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しなやかに、
朝から降りだした雨は、もう嵐となり果てていた。しずかな湖とみまごう相模湾は、そんなときでも波は高くない。「割れて砕けて裂けて散るかも」なんてふうになることはほとんどなくって、実朝はどこで詠んだのかしら、とふしぎに思う。
(太宰治の「右大臣実朝」は、三浦岬に行ったときだと言う。確かにあそこは波が高い)
となりで夫が眠っている。ほんとうは出来るだけ、助手席には乗りたくないらしい。だって怖いでしょ、と言う。たしかにわたしの運転は怖いだろう。でもよっぽど疲れているのか、ぐっすりと寝ている。
「火のなかを通るときも、水のなかを通るときも」
そんな聖句が、ふと浮かんできた。わたしはあなたと共にいる、という箇所。きょうのわたしは、それに新しいことばを付け加えかねない気分だった。ええ、聖書から一言でも取り去ってはいけないし、付け加えてもいけない、と黙示録に書いてあることは存じております。
わたしが思ったのは、こういうことだった、
「火のなかを通るたびに、水のなかを通るたびに、わたしのなかで、あなたへの信頼は大きくなっていく」
細かく書き立てたくはないけれど、それはまったく奇跡の日だった。もう十年来必要とされていたことに、ついに着手した。ストレスの多い仕事だった。二三日前から、夫は胃が痛いと言っていた。わたしもよく頭痛がしたので、身体に負荷がかかっているのだろうな、と思い、ゆっくりと暮らしていた。
それでも今回、わたしは心配しなかった。決して心配しないと決めていた。どんなことでも神さまは良いことに作り替えてくださると、すべてが大丈夫なのだと、さっと潮流に乗るように、自然に信じることが出来た。海抜何メートルかは知らないけれど、飛び込むことができるくらいには、信仰の丘に登ることが出来ていたのかもしれない。
心に安らぎがあった。説明の付かないような平安が。状況に反するような、神から来たとしか言いようのない平和が。
しなやかになりたい、と最近思っている。御手のなかで、しなやかに。抗って痛いのは、わたしの方だ。わたしに瘤や塊が残っていると、それが御手のなかでこすれて、痛む。なめらかに、しなやかに、御手にこの身をゆだねることさえ出来れば。
東洋の宗教でいう悟りというのは、こんな境地のことなのかな、とときどき思う。わたしは全世界の神に、愛や平和という概念に、たったひとつの名前を見つけて、そのかたをイエス・キリストと呼んでいるのだけれど。
「ほら、心配しなくってよかったでしょう」
と、心に囁く声がする。ほんとうに。ぜんぶが上手く行きました。あなたがわたしに悪を成すはずなんてなかったのだから。きょうはとっても楽しかったです。きっと悪魔が悔しがっているわ。
シャドラク、メシャク、アベドネゴのことを思い出す。燃え盛る炉に投げ入れられたけれど、キリストが傍にいてくれて、焼けることもなく、焦げることもなく、外に出てきたときに、衣に煙の匂いさえついていなかったという、あの三人。
わたしもそうでありたい。炎も大水も、人生に起こるどんなことでも、わたしが主をもっと信頼するための道具でしかないのなら。わたしはただしなやかでいればいい。ただしなやかに、御手に身を任せていればいい。