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なぜかある日、短歌が溢れだしてきた
なぜかある日、短歌が溢れだしてきた。祖母のしていた短歌を、いつかじぶんもするだろうと感じてはいたけれど、ある日、突然。はじめの拙い歌を皮切りにして。
そういえば、万葉集も古今和歌集も、短歌の歌集も、いろいろ表面を浚うように読んではいたのだった。歌というのは、じぶんのなかに有りはしたらしい。きちんと古文を学んでいないわたしは、頭に浮かんでくる言葉が、文法として正しいのかわからず、たびたび検索をかけながら作っているのだけれど。
短歌という世界は結構狭そうで、やはりきちんとやるには結社に入るべきかも悩んだ。突然溢れだしてきた短歌なので、いつまで続くのかもわからない。そしてわたしが何のために作るべきか、目的もはっきりしていた。いまわたしが、こちらの世界に深入りするのは、神さまの御心とは思えなかった。それにどうやって、三歳児を育てながら歌会に出るの。
短歌、しかも拙い旧仮名遣いの歌など、万人に受け入れられるものではあるまい。また神さまは、わたしを不思議な道に連れてこられたなあ、と思う。いまどき万人を相手にしたいなら、どうするのかしら。てぃくとっくとやらとか?
クリスチャン短歌、というタグを作ってみた。使っているのはいまわたししかいなそうだ。誰もしていないことをするのは面白い。聖霊に満たされることだとか、神に砕かれることだとかを歌にすること。
誰もしていない、というのはつまり、一般的ではない、ということで、しかしそれはわたしのしているすべてに言える。この世のためにペンを使えば、上手くすれば承認欲求が一時的に満たされる程度の成功が得られるかもしれない。けれど、そのすべてをキリストに捧げきってしまったいま、わたしはただこの古臭い歌を、神が良きように用いてくださるのに任せるほかはない。
十字架だなあ、と思う。神のために書くことは、わたしの十字架だ。『それぞれの十字架を背負って、私に付いてきなさい』とキリストは言った。十字架だから、重くて、痛い。そして十字架は名誉ではなく、恥だ。けれどそういう道が目の前に開けているいま、なんだかそちらの方が筋が通っているように感じる。十字架を背負って、キリストに従うこと、わたしにはそれが唯一の確かな道に感じられる。
(窪田空穂に、キリストについて詠んだ歌があった。信州マニアのわたしは、さて短歌を学ぼう、と思ったときに、松本出身だというだけで、まあ空穂でも読むか、と思ったのだけど、良いチョイスであった。けれどご先祖さまを祀ったり、キリストと言ったり、なんだか中途半端なかんじがある)