死人は死者たちに葬らせよ (小説) 上
この小説は作り話であって、実在の団体や
人物とは何の関係もありません。
「死人は死者たちに葬らせよ」
叔父の葬儀からの帰り道、ふと真木の心にそう浮かんだ。まだキリストを知りもしなかった頃から、何故か知っていた聖書の言葉だった。今の状況にこれ以上ふさわしい言葉はあるまい、と彼はひとりごちた。
白くかさばる紙袋がゆれて、喪服のズボンに擦れ、ときどき痛そうに脛に当たる。あたたかな光の照るアスファルトに散った赤い椿を、黒い革靴で無造作に踏みつけていく。その足取りに乱れたところはない。
その隣を、妻の八枝がぎこちなく歩いていた。すこし小柄な彼女に、黒いカシミアの外套と、丈の長い喪服がよく似合っている。旧家のご当主に嫁ぐのだから礼服は良いのを作ってあげないと、と祖母が用意してくれたオーダーメイドの服だったが、実際はあまり着ることもない。結婚してもう四年になるが、夫方の葬儀に出るのはこれが初めてだった。
せめてタクシーで帰りたかった、と八枝は慣れないヒールを引きずりながら思った。斎場の外には何台も用意されていた。夫の親戚のひとたちは仲良さげに、次々と黒い車に乗り込んでいった。なんの計算を間違えたのだろう、車は一台足りなかった。
銀色の車寄せの下に残され、呆然としていた八枝に、真木は事も無げに、歩けないこともないか、と言った。斎場の近所には、八枝の祖母が住んでいる。あの気高い老婦人の孫娘が、今日どんな仕打ちを受けたかを思い返して、八枝はすこし泣きそうになった。じぶんが可哀想なのか、祖母が哀れなのかは曖昧だ。
今日の葬儀は異世界だった。クリスチャンの家庭でぬくぬくと育った八枝は、あの異様な体験を、まだどう咀嚼していいかわかりかねていた。神経質な興奮と、投げつけられた侮辱を吐き出してしまいたい思いとが、喉元までこみ上げていた。
隣を歩く夫の顔を見上げるように覗く。その整った顔には、疲れが滲んでいる。けれどかすかに皺のよる切れ長な瞳に、なにか喜びのようなものが宿っていた。あんなことがあった後なのに、と八枝は呆れる思いがした。あれほどの敵意を、あからさまで冷ややかな嘲笑を受けたのは、人生ではじめてだった。あの針のむしろで、彼は頑なにまっすぐと立っていた。
真木は火葬場で、みずからを囲む親族に言ったのだ。ぼくを叔父の祭祀承継者に選ぶなら、法的にもそれを拒否するすべはないけれど、ぼくはすべて始末してしまうつもりだし、叔父であれ誰であれ、供養することは出来ないと。
悪霊が跋扈しているような、陳腐な田舎芝居だった。彼がそう言うであろうことくらい、誰にだってわかっていた。叔父の亡骸が高温で焼かれているあいだ、旅館みたいな畳敷きの待合室に、低く唸るような呪詛の言葉がうねり、とぐろを巻いた。八枝はそれを夫の影に隠れるようにして聞いていた。
真木はクリスチャンになって、本家の当主としての務めを放棄したために、その一族から絶縁されていた。分家の叔父であると同時に母の弟でもある、実の叔父の葬儀だから、妻を伴い出席したのである。
彼は喪主のようであり、喪主ではなかった。ほんとうは彼が喪主をすべきだったし、妻に先立たれて子もない叔父をなにくれなく助け、その死のあとの細々とした用事をこなし、葬儀の準備をしたのも彼だった。決して真木は、責任から逃げてなどいなかった。ただ仏事だけは出来ない、と言って、福岡から来た従兄弟に喪主を譲った。
この真木一族の祭祀権は、複雑な経緯を辿っていた。それもすべてお前がクリスチャンになって我がままを言うからだ、と先ほど従兄弟に投げつけられたばかりである。本家の奥さまであった母が亡くなったとき、その祭祀権は、クリスチャンの一人息子を飛ばして、分家でもあるその弟に受け継がれた。
いまそれが数年の時を隔てて、またぶり返された。分家の次男の子であり、遠く福岡に住む従兄弟には、それを継がねばならない謂われも何もなかった。百歩譲って分家の祭祀だけ継ぐことは可能だったかもしれない、けれど仏壇はひとつになっていた。誰がどう考えても本家の当主である真木が祭祀を継ぐのが妥当であったが、彼が再び拒否するであろうことも目に見えていた。
懸命に口を閉ざそうとしていても、若い八枝のなかで、今日の衝撃がはちきれんばかりになっているのが、真木には手に取るように伝わった。なんとも恐ろしいところに連れていってしまった、と彼は後悔した。
彼はもう慣れていた。血のつながったひとびとから嘲られることも、疎外されることも。けれど妻をそこに連れていき、あの視線に晒さねばならないときの感情には、言い難いものがあった。だからずっと最低限の社交を、ひとりで背負っていたのかもしれない。
今日は自分ひとりで行くよりも、辛い思いがした。けれど彼は聖霊に従って、為さねば為らぬことをしたまでだった。そうぼんやりと考えていた真木は、ふと隣を歩いていた妻の姿が消えているのに気づいた。慌てて後ろを振り返ると、数十メートル後ろで、八枝は歩道の脇にしゃがみこんでいた。近づくと、妻は恨めしそうな顔で夫を見上げた。
ふたりはちょうど城の堀端を歩いているところだった。八枝の靴擦れは、かすかに血の滲むところまでいっていて、これ以上は歩けそうもなかった。今更ながら電話でタクシーを呼んで、ふたりは真木家の屋敷へと帰っていった。
(下に続く)
↓彼らのいままで