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バカの言語学:「バカ」の語誌(4) 『太平記』

バカの言語学:「バカ」の語誌(3) 『日葡辞書』

 「『バカ』の語誌」(2)(3)で、室町時代の『文明本節用集』から江戸時代初っぱなの『日葡にっぽ辞書』にいたる辞書を見てきました。しかしこれらを見ただけで、当時の人々がほんとうにこの言葉を辞書どおりの意味で使っていたのかは実際の使用例を見なければわかりません。実際の使用例と辞書に食い違いがあるなら、辞書のほうに誤りがあると考えるべきでしょう。
 しかしこの時代の文献で「バカ」が現れるものはそう多くはありません。その限られた文献の中で最も古く、最も有名なものが、南北朝時代の動乱を題材とした全40巻の軍記物語『太平記』です。1991年にはNHKの大河ドラマになり、BSでアンコール放送もされていますので、古典に詳しくなくてもこれは知っている、という方も多いかもしれません。
 『太平記』の成立年代は14世紀の間とされていて、15世紀後半に書かれたとされる『文明本節用集』よりもだいぶ早く、そのためこちらを「バカ」の初出文献とする人もいます。ただ、室町時代の内からすでに複数のバリエーションがあり、オリジナルバージョンは現存しないので、最初から「バカ」が使われていたかどうかはわかりません。


しゃしゃり出る「推参のバカ者」

 『太平記』で「バカ」が現れるのは2ヶ所です。まず1つ目が巻十六、「本間孫四郎遠矢事」のくだりです。
 新田義貞との対立から後醍醐天皇の建武政権に叛旗を翻すことになった足利尊氏でしたが、始めは戦況振るわず九州に下ったものの、捲土重来を期して細川定禅の讃岐勢とともに大船団を率い瀬戸内海を東上、播磨国はりまのくにの和田岬にて義貞率いる官軍と対峙します。
 両者の睨み合いが続く中、新田勢より一人の兵が岬の先端に進み出て、足利勢の船団に向かって大声で「長旅でお疲れでしょうから、珍しい肴を献上いたしましょう」と言ったかと思うと、おもむろに弓を空に向けて構え、矢を放ちます。矢は魚をくわえて飛んでいた鳥の翼を貫いて帆柱に突き刺さり、鳥と魚は生きたまま足利方の船上にばさりと落ちる。
 「あ射たり、あ射たり」と両軍からやんやの大歓声。足利方の者が名を尋ねると兵は、名乗るほどの者ではないが、と言いながら、再び遠矢を放ちます。船上の兵の草摺くさずりに刺さった矢を尊氏が手に取って見ますと、小刀で「本間孫四郎重氏」と彫ってある。
 本間は続けて、挑発するかのように「いくさのさ中に矢は一本でも惜しいから射返してくれ」と足利方に呼びかけます。尊氏が側近の高師直こうのもろなおに、我が方にも弓の名手はおらぬのか、と尋ねますと、師直は佐々木筑前守顕信を推挙し、さっそく当人を呼び出して、射返してみせよと命じます。最初は固辞していた顕信でしたが、尊氏にしつこく頼まれてやむなく自らの舟に戻り、緋縅ひおどしの鎧をつけ鍬形を打った兜の緒を締めて舳先に立つと、弓のつるをきりりと引き、矢を放とうとしたまさにそのとき……、突然声をあげたのが、讃岐勢にいた「推参のバカ者」でした。

かゝる処に如何なる推参の婆伽者にてか有けん、讃岐勢の中より、此矢ひとつうけ弓勢ゆんぜいの程御覧ぜよと、高らかによばはる声して鏑をぞ一つ射たりける。

『太平記』 巻十六「本間孫四郎遠矢事」
※適宜句読点を追加、カタカナをひらがなに、旧漢字を新字体にしています。以下同。

 つまりこの「推参のバカ者」が「この矢を受けて、俺の腕前をご覧ぜよ」などと偉そうに言っていきなり矢を放ったのです。
 バカ者が放った矢は岬に届かず、ぽちゃりと海へ。沸き起こる失笑。するとこの「バカ者」は恥をすすがんとして、数人を引き連れ勝手に上陸、あっけなく新田勢に討ち取られてしまいます……。

古い写本の巻十六には「バカ」がない

 上の引用は、江戸開府の年である1603年に京都の冨春堂というところが刊行した「古活字本」と呼ばれているものからなのですが、実は同じ個所を岩波文庫や小学館の『新編日本古典文学全集』で見てみますと「推参の者」とのみ記されていて、「バカ」という言葉がありません。
 岩波文庫の『太平記』は、室町時代に作られた「古態本」と呼ばれる『太平記』の写本の一つ、「西源寺本」を底本としています。つまり古活字本より古いバージョンに属します。また小学館の全集のほうは、いくつかの古態本を参照しつつ歴史的事実を補ったといわれる「天正本」を底本としています。これはその名のとおり天正年間(本能寺の変を挟んだ20年間くらい)に作られたもので、やはり古活字本より古いものです。これら2つのバージョンの他、古態本の中でも最も古いものとされる「神田本」の写し(ウェブサイト「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧できます)で同じ個所を見てみますと、こちらは何と「推参の者」という言葉すら載っていません。
 古活字本より前の写本をすべて確認したわけではありませんが、どうやら室町時代、あるいはさらに安土桃山時代にかけては、巻十六のこの個所に「バカ」という言葉が使われていなかった可能性があります。
 もっとも、「推参の者」が「推参のバカ者」になったということは、この時代には「バカ」が「推参」と同じような意味で使われていたと考えてもいいということになります。
 「推参」は、元々は「頼まれもせずに押し掛けること」という意味で、「推参つかまつった」などと昔の時代劇でも使われますが、「出しゃばり」とか「無礼」などの意味もあって、ここではそちらの意味かと思います。今なら「空気を読まない」と訳しても差し支えなさそうですし、BQTでいえばトンデモバカが当てはまりますが、前回からの文脈でいえば「狼藉」と読み取ることもできます。古活字本と同じ年に出版された『日葡辞書』では、「狼藉」の意味を「無礼、放埓、乱暴」としていました。
 ですからここでの「バカ」は、「「バカ」の語誌(2)」で見た『文明本節用集』が記していたように「狼藉ノ義」と見てよさそうです。

酔った土岐頼遠が狼藉をしでかし「バカ者」と叫ぶ

 次に、『太平記』で「バカ」が使われるもう一つの個所、巻二十三の「土岐頼遠参合御幸致狼藉事付雲客下車事」を古活字本で見てみましょう。
 後醍醐天皇が吉野に逃れて南北朝時代が始まってから6年が経った康永元年(1342年)秋、北朝方にあって院政をしいていた光厳上皇が祖父である伏見院の三十三回忌を済ませて帰る夜道でのことでした。
 上皇を乗せた牛車の行列が五条東条院の辺りに差し掛かりますと、比叡で笠懸(馬上から矢を射る競技の一つ)を楽しみ大酒をきこしめしての帰り道だった土岐頼遠と二階堂行春の一行に出くわします。
 馬上の二人に上皇のお供の者が走り寄って「何者だ、この狼藉者、馬から下りよ」と怒鳴りつけますと、行春のほうはすぐに上皇のおなりと察して下馬し畏まったのですが、そのころ羽振りがよくて怖いもの知らずだったという頼遠のほうは、上皇の行列と知ってか知らずか、下馬するどころか馬を行列にけしかけ、こう言い放ちます。

此比このごろ洛中にて頼遠などをおろすべき者はおぼえぬ者を、いふは如何なる馬鹿者ぞ、一々に奴原きやつばらひきおふせてくれよ。

『太平記』 巻二十三「土岐頼遠参合御幸致狼藉事付雲客下車事」

 つまり「今どき都じゅうでこの頼遠様が馬を下りなきゃならないほど偉い奴なんて思い当たらぬわ、そんなこと言う奴はどんな馬鹿者だ、一人ずつ俺の矢を食らわせてやるぞ」と啖呵を切ったわけです。
 上皇のお供たちは慌てて散らばりながら、そんな狼藉を働くのはどこの田舎者だ、院(=上皇)の行列なるぞ、と叫びましたが、頼遠はかえって酔狂な心持ちを起こして大笑いしながら、「何?  院と言うたか?  犬と言うたか?  犬ならば射殺してやろう!」と言い放ち、牛車が逃げ出せないように馬を走り回らせて、追いかけてきた者たちに次々と矢を射かけます。混乱の中、上皇を乗せた牛車はついに転倒、公卿の西園寺公重別が上皇を別の牛車に乗せて、一行はどうにかその場を脱出したのでした……。
 巻十六の本間孫四郎のエピソードは明らかに『平家物語』にある那須与一の話を元ネタにした創作でしたが、こちらは記録も残っている史実です(もちろん、事実そのままということではないでしょうが)。
 土岐頼遠は、佐々木道誉などと並んで「婆沙羅ばさら大名」、つまり権威や決まりごとなどものともしない、派手で破天荒な荒くれ武士の代表的な存在でした。「院」を「犬」と呼ぶなんていうのはまさに婆沙羅大名の面目躍如ですが、この事件のために頼遠は結局、六条河原で斬首の刑に処せられます。

当時でも「バカ」は「狼藉」の意味とは限らなかった

 さて、上に引用した頼遠の言葉に出てくる「バカ」ですが、こちらはどう考えても「狼藉」の意味には取れません。狼藉を働いているのは頼遠であって、彼が言っているのは、今や飛ぶ鳥落とす勢いの俺様を知らない奴は何たる無知な野郎だ、ということです(松本修の『全国アホ・バカ分布考』は、この「バカ者」さえも「狼藉者」を表すと見なして、章段名の「狼藉」のところに傍線まで引いていますが、明らかに無理があります)。
 ですからこの「馬鹿者」は、BQTでいうならばウスラバカの意味と取ることができます。ただ、頼遠は単純に、どんな無知な方がおっしゃるのですか、と尋ねたかったわけではありません。それなら「云ふは誰ぞ?」と訊いたはずです。そうではなく、頼遠はムカッとした感情をぶつけるために「如何なる馬鹿者ぞ!」と怒鳴ったのですから、感動詞的な用法と見なすこともできます。
 この一節は巻十六と違い、古活字本より古い写本でも「バカ」が使われています。西源院本を底本とする岩波文庫では「かく云ふ者は、いかなる馬呵者ぞ」、神田本では「云フハいかなるバカ者ゾ」、神宮徴古館本のダイジェスト本である『古態本太平記抄』では「何なる馬嫁者そ」と、確認できた限りの古態本にはいずれも「バカ」が出てきます。『広辞苑』の編纂者である新村出も「馬鹿考」という文章の中で、「古本の節用集には、馬嫁を「狼藉之義也」とあるけれども、『太平記』に見えたる語の用例ではやはり後世の意味のごとく、無知という義になっている」と記しています。
 写本の中で最も古い神田本は15世紀の間にできたとされていますから、『文明本節用集』とだいたい同時代です。『太平記』のオリジナルの成立は14世紀中ごろといわれていますから、オリジナルの巻二十三で「バカ」がすでに使われていたとしたら、さらに100年さかのぼることになります。
 「「バカ」の語誌(3)」で見たように、『日葡辞書』では「バカ」の語釈に「物事をよく知らない(pouco saber)」という表現を入れ、「バカげな」の語釈にはウスラバカの意味も含むと思われる "parvo" が記されていました。『太平記』の巻二十三は、『日葡辞書』のこういった説明が少なくとも100年前、もしかすると250年以上前から妥当だったことを示しています。「愚か」や「をこ」が『平家物語』のころには「無礼」や「非常識」といったトンデモバカの意味をもっていたことを「「バカ」の語誌(3)」で見ましたが、逆に「バカ」は文献に現われ始めた14~15世紀にはすでにウスラバカの意味も併せもっていたのであり、つまりは「愚か」や「をこ」とほとんど同義だったということになります。
 それなのになぜ『文明本節用集』では「狼藉ノ義也」とのみ記して、「ウスラバカ」の意味を載せなかったのでしょうか。
 どうでもいい話といえばどうでもいい話です。しかし気になるといえば気になります。正解がわかる史料がないようなので、自分で想像をふくらませてみるしかありません。

「自由狼藉ノ世界」としての『太平記』の時代

 まず注目したいのは「狼藉」という言葉です。「バカ」が長大な『太平記』の中で1、2回しか出てこないのに対し、「狼藉」は何度も出てきます(古活字本では「狼籍」と表記しているところが多いです)。
 『太平記』の中での「狼藉」という言葉の使い方をざっと見てみると、2種類に分けられると思います。
 一つは戦乱のさ中での、強奪や放火といった悪質な行為です。特に京都のような都市部が戦場になった場合によく行われていました。

去年の五月に官軍六波羅を責落せめおとしたりし刻、殿法印の手の者共、京中の土倉共を打破て、財宝共を運び取くる間、為鎮狼籍らうぜきをしずめんがため、足利殿の方より是を召捕て、二十余人六条河原に切り被懸かけられける。

『太平記』 巻十二「兵部郷親王流刑事付驪姫事」

 そしてもう一つは、身分関係などの社会秩序を蔑ろにする無礼な行為です。巻二十三の土岐頼遠のケースはまさにこれに当てはまります。他にも、同じく「婆沙羅大名」と呼ばれた佐々木道誉の行為がやはり「狼藉」と非難を浴びています。

折節御門徒の山法師、あまた宿直して候けるが「悪ひ奴原が狼籍哉」とて、持たる紅葉の枝を奪取うばいとり、散々に打擲ちやうちやくして門より外へ追出す。

『太平記』 巻二十一「佐渡判官入道流刑事」

 これは天台座主の妙法院宮亮性法親王(光源上皇の弟でもあります)の御所の近くを通りかかった道誉が、紅葉がきれいだと言って下僕に枝を折らせたところ、僧侶たちがそれを見つけて下僕をボコボコにする場面です。それくらいのことでボコボコに「打擲」する僧侶たちもどうかと思いますが、これに腹を立てた道誉はさらにひどい奴で、何と御所に火をつけてしまいます。
 この一件のために佐々木道誉は上総の国へと流罪になりますが、流刑地へと向かう道すがらも、遊女を引き連れ酒宴を開くなど、徹底した婆沙羅振りを見せつけたと『太平記』は記しています。
 狼藉もここまで来ると自由磊落らいらくなかっこよさが感じられ、そして何よりも面白いのですが、こんな連中がいくらでも現れてしまうような世情を憂慮する人たちもやはり当時はいたわけです。「二条河原落書」を書いた「京童」もそんなうちの一人だったと思われますが、その落書に当時の世の中が「自由狼藉ノ世界」と表現されていたのは「「バカ」の語誌(2)」で見たとおりです。
 室町時代をテーマにした最近の本には、タイトルに「ハードボイルド」とか「アナーキー」などといった言葉を使っているものもあります。「二条河原落書」に「下克上スル成出者」という表現があることも以前も触れましたが、戦前の東洋学の第一人者だった内藤湖南は、「応仁の乱について」という文章(正確には講演録)の中で、応仁の乱の時代を公卿として生きた一条兼良の立場から見た「下剋上」についてこう語っています。

……それは単に足利の下に細川、細川の下に三好という風に順々に下の者が跋扈して行くというような、そんな生温いことを考えておったのではありませぬ。最下級の者があらゆる古来の秩序を破壊する、もっと烈しい現象を、もっと深刻に考えて下剋上といったのである……

内藤湖南『日本文化史研究』「応仁の乱について」

 内藤湖南は応仁の乱を、古い秩序が流動化し解体した歴史の転換点として語っています。しかし現代の歴史家たちはそういう転換点を、もう少しさかのぼって南北朝時代と見ていることが多いように思います。特に1970年代くらいから「悪党」について社会史的な観点から論じられるようになって以降は、その傾向が強いと思います。
 黒田俊雄の『日本の歴史8 蒙古襲来』によると「悪党」は、元々は山賊・海賊・強盗・火付の類を意味していましたが、鎌倉時代の後期に入ると荘園で本所(荘園の支配の実験を握る者)と敵対した武士らのことも指すようになり、さらにもっと違うタイプの体制逸脱者も出現しました。諸国を流浪する芸能民や浮浪人など、「溢れ者」という言葉が『太平記』にも『日葡辞書』にも見られますが、そういう社会の最下層や周縁部で生活する人たちが、現状の秩序を脅かす存在として跳梁し始めたのです。
 14世紀中頃に書かれた播磨国の地誌『峰相記みねあいき』は、このようなタイプの悪党について描写している文献として有名です。黒田俊雄の前掲書にその部分の現代語訳が載っています。

 そのころの悪党というのはまことに異類異形いるいいぎょう、とても人間とおもわれぬ姿でした。柿帷かきのかたびら(柿色の単衣)に六方笠ろっぽうがさ(女の日傘)をつけ、烏帽子えぼしはかまをつけず、人に顔をみせないようにこそこそ忍び歩き、矢の数も不揃ふぞろいな竹矢籠たけしこ(竹の筒に矢を入れて背に負う道具)を負い、つかさやげた太刀たちをつけ、竹長柄たけながえ(竹の長い柄をつけた武具)や撮棒さいほう(堅い木の先の尖った棒)のつえを持つだけで、よろい腹巻はらまきなどのようなまともな兵具はとても持ちあわせていないという奇妙な姿でした。
 さてこういう異形の者どもが、十人、二十人と党を組んで、どこかに合戦でもあれば加勢に出かけたものです。ところが城に味方して楯籠たてこもるかとみれば、やがて寄手にくわわって攻撃にまわる、むしろ敵を引き入れたり裏切ったりばかりしていて、加勢のときの制約を守るなどということはめったにない。そして平生は博奕ばくちを好み、こそ泥を仕事にしていたものです。

黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』「悪党横行」

 このような悪党たちが具体的にどのような人たちから成っていたのか、はっきりしないところもあるのかもしれませんが、「非人」と呼ばれる弊牛馬処理、刑吏、呪術、芸能などのようなケガレに対するキヨメの職能を担っていた人々や、「印地」と呼ばれた無頼の徒、武装農民である「野伏」などが関わっていたとされています。実際、網野善彦の著書『異形の王権』によれば、上記の引用の前半にある「柿帷に六方笠」という彼らの衣装は非人に特徴的なものだったようです。
 高橋輝雄は『反復する中世』において、「この非人が悪党とかかわってくるのは、武士を媒介としてである。武士は合戦を、あるいは人殺しを芸能とする人々である。したがって、当然ながら死穢に触れることがつきまとう」と述べています。非人が携わった仕事はただ穢れていると見なされたのではなく、聖性に触れるものとしてある種の超越的な力と関わっている、という観念もあったのかもしれません。
 そういう新しいタイプの悪党たちは、鎌倉時代のうちはまだ、現代でいえば「反社」的な、体制外の存在であり、取り締まりの対象でしかありませんでしたが、後醍醐天皇と鎌倉幕府が対立して両者が内戦状態に入ると、特に後醍醐方と関わりを持つようになり、単なる体制外の存在ではなくなってきます。
 例えば後醍醐天皇に終始忠誠を尽くし、戦前の皇国史観的な教育の中では忠君愛国の英雄と見なされた楠木正成は、出自がはっきりしているわけではないのですが、おそらくは河内国の悪党だったのではないかといわれています。彼自身が悪党ではなかったとしても、少なくとも彼が駆使したゲリラ戦術は悪党たちの「合戦」のやり方に影響を受けていたらしく、黒田俊雄は前掲書で「正成の戦術は、かの悪党や郷民のさまざまな合戦のなかで鍛えられた戦術にほかならぬ」としています。
 他にも名和長年や赤松則村など、悪党的な存在だったのではないかといわれている武将が後醍醐方で活躍していましたし、『太平記』には野伏の集団が幕府方の兵たちと戦いを交える場面もあります。
 安田次郎は『全集 日本の歴史7 走る悪党、放棄する土民』の中で「『太平記』に出てくる野伏には、山立(山賊)・強盗・溢者・悪党などと置き換えられるような用法もみられる。したがって、野伏のなかにそのような犯罪者やならず者などが含まれていたことは間違いあるまい」と述べています。もっとも一方で「野伏の大半は、ふだんはごくふつうの地域住民、荘民であったのではないだろうか」ともしていますが、むしろ野伏や悪党が流動性をもった存在であって、さまざまな階層や立場の人たちが彼らと関わっていたのではないかと考えたほうがいいように思います。
 そして建武の新政が始まると、「異形の輩」が天皇のいる内裏に出入りしてごみを捨ててあちこち汚すということもあったようで、それを制止する法律を出さなければならないほどでした。そんな状況の中で土岐頼遠や佐々木道誉のような「婆沙羅」な者たちが出現するわけですが、網野善彦は『異形の王権』の中で、婆沙羅の風俗も『峰相記』に記されたような悪党・非人の身なりを源流としている、と指摘しています。そういう風俗が、「二条河原落書」にあるように「此比このごろ都ニハヤル物」となったのが、『太平記』に描かれた時代だったのです。

土岐頼遠にこそ相応しかった「バカ者」

 ちょっと話が大きくなってしまいましたが、こういう時代を背景にして「バカ」が文献に現われたのだ、ということは考慮していいのかと思います。
 まず、「バカ」という卑罵語が『太平記』巻二十三でのようにむき出しの形で使用されているのが、この時代だからこそではないか、と考えられます。
 太平記よりも前に、どの程度卑罵語や卑罵表現が文字で書かれたのかは、あまりはっきりしません。『宇治拾遺物語』に卑称的な二人称の「おのれ」や「あな、かたはらいたの法師や(何と笑止千万な坊さんだ)」といった表現が見られますが、「愚か者」や「をこの者」のような言葉が罵倒の台詞として使われる例はおそらくなかったのではないかと思います。
 『太平記』の中でこの言葉を吐いたのが「婆沙羅大名」と呼ばれた土岐頼遠とされているのは、かなり重要なことかもしれません。「バカ者」のような言葉は、品位や教養を重んじた貴族や文人から出たのではなく、むしろそういう人たちに反発を感じていた悪党たちから出てきた言葉だったのではないか、と考えることができるからです。もしもそうであれば「婆沙羅」な武士たちがこの言葉を使うこともじゅうぶんありえたでしょう。
 『太平記』の著者が誰だったかは不明ですが、公卿の洞院公定が書いた『洞院公定日記』には、『太平記』の作者が小島法師という「卑賎之器」の者であったと記されています。もっともたった一人で書いたとは考えにくいので、おそらく僧侶たちが中心となった『太平記』執筆チームのようなものがあって、小島法師もその一人だったのだろうといわれています。
 「卑賎之器」が何を意味するかについては諸説ありますが、いずれにしろ非人など社会の下層にあった人々とも接触があり、その一方で幕府の関係者とも関わりがあるという、この時代を象徴するような人物だったと考えられます。
 そういう人物にとって「バカ者」は、土岐頼遠が狼藉を働いたときにいかにも言いそうな言葉だったのではないかと思います。「バカ」の語源は元々僧侶たちの隠語だったという説がありますが(「『バカ』の語源(1)」参照)、仮にそうだったとしても、僧侶には貴族や有力武将たちと懇意な人たちがいる一方で、小島法師のような「卑賎之器」と呼ばれるような人もいたのですから、そういう僧侶から悪党・非人たちへ、そして婆沙羅を好む武士や庶民へと「バカ」が浸透していった可能性もあるでしょう。

 しかしこの「バカ」という言葉は、他方で土岐頼遠のような「狼藉」者を指す言葉であったことも確かです。これはどういうことでしょうか。
 「「バカ」の語誌(3)」で、「愚か」や「をこ」も鎌倉時代からすでにウスラバカの意味だけでなく、「無礼」「非常識」といったトンデモバカ、あるいは「狼藉」に近い意味を帯びるようになっていたことを見ました。このような変化はやはり武家による統治ということと関係があるのかもしれません。武家の社会には、おそらくですが、結局は実力次第という考え方と、上下の身分秩序を重んじる道徳観とが同居していたのではないかと思われるからです。
 つまりは、腕に覚えのある武士が他人を見下し、気に入らない奴がいれば相手構わず「バカ」と罵る。しかしそんなお前のほうが「バカ」なのだ、という社会からのリアクションも存在する。要するに、「バカ」と言う者が言われる者でもある、ということです。あるいは、秩序の流動化・解体とそれに対する憂慮・反感が「バカ」という言葉を介してぶつかり合っている、と言ってもいいかもしれません。
 そしてこの時代のそういった二重性は、現代においても自由か秩序かという問題として存在し続けています。ですから現代においてもやはり「バカ」と言う者が言われる者でもある、ということに変わりがないのだ、と言えます。

バカの言語学:「バカ」の語誌(5) 狂言

◎参考・引用文献
『太平記 40巻』 冨春堂、1603年 ウェブサイト「国立国会図書館デジタルコレクション」にて閲覧 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/8943271
兵藤裕己校注『太平記 』 岩波文庫、2015年
長谷川端校注・訳『新編日本古典文学全集 太平記』 小学館、1996年
黒川真道ほか校『太平記:神田本』 国書刊行会、1907年 ウェブサイト「国立国会図書館デジタルコレクション」にて閲覧 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994594
長谷川端ほか編『古態本太平記抄』 和泉書院、1998年
新村出「馬鹿考」『語源をさぐる』 講談社文芸文庫、1995年
内藤湖南「応仁の乱について」 『日本文化史研究』 講談社学術文庫、1976年
黒田俊雄『日本の歴史8 蒙古襲来』 中公文庫、1974年
安田次郎の『全集 日本の歴史7 走る悪党、放棄する土民』 小学館、2008年
網野善彦『異形の王権』 平凡社、1986年
日本史広辞典編集委員会編『日本史広辞典』 山川出版社、1997年
高橋輝雄『反復する中世』 梟社、1992年
永積安明『古典を読む15 太平記』 岩波書店、1984年
中島悦次校注『宇治拾遺物語』 角川文庫、1979年
上記の他、多くのウェブサイトを参考にしました。

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