I am blessed
おもはゆくって、言葉にしないようなことでも、ちゃんと書いてみよう。あたらしい年が、やってくるから。
このあいだ教会で、お皿を洗っていたら、白いマグカップに、I AM BLESSED と書いてあった。歌が、口をついてでた。
『わたしは祝福されている 神さまはとってもよくしてくださった わたしに、かけがえのない想いを抱いてくださる……』
わたしはあんまり歌が上手くない。声がすこし裏返ってしまったけれど、じぶんのこととして歌った。どうせ誰もいなかった。お昼どきで、キッチン兼礼拝堂は、閑散としていた。
わたしは、ほんとうによくしていただいている。自慢かと、思われるかしら。わたしはスーパーで会計をしてもらいながら、これしか買ってないのに、どうしてこんな値段になるのかしらねえ、と頭をひねらせている、ただの庶民だ。まわりは高級車にのっている町で、ぼこぼこの軽自動車にのっている人間だ。(わたしがぶつけました)
でも、わたしはほんとうに祝福されている。心のなかで、ずっと叶うのを待っている祈りなんかはあるけれど、でも、わたしは満たされている。欠けたることも、なしとおもえば、とうたいたくなるくらい。道長とちがって、この世をわが世だなんて、思いませんけれど。
もちろん、荒れ狂う日だってある。悪魔が証しを盗みに来る日だってある。もちろん、生きている限り、試されることからは、逃れられないけれど。
でも、わたしは満たされている。多くを与えられたものは、多くを求められる、と神さまは言う。わたしは、多くを与えられているような気持ちがする。
苦しみも、喜びも、あのかたの手から注がれるなら、わたしにとって、すべて善い。この一年、たくさんの痛みを覚えた。それでも、神さまはわたしにとって、このうえなく善い。
生活をしながら、本を読みながら、わたしが探し求めている、本質的なもの、虚しくないもの、揺らがないもの、うつくしいもの、それは真理なんだって、このあいだ気づいた。それ以来、真理を求めることばかり、考えている。
わたしは知っている。真理には人格があって、名まえも付いていること。その名まえを、わたしは知っている。そのひとの名まえで、わたしは洗礼まで受けたのだ。わたしはあのかたのもの、あのかたはわたしのもの。
だから、わたしは満たされている。空のすずめと同じくらい、信頼している。これからやってくる一年だって、だいじょうぶ。なにも、神の愛から、わたしを引き離すことは出来ない。