。その後の品詞のうち「根」というのは、例えば「赤」のように形容詞や動詞などの語根が独立して名詞的に使われる場合を山田美妙は「根詞」と名付けていて、「ばか」も「ばかだ」という形容動詞(あるいは「ばかな」を形容詞と見なしていたのかもしれません)の語根であることを示しています。
 その後の内容はほとんど『言海』と変わりません。語義は「オロカ」であることと「バカガヒ」の2つのみで、語源については「僧ノ隠語」だった梵語という説をとり、「秦ノ趙高ノ故事」に由来するという説を退けています。「常ニ馬鹿ノ字ヲ当テ」というのも『言海』とほとんど一緒です。
 実はこの『日本大辞書』には「『言海』パクリ説」が存在します。今野真二の『盗作の言語学』で私は知ったのですが、『新明解国語辞典』を世に送り出した山田忠雄がこの説を唱えているそうです。
 確かに『言海』の刊行が終わった翌年に出版していることからしてかなり怪しいです。もちろん事の真偽はわかりませんが、好意的に見ても、『言海』を「参考に」しているのは確かだと思います。
 山田美妙は晩年にも『大辞典』という、非常にシンプルなタイトルの辞書を編纂しています。こちらは彼の死後2年経った1912年に刊行されていて、アクセントの表記はありませんが、「ばか」の項の内容はだいぶ充実を見せています。

ばか(馬鹿)根 梵語墓何ノ転。モト僧ノ用ヰタ隠語。オロカ。=アハウ。○転ジテスベテ、ソノ類ノ人。○更ニ転ジテ、神楽ノ語。下僕ノ役ナドト為ツテ滑稽ヲ添ヘルモノ。
ばか(馬鹿)根 前ノ転。俚言。甚ダシクアルコト。=非常。=無法。―「ばかニ高イ」。―「ばかニ美シイ」。

山田美妙『大辞典』

 基本的な語義はやはり「オロカ」なのですが、同義語の「アハウ」が示され(これは『言海』にもすでにあります)、さらに事柄の「ばか」と人の「ばか」を区別しています。
 「転ジテ」「更ニ転ジテ」と来て、さらに見出しを分けてまた続けているのは、後から後から思いついては書き加えたということなのでしょうか。あるいは山田美妙の没後に編纂を引き継いだ人が加筆しているのかもしれません。
 それにしても「神楽ノ語」というのが気になります。前回まで見てきた戦後の辞書には出てきませんでした。
 そこでいろいろ調べてみると、やはり戦前に作られた『日本大辞典 言泉』(1921~1924年刊行。以下、『言泉』)の「ばか」の項にも記述がありました。ちなみにこの辞書は国語学者・歌人の落合直文が編纂した『ことばの泉』を国語学者の芳賀矢一が増補・改訂したものです。
 この辞書で「ばか」を引くと、3番目の語義として「里神楽にて、下僕に扮ちて、種種の滑稽を演ずる者」と記されています。
 『言泉』では「里神楽」になっていますが、「神楽」は宮中や神社で神前に捧げる舞楽の総称で、中でも民間で行われている神楽を区別して「里神楽」といいます(区別の仕方はいろいろらしいのですが、詳細は省きます)。イメージとしては神社のお祭りで、笛や太鼓のお囃子に合わせて、おかめやひょっとこのお面をつけて踊っている様子を思い浮かべればいいかと思います。
 里神楽における「馬鹿」は、ひょっとこと並ぶ道化役で、馬鹿囃子に合わせて踊ったり、黙劇で愚かな下僕の役で登場したりします。
 例えば埼玉県春日部市の不動院野というところで行われている里神楽の演目に「馬鹿踊り」というのがあって、三田村佳子の『里神楽ハンドブック 福島・関東・甲信越』という本によると、「馬鹿(道化)二人の舞で、一人は怖い面、もう一人は優しい面を着けて、頬被りで踊る」のだそうです。
 こういう伝統芸能の中でのバカの役割というのは、バカ学的にたいへん気になるトピックなので、いずれ詳しく調べてみたいと思っています。

簡明にして的確な『大日本国語辞典』

 次は、現在小学館から出ている『日本国語大辞典』の元になった『大日本国語辞典』を見てみましょう。
 『大日本国語辞典』は、西洋の言語学の手法を日本の国語学にもたらしたといわれる上田万年が松井簡治とともに編纂した辞書で、本文4巻+索引1巻、収録語数は約20万4千語に及びます。本文は1918~19年の間に刊行されました。

ばか 馬鹿 (名、副)〔梵 Baka(慕何)痴漢また無頼漢の義〕
①おろかなること。あほう。愚。又、其の人。愚人。痴漢。無頼漢。甲陽軍鑑五「此の家中には、何たる馬嫁も、むざと知行を取るぞと心得て」慶長節用「破家バカ狼藉之義也」
②つまらぬこと。無益なること。曾我虎磨上「我れ我れ虎少将に戯れ、馬鹿つくせしを實と思ふか」
③常の度を失ふこと。非常なること。無法なること。「馬鹿に強い」「馬鹿に暑い」
④ばかがひ(馬鹿貝)の略。

上田万年・松井簡治『大日本国語辞典』
※適宜改行し、記号なども適宜省略・変更しています。

 『言海』や『大日本辞書』に比べると、語源の解説がシンプルになり、一方で語釈が増えています。①が『言海』とあまり変わらず、同義語が並んでいるだけですが、それでもだいたい押さえるべき語義は抑えていると思います。簡潔で文体が古いとはいえ、内容は現代の辞書の内容とほとんど変わりません。
 念のために言い添えておきますが、文中に「痴漢」とあるのは、満員電車で女性に悪事を働く性犯罪者のことではもちろんありません。語義を古いものから順に並べている『広辞苑』で「痴漢」を調べると、1番目の語釈は「おろかな男。ばかもの。しれもの」となっています。つまり「痴漢」の元々の意味は単なる「バカ」だったわけです。
 「痴漢」という語についてさらにネットで詳しく調べてみると、7世紀に書かれた中国の歴史書『北史』の中ですでに使われているようです。

バカの言語学:「バカ」の語義(5) バカ学的語義

◎参考・引用文献
大槻文彦編『言海』 1889~1891年  ウェブサイト「国立国会図書館デジタルコレクション」にて閲覧 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992954
「山田美妙」 ウェブサイト「ウィキペディア 日本語版」にて閲覧  https://ja.wikipedia.org/wiki/山田美妙
山田美妙編『日本大辞書』日本大辞書発行所、1892~1893年 ウェブサイト「国立国会図書館デジタルコレクション」にて閲覧 https://dl.ndl.go.jp/pid/992951
今野真二『盗作の言語学 表現のオリジナリティーを考える』 修正者新書、2015年
山田美妙編『大辞典』嵩山堂、1912年 国ウェブサイト「国立国会図書館デジタルコレクション」にて閲覧 https://dl.ndl.go.jp/pid/863254
落合直文編、芳賀矢一改修『日本大辞典 言泉』大倉書店、1921~1924年/復刻版 日本図書センター、1981年
三田村佳子『里神楽ハンドブック 福島・関東・甲信越』おうふう、2005年
上田万年・松井簡治『大日本国語辞典』 冨山房、1929年 ウェブサイト「国立国会図書館デジタルコレクション」にて閲覧 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1136397




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