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あなたは自由だ ―ウィリアム・ブランハムの説教からの断片―



毎週木曜の夜に
通訳をしている聖書講座。
その資料用に翻訳した
説教の短い断片を
まとめてみました。







 この国は偶像崇拝であふれている。偶像崇拝っていうのはね、木でできた動物の像を拝むことだけじゃないんです。われわれの偶像は、車であったり、洋服であったりするんです。なんであれ、あなたと神のあいだにあるもの、それが偶像なのです。


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 迫害や試練なんて、当然のことです。クリスチャンの生活に、当たり前の部分です。そういうときに、あなたがすべきはただひとつ。神にゆだねること。裁いちゃいけません。帳尻を合わせるのも、最終的な裁きをも、すべて神にゆだねるのです。



 イエスが、主であり、キリストでもあるのなら、つまりイエスとは、ひとつの人格、肉体のうちに、「父と子と聖霊」が宿った存在であるにほかなりません。「三つのペルソナを持たれる神よ、ほむべきかな、三位一体」などではない。ひとりの神、ひとりのお方であって、その呼び名のなかでも、よく使われるものが三つ、そしてそれに呼応する役割をお持ちなのです。

 もう一回言いますよ。このイエスは、「主であり、キリストでもある」のです。主というのは、父のこと、救い主という意味の、キリストとは聖霊のこと、それこそイエスなのです。なぜって、イエスは、主であり、キリストでもあるのですから。



 若きダビデは、自然のなかに、神をみいだしました。しずかな水の流れや、緑の牧場だとかにね。大地のなかに、神を。自然のうちに、神が動いておられるのを、みいだしたのです。神は自然のなかにいる。そうは思いませんか。もちろん、そうですとも。夕陽のなかに神を、花々が育つ姿に神を、のぼりゆく朝日に神をながめるのが、ぼくは大好きでたまらないんです。



 われらは罪のため、売られていたのです。エデンの園で、先祖に、罪のゆえに売り飛ばされたのです。悪魔の奴隷として、罪のくびきにつながれていたのです。罪のうちに生まれ、不法によって形づくられ、嘘を付きながら生まれてきた。じぶんを助けることなど出来やしない。われらが性質のすべては、罪で出来ているから。

 けれどヨベルの年が来たとき、われわれは解放された。福音のラッパが吹き鳴らされたとき、良い知らせが鳴り響いたとき。あなたはもう奴隷ではなくなった。もう罪のもとに生きずともよいのです。おうちに帰って、自由になりなさい。もう借金は返済されたのです。奴隷解放宣言がだされ、調印されたのです。あなたは自由だ。



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