ジェーン・オースティンはお好き?
*
ジェーン・オースティンはお好きですか? どのくらいお好きですか? プライドと偏見の映画を見た? あら、そう、本はお読みになった?
え、長ったらしすぎるって? たしかにそうね…… あれにはね、コツがあるんです。
まずは映画かドラマを見るんです。それから原作を読みなおすの。そうすればエンパイアドレスにカントリーハウスに、ブロンドやブルネットの女の子たちが頭に浮かんでくるでしょ。そしたらあの冗長さも、あまり苦にはならなくなりますわ。
*
なにをきっかけにオースティンを読み始めたのか、もう覚えていない。中学生の頃には、全六冊をすべて読み終えていた。別にオースティンマニアだったわけではない。活字中毒だっただけだ。
わたしは知らなかったけれど、アメリカでオースティンは、一大産業なのだった。女の子たちはみな、オースティン原作のドラマや映画に胸をときめかしていた。
(というのも、あれはクリスチャンの女の子が見ても良いような、健全な映画だったから。L.M モンゴメリの作品なんかもそう)
アラバマの赤松の林を行く、女の子たちが詰め込まれたミニバンのなか、なにかのきっかけで、わたしがオースティンを読破していることが明らかにされた。
『まあ! フーセイはそんなにオースティンファンなの!?』
【いや、別にそうでもないんだけど】
という言葉を飲み込んだわたしに、それからジェーン・オースティンは、教会の女の子たちとの接点になってくれた。
*
クリスチャン書店の棚に、ジェーン・オースティン・ディボーションという本を見掛けたときは、笑ってしまった。まさか、いくらオースティンだって、祈祷書にはならないでしょ!
みてみて、といっしょにいたW夫人に見せると、彼女は意外にも真剣な顔をして、それを手に取ると、レジへ持っていった。赤と白で田園風景の模様がプリントされた、ちいさな布製本だった。
それはW夫人から、近々結婚することになっていたわたしへの、お餞別だった。冗談のつもりだったわたしは、面食らってしまった。
本の始めに、かのじょの比較的読みやすい筆記体で、わたしのいとしいフサエに、と献上文を書いてくれた。あなたを愛していますよ、はやく帰ってきなさいね、と。何年も経ったいま、それを読んで胸がじわじわしている。
本の内容は、デボーションらしく、一日1ページ、オースティンの小説から一節を引用し、そこから道徳を説くスタイルである。フェミニストなら、鼻で嗤うとおもう。わたしも、ちょっと説教臭い、と敬遠していた。でも、それから何年ものあいだに、時としてこの本は、わたしに大切なことを語ってくれた。
いまこの本をぱっと開いて、いちばん線が引かれている部分を出してみる。プライドと偏見で、ジェーンとビングリーの恋を、ビングリーの姉妹が妨げようとすることについて、ジェーンとエリザベスが会話するシーンが引用されている。タイトルは、「神の恩寵を他者にそそぐこと」
以下はわたしが線を引いた、道徳を説くデボーション部分。
「人間はえてして、結論に急いだり、最悪を想像して失望から逃れようとしたり、みずからを傷つけるひとから身を引いたりしがちである。けれど聖書は言っている、愛はけっしてあきらめない。信じるのをやめない。いつも希望をいだいていて、どんな状況をも耐えしのぶ」
「このような愛は、神の恩寵なくしては実行できない。それを為すために、覚えていなくてはならないのは、じぶんなどどうだってよいということだ。じぶんに死に、その罪ぶかい性質を神にゆだねること、それが大切なのだということである。そうしたときにはじめて、みずからが愛されたいと願うように、他者を愛することができるのだ。キリストが、わたしたちを愛してくださっているように」
ねえ、なかなか悪くないでしょう。そして枠外には、鉛筆の文字で、dying to self と書いてある。こういうこと、ほんとうに生きていくときに、苦しみながら学ぶような知恵、砕かれる道をいかなくては、見つからないような知恵は、ほんとうだったら、きっとW夫人がわたしに直接教えたかったことだとおもう。
彼女はわたしに、本を読むことだけでなく、手をうごかすことによって、女が生活していくことによって、知恵にいたる道があると、辛抱強く教えてくれた。なまいきなわたしは、それを素直にきいたり、きかなかったりした。それでも彼女は、曾孫ほどの年齢の、日本から来た少女に、その泉のような聡明さをわかちあおうとしてくれた。
W夫人のことを思いながら、エリザベス・エリオットの Let me be woman という本を思いだす。「わたしを女でいさせてくれ」という題名である。彼女が教えてくれた本かもしれない。
*
オースティンの小説のなかで、いちばん好きなのはなあに、とこのあいだ、海岸線をドライブしながら、母と話していた。
「そうね、あの説得とかいうやつ、あれかな」 と母が言う。「あの地味なアンとかいう主人公のやつ。なんか貴族の……」
「あれはね、貴族ではないの。アン・エリオットの父親はね、準男爵なの。当主と夫人は、サーとレディの尊称が付くけれど、子どもには付かない。男爵ともなれば、ジオナラブルの尊称が付くんだけどね」
「へえ」 と母は、心底どうでもよさそうに。
「あれもいいわよねえ、わたしも好き! とても地味だけれど、しずかで、諦念がただよっていて、主人公は耐えるばかりで」
わたしはなおも語り続ける。
「あのね、あのエマっていう小説。わたしはね、あれをじぶんへの戒めとして、ときどき読んでいるの。あの恵まれすぎて、わがままな娘が出てくるやつ。エマはすこし目端が利くせいで、ほかのひとを見下したりしてたでしょ。あの善良だけど愚かしいミス・ベイツをね。わたしにも、そういう面があるの。愚かしいものには我慢ならない、みたいな。だからあれを読むの。オースティンって、なかなか教育によろしいみたいだわ」
「でもあなたは、まだ誰かと誰かをくっつけようとかいう愚行はしてないでしょ。よかったわね」 何処かやさしさの潜んだ声で、母が言う。
「そうねえ」 とわたしは、やりかねなかったこともある自らにぎくりとしながら。
さっき読み返した、W夫人がかいてくれた献上文には、To my precious Fusae. A young woman of great character and womanly gentleness. I love you so much! Hurry back! と書いてあった。
それは買いかぶり、いえ、やさしい言葉、と遠いかのじょに言い返す。あなたが掛けてくれた恩に、報いることなどできない。ただ、神さまがかならずかのじょに報いてくださると、信じてるだけ。
かのじょだけではない。たくさんのひとが、わたしに愛をかけてくれた。神の愛を。そうやって、わたしはここまで成長した。
それでいつか、思ったのだ。わたしは後戻りすることなんか出来ないって。あまりにたくさんのひとが、わたしに投資してくれている。わたしがキリストのために、生きるようにって。
わたしが書いた言葉を、みんなは読めない。本を国際郵便で送ったけれど、タイトル以外は通じなかった。でもこれは、あなたたちが投資してくれた結果です。あなたたちが、わたしを愛してくれたから。わたしはキリストを愛して、ほかのひとたちを愛する。あなたたちが、わたしにキリストの愛を教えてくれたから。