この存在のすべて (短編)
*この小説は作り話であり、実際の団体や人物とは何の関係もありません*
あの日の記憶を、始めから終わりまで筋立てて話すことは出来ない。ふたりで常念岳に登った日の記憶は、もう薄れかかっている。映像のように、あの日撮った一連の写真のように、静止画のようにしか思い出すことは出来ない。
黙々と暗闇を歩いてきた田口と真木は、ようやく朝日の射してきた頃、沢のほとりで休んでいた。朝の森はオレンジ色に輝いて、真木は上体を屈めながら、水筒に水を満たしていた。
枯れ枝を思うような痩身の真木は、よっこらせと立ち上がりながら、レンズを向けている田口の方を見、疲労まじりの微笑を浮かべた。
「田口くんは、どうして自衛隊に入ったの?」
確かそう聞かれた。それともどうしてまだ予備自衛官をしているのか、であったか。なぜかあの日、真木は田口の過去ばかり聞きたがった。そんな記憶がある。
今年四十二になる田口は、横須賀の外れの港町の出身だった。そこには軍隊があるだけで、その他には何もない。海に出ると、灰色の軍艦からぺぽぺぽとラッパが聞こえてくる。衰退してゆく静かな町に、音といえばそのくらいしかしなかった。
その町の葬儀屋に、田口は生まれた。父親も元自衛官だった。自衛隊に入ったのは、きっとレールが敷かれていたからだろう。確かに若い頃は、正義感を背負っていた。まるで自分の力で世界が救えるような。いまさら思い出したいようなことでもないが。
防衛大を出て、江田島の幹部候補生学校に行き、護衛艦に乗り込んで、二尉に昇進するのも待たずに、田口はその世界を去った。下手な抱負を抱いていたのが、きっと良くなかったのだ。
「軍隊だとか戦うことには、なにかキリストの十字架を背負う生き方と近いものがあるような気がして、最近よくきみのことを考えるんだ」
そう言うと、真木は考えに耽った。ふたりは黙って、だんだん急になりゆく山を登った。常念に登ろうと誘われたときに、経験を問うたら、真木は学校登山以来だと答えた。山岳民である信州のひとびとは、学校で集団登山をするのだそうだ。しかしいつの昔の話だろう、と田口は不安になった。
だいたいおかしいと思っていた。田口と真木はお互いの妻を通して親戚関係にあったが、神奈川と長野と遠く離れて住んでいた。わざわざ自分を誘わなくても、一緒に登山してくれる仲間くらい見つかりそうなものだった。田口はそこにふしぎな浮遊感を、選ばれたような感覚を覚えていた。
胸を突くような険しい階段に、五十を越えた真木は息も絶え絶えになっていた。その日は山小屋泊だったのに、彼の荷物の重そうなのが、田口は気になった。だから中高年の初心者は危ないんだな、と口に出さずに思ったのを、真木はなぜだか察したらしい。
「……予備自衛官と登れば、その場で災害救助して貰えるでしょう?」
そう言ってにやりと笑った。あれも撮っておけばよかったのに。しばらくの間、カメラがご無沙汰になっていた。次に写真が残っているのは、もう小屋に着いてからのことである。
あの日はよく晴れていた。這松のなかに常念小屋の赤屋根がうつくしく、その向こうに槍と穂高がはっきりと、煙ることなく見えていた。真木がザックから出してきたのは、豆から牽くようなコーヒーのセットだった。だから重かったのか、とストイックな登山主義の田口は、キャンプ道具のようなそれを見て思った。
「コーヒーの道具はパウロから、他は久米くんから。みんな借り物です」
そう言えば、真木が着ているあざやかなオレンジ色のジャケットは、育ちの良い中年紳士には派手すぎて、まるで港湾労働者のように見えた。この服のことで、後に田口は妻と言い争ったから忘れられない。それはそのあと、山頂に登ったときに撮った一枚のせいだった。
山から帰って一ヶ月ほど経った、暑い八月の夜だった。逗子の海辺にある家で、田口は娘とチェスをしていた。妻はまだ仕事から帰っておらず、ひらいた窓から潮風がそよいでいた。玄関から、眉を潜めたくなるほど荒々しい気配がして、まもなくリビングに現れた妻の顔は、鉄のような色をしていた。
「真木さんが殺されたそうよ」
そう言って、妻は翌朝早く信州に発った。田口が娘を連れてそのあとを追ったのは、それから一週間ほど経った、葬儀のときだった。黒い服のひとたちで埋まった座敷に、白い棺と花だけがふわりと浮いていた。
遺影は白黒だった。遺影らしくない写真で、高く澄みきった空のもと、真木がしゃがみこんだ姿勢で、こちらを見つめている。その奥にちいさく霞むのは、松本平であろうか。ふと顔を上げた瞬間を写した、自然な一枚で、短く切り揃えたような睫毛の下の目は、言いがたいように透き通っていた。
あの日、田口の撮った写真だった。それを見ながら、田口はなぜか自衛隊時代に聞いたはなしを思い出した。それは能登半島沖で、北朝鮮の不審船が発見されたときのはなしだった。隊員たちは、防弾チョッキもさしたる武器をも持たされずに、覚悟の定まりきった、おのれを捨てた清々しい顔をして、「お世話になりました、行って参ります」と工作船に突撃しようとしたのだ、と田口は聞いていた。
すべてが溶け去ったあと、ああいう瞳が残るのだ、と田口は思った。きっとあの日、真木はもう分かっていたに違いない。いつにも増して静謐な空気が漂っていた。田口の理解を越えるような、不思議なことを口にしさえした。その一ヶ月後凶刃に倒れたことを思えば、きっと彼は知っていたのだとしか思えなかった。
「神のすべては、ぼくのために存在している」
真木がそう呟いたとき、田口は理解することができなかった。大きなざれ石の転がる、山頂の近くに、ふたりは腰を下ろしていた。賽の河原を思わせるような、どこかこの世らしくない風景。
「ぼくのすべては神のためにあり、神のすべてはぼくのためにある。最近そう感じてるんだ」
「神はそのすべてをキリストに注がれ、キリストはそのすべてをご自分の花嫁に注がれた。だからぼくと神とはひとつなのだと」
誤解されてしまうかもしれないけど、と真木はしゃがみこみながら、照れたようにうつむいた。
「神と一体だなんて、真木さんはともかく、恐れ多くて言えたもんじゃありませんよ」
「そうだね、ぼくだってそうだ。けれど神の目には、もう完全になった状態のぼくたちが映っているんだ。自分の力で完璧を目指すわけではないからね。キリストの完全さを着せてもらうんだ。すべては恵み、おどろくばかりの恵みなりき、だ」
そして真木はちいさくその歌を口ずさんだ。言葉を交わしながらも、田口はずっとNikonのカメラを真木に向けていた。それが分かっているからか、彼はなかなか顔を上げようとしなかった。足もとの白い岩を、ごろごろと触っていた。
「神はそのすべてをぼくと分かち合おうとして、このあがないの物語を書かれたんだ。神の愛するもう半分が、このぼくなのだと。だからぼくはいま精一杯、この存在のすべてを神に捧げているんだ。もうすぐみ腕に抱きしめられて、永遠を過ごすことになるから」
そう言って、真木は顔を上げて微笑んだ。その瞬間を、田口のカメラが捉えた。それが遺影となって、あれから何年も経った今でも、白い蔦模様の縁に入れられ、真木家に飾られている。もう彼のいない屋敷の玄関で、彼の写真を眺めながら、田口は呟いた。
「懐かしい。この写真、ほんとうはカラーだったんですよ」
「まあ、そうでしたの? 知りませんでしたわ」
そう答えた未亡人の八枝は、もう真木の姓を名乗ってはいない。夏休みにやってきた田口たちをもてなそうと忙しく動かしていた足を止めて、すこし首をかしげると目を張った。
「あの日、真木さんはびっくりするくらい派手なオレンジの上着を着てたんです。そこだけ色が浮いてしまって、遺影の編集をした灯が、全体を白黒にしたんですよ。でもそうすると他の色まで犠牲になってしまうから、上着だけ色を抑えてくれれば良かったのに、と喧嘩になってしまった」
「まあ、オレンジの服なんて持っていたかしら。あのひとらしくないわ」
「ああ、あれはね、ぼくが貸したんですよ」
玄関端で話していたふたりのもとに、ビビッドな緑のズボンを履いた久米が、ちいさな子どもを抱きながら近づいて、言った。
「どうせ登山なんて一度きりしかしないんだから、道具を貸してくれって。一緒に登りましょうか、って聞いたら、きみと登ったらきみから借りられないじゃないかって言われましたよ。真木さんって、大地主だからか、ケチなとこがありましたね。神さまのため、教会のため、困っているひとのためなら、幾らでもひょいひょい出したのにね」
「ふふふ、だからあのひと、お金はほとんど残さなかったのよ。それなのに次々雨漏りする古い屋敷ばかり残されて、わたし困ってしまったわ」
亡くなったひとをなごやかに語る彼らを、田口は微笑みながら眺めた。またあのときのような、暑い信州の夏だった。広い庭には蝉が鳴き、そのうちに久米の腕のなかの子どもまでもが泣き出したので、田口は手を伸ばしてあやしてみようとした。
自分の子どもが小さかったのは、もう随分昔のことだった。赤子をあやすのは得意だと思っていたのに、まったく腕が鈍っていたらしい。結局子どもは母親の腕に移るまで、泣き止もうとはしなかった。