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暗闇の灯 (小説) 4
あらすじ
クリスチャンの家庭に育ったものの、信仰を離れて久しい灯は、みずからを呼ぶ声をかんじながらも、それに抗いつづけている。『あちら側』にいる家族たちのやさしさは、灯にはなまあたたかく、そして息ぐるしい。
熱心なクリスチャンである親戚のおばあさまがパトロンとなって、写真家の灯に個展を開かせてくれることになった。ただし交換条件として、従妹・八枝の嫁ぎ先であり、ホームチャーチを開いている真木家の屋敷に滞在するように言い渡される。神や教会といったものは危うきと見なし、近寄らぬように生きてきた灯であるのに、十数年ぶりに日曜礼拝に出席するはめになる。「絶対的なもの」についての、従妹の夫の説教を無事に聞きながし、個展のオープニングパーティーに臨んだ灯であったが、しかしー。
紙の本でしか読めなかった小説の後半部分を、いまちょっとずつnoteにあげているところです。必要なひとにとどきますように。
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ひとつ前 「暗闇の灯 3」
https://note.com/fogandbluemtn/n/n2d2374b5322b
※この小説は作り話であって、実在の団体や人物とは何の関係もありません※
7
宵色に染まりゆく街を眺めながら、もうだれも入ってはこないだろう、と灯は結論付けた。ギャラリーは、観光客のおおい街路に面した古民家で、建物に惹かれてふらりと入ってくるひとも多かった。初日にしては、かなりのひとに見てもらえた、と閉廊時間が間近なのを手元の時計で確かめながら、灯は満足げに思った。伸びをして受付の椅子からたちあがると、ふらりと建物のなかを歩きだす。
奥まで土間が続く。見上げると、複雑な木組みが吹き抜けを支えている。京都の町屋みたいな、 と灯は思う。わたしの作品なんか無くたって、この建物だけで作品になっているみたい、そう感じたから、いかに作品を建物と調和させるかに心血を注いだ。もし漆喰の壁にみてみてといわんばかりに写真を並べたなら、きっと学芸会に堕ちてしまったことだろう。ここはむかし酒造を営んでいた古い商家で、いつもはもっと工芸だの絵画だのの展示に使うらしい。
土間の壁には、小さめの作品を掛けた。家を飾るように、そしてふつうの写真展というよりは、インスタレーションのような感覚で。大きくプリントして板の間に額縁ごと床置きした作品もあるし、 椅子の上に立て掛けた作品もある。難しいけれども、挑戦しがいのある会場だった。あのひとはこれを見てなんて言うかしら、と灯の脳裏に浮かんだのは、婚約者の姿だった。
硝子の引き戸が開くと、淡い黄色の絽の小紋に、青いの帯をしめた従妹がはいってきた。大きな紙袋をかかえている。ごめんなさい、遅くなっちゃって、と言いながら、八枝は手近な机に紙袋を下ろした。
「久米さんに送っていただいたの」
建物の外に伯母の姿と、黒い車がみえた。
「久米さんは来ないの?」
「ご招待したんだけど、いいんですって。お手伝いまでしていただいたのにねえ」
「他のひとたちは?」
「きょうは礼拝が長引いて、それからいろいろあったの。時間には来るんじゃないかしら」
パーティーが始まるまで、あと三十分もない。
「なにがあったの?」
八枝はためらっているような、嬉しそうな、変な顔をした。
「それはご本人の口から聞いた方がいいわ」
伯母がケータリングの業者と話しながら、入ってきた。広い土間にテーブルを出して、そこに洒落た料理が並べられていく。おばあさまが、料理は気張らないといけないと言ったらしい。美味しいものを食べさせておけば、作品だって三割増しによく見える、なんて言っていたらしいのよお、失礼しちゃうわねえ、とおばあさまの娘である伯母が、笑いながら語った。おばあさまは最近あまり調子が良くないらしく、外にはもう出ないのだそうだ。財布は出すけれど、口は出さないっていうのが、 結局は一番よねえ、と伯母がまた身も蓋もないことを言う。
オープニングパーティーは招待制で、ほとんどが身内である。刻限が近づいて、ちらほらと客が見えだした。母が来られなくてすみませんねえ、と言いながら、伯母の弟である飯森教授がやってきた。ギャラリーのオーナーが、幾人か地元のアーティストや愛好家を紹介してくれる。教授や八枝の行きつけの古書店のオーナーなんかも来ていた。
入り口で受付をしていた八枝が、ちらちらと灯に心配げな目線をよこした。まだ来ていないのは、伯父と田口とすみれの三人だ。真木もいないけれど、彼の名前はリストに載ってさえいなかった。催されて灯がスピーチを始めようとしたときだった、四人が戸口に姿を見せたのは。
何かあったらしい、とは八枝に聞いていたけれど、別に異常はなさそうで、そのままスピーチを続けた。ここに集まってくださったみなさん、個展の開催のために骨を折ってくれた従妹、そして今日はいらっしゃれなかったけれど、この個展の機会を与えてくださった飯森のおばあさまに感謝して、と月並みなことを並べながら、灯の脳裏には今朝の真木の説教が浮かんで、負けたなあ、と苦笑してしまった。
個展のタイトルは、『過ぎた歳月』だった。母の死と向きあうことは、つまり母の世界とも向きあうことだった。写真という媒体は、ことばで語らなくてよいのがいい。むかしは写真にテキストを付けたりもしたけれど、もう説明的にはなりたくない。骨の写真も、かすかなヌードの写真も、光の写真も、海の写真も、すべて語りすぎることなく、織りなすようにこの建物に散りばめて、この空間をまるごと表現にしてしまいたい、と灯は思っていた。
ひとびとはそろぞろと、建物のあちこちに散らばった作品を見て歩きながら歓談している。
「おめでとう」
ひとびとの注意がその作品に寄せられて、わずかなあいだ手持ち無沙汰になっていた灯に、真木が声を掛けた。
「まさか来てくださるとは」
皮肉めいた口調を隠さずに、灯が言った。
「ぼくも灯ちゃんと同じで、家族が少ないのでね。少ない家族はやっぱり大切にしないと、と思って」
と言ってから、本当のところはね、と真木がすこし声を抑えた。
「昨日搬入で作品を見た久米くんが、行った方がいいと言って、招待の枠を譲ってくれたのですよ。いいタイトルですね」
「わかっちゃったんですか?」
「灯ちゃんで、過ぎた歳月、ねえ。甘く見ないでいただきたい」
「八枝はわかりませんでしたよ」
「まあ、妻を悪く言うのは止しておきましょう」
真木はそういうと、ひときわ目立っているきもの姿の妻の方を向いた。引きとめるように灯が言う。
「今日のお説教、上手かったですね」
「それはどうも。でもね、説教が上手いだとか誉められるより、もっと聞きたい言葉があるんですがね」
「まるでわたしへの当てつけみたいなことを喋っておいて、ひとを改心させようなんておこがましい」
真木は、まあ、口はつぐんでおきましょう、とでもいうような含みのある目付きをすると、そのままふらりと踵を返した。
お酒を飲んでいるひとも、飲んでいないひともいる。これには経緯があった。聖餐式の葡萄酒以外に、いままで一滴も飲んだことのないであろうクリスチャンの八枝は、酒類を出すことに強固に反対した。だけれど酒を出さないオープニングパーティーなんて、格好が付かないではないか。 わたしはじぶんの手でお酒を用意する訳にはいかない、と八枝は電話越しに泣きだしそうな声をした。ではよろしい、わたしが出しましょう、と言って、アルコールはすべて灯が手配した。
東京から友人も何人か来てくれていた。夏の夜に、蔵造りのギャラリーは賑わいに満ちている。子どもはすみれだけだが、こういった場に連れてこられるのに慣れている彼女は、おとなしく真木夫妻に餌付けされていた。でもすみれの父は、どこにいるのだろう? 灯が評価してほしいのは、 彼だった。すてきだねとかおめでとうとか、月並みなお世辞ではなくて、ほんとうに自分の作品を見定めることのできるひとから、この展示の感想を聞きたい。どうして彼は傍に来てくれないのだろう?
ふらりと和室を覗いてみると、伯父と伯母が、ちいさな松の這う坪庭に面した縁側に、立て掛けてある写真に見入っていた。酒の入ったひとたちが、無遠慮なこえで嗤う土間からはなれて、ここはしずかで、落ち着いた空気が漂っている。
伯父たちの目線の先には、八枝が川に位牌をぱらぱらと落としていたときの写真があった。空想の産物の位牌は、目に見えない。写っているのは、横顔の八枝がほそく華奢な手を川面にはなっている姿だけである。
「お祝儀に、これを買おうかな」
そう言う伯父に、灯は値段を示す。
「高いなあ」
「いいじゃありませんか、その二倍くらい出しておあげなさいな」
お嬢様育ちの伯母は鷹揚である。
「ほかの写真はなあ、正直見せられたくないようなのもあるが、これならいい」
「それは伯父さん、娘が可愛いだけじゃないの?」
「死んだ妹の骨だの、姪の裸らしきものだのを、見せられる方の気持ちにもなってみなさいよ」
伯父のことばに裁きは感じられず、ただ本当に参ったなあ、という愛嬌だけが残る。
「伯父さんはどうして来てくれたの?」
いつもそこにある伯父の愛情を、もういちど確かめてみたくなって、灯が聞いた。
「おまえの反抗なんて、弥生のに比べれば全然安心して見ていられるよ。おまえはまだ知性を働かせているだろう、あいつは感性の赴くまま生きていたからなあ」
そういって伯父は後ろを振り返ると、その妹の骨片の写真を眺めた。おれが骨になっても、絶対に灯に撮らせるなって、遺言に遺しておかないとなあ、と呟きながら。
「まあ、あんな妹もこんな骨になってしまったが、どこに行ったのか確信を持てるのが何よりも有難いことだね」
小児科医をしている伯父の目は、いつも柔和な光で灯されている。
「灯、おまえもあいつには散々迷惑を掛けられたことだろうが、骨を晒すくらいで赦しておやり。そろそろ帰っておいでよ。いつだっておまえの居場所はとってあるんだから」
伯父はやさしく言うと、さあ、主役はこんなところで油を売ってないで、仕事をしてこい、と灯の背を叩いた。
こころはさ迷いながらも、灯は社交を果たした。個展おめでとう、ありがとうございます。いえ、フィルムで撮っているんです。プリントもできる限り自分でやっています、そうですね、長野はいいところだと思います……
ひとびとに囲まれながら、突然すべての音が消えて、ひとり取り残されたような感覚がした。まわりの人の影はすべて灰色になって、遠くとおくに退いていく。血の気が抜けていくように、不思議な感覚にとらわれた。まるで自分がここに属していないかのような……
ふらりとするものを感じて、灯は左手に持っていたワインのグラスを手近なところに置いた。どこだろう、彼はどこにいるのだろう、酒気に朦朧とする頭のなかをそのことだけが行き巡った。パーティーはたけなわで、するりと灯はひとの輪を抜けて、幾つもの空間に分かれたギャラリーを歩き、田口の姿を探した。
急な階段を上がると、渡り廊下のように吹き抜けを見渡せる場所がある。二階のそこにも幾つか作品はあった。わかりにくいのか、あまり人はそこまでたどり着かないらしい。どこにもいないなら、この上だ、そう思って灯が階段を上がっていくと、作品を照らすライトのつくる影のなかで、田口は椅子に腰かけていた。
「見つかってしまった」
田口は気恥ずかしそうに言った。先祖は三浦辺りの漁師だという彼には、その鼻梁に嘘のない、 潮のかおりがほのかに漂っている。
「どうしたの?」
「すみれはどうしてる? 誰かに子守りを押し付けてしまって申し訳ない」
「真木さんと八枝が、嬉しそうに面倒を焼いているから大丈夫よ。あのひとたち、子どもいないから」
うつむいていた田口は、ふと顔を上げた。
「聞いた?」
「いえ」
「洗礼を受けた」
「まさか」
緊張とワインで朦朧としていた意識が、いっぺんに醒めてしまった。目の周りの筋肉が、力をいれずとも徐々に上がっていくのを感じる。見ず知らずのひとを見るかのように、灯は目の前の婚約者を見つめた。
「頭、大丈夫?」
田口の口もとが一文字に引き締められて、そこから笑いが溢れた。
「灯の家族に伝道されたんだぞ」
「ミイラ取り?」
「盗みに行った覚えはない」
「どうして……」
「呼ばれたのかもしれない。演説でもぶとうか?」
「やめといた方がいいわ」
灯は一歩しりぞいて、何もかも知っていると思っていた男を見定めようとした。ぽろぽろとこぼれるように、みなあちら側へ落ちていく。まさかこのひとまで連れていってしまうなんて。潮が満ちようとしていた。まるで時がもう残っていないかのように、海がせまってきていて、飛び込むか、退くかを迫られているような。なんのことだか、意味がわからない。ともかく。
無意識に灯は、左の薬指をまさぐった。彼女がそれを外そうとしているのに気づいて、田口が言った。
「いまは止めといた方がいい。オープニングパーティーの最中だから」
それはそうだ。感性の赴くままに生きたという母の亡霊でも現れたらしい。はっと手を自由にしたときに、突然さまざまな思いに気づいた。いまさっき何も考えずに外そうとしていたこの指輪を、自分がほんとうは外したくないことに気がついて、灯は愕然とした。
「大変なことになるわよ、これから」
「それがはなむけのことば?」
ほそく皺になった男の目尻は、すこし哀しげだった。後悔してるのかしら? 灯はすこし期待した。わたしと神とを天秤にかけて、もしかしたらわたしが勝つかもしれない。田口は椅子から腰をあげ、暗い階段を下りながら呟く。
「指輪を返されようが、ともかくきちんと作品を見せて貰わないと」
その背中を追いながら、灯もまたひとびとの間に帰っていった。階段をおりた先の、板の間に立っていた真木が、ふたりをちらと見て怪訝そうな顔をした。それを無視して、灯は何事もなかったように、笑顔を貼りつけて人の輪に戻った。オープニングパーティーは盛況だった。作品は評判だった。ひとびとが去り、宴の片付けを終えて、これから宿舎代わりの屋敷に帰ろうというときのことだった。いちばん最後に建物を出た灯は、すこし離れた駐車場まで来て、ようやく田口に追いついた。
冷たい夜の空気が、だんだんと暑さを吞み込もうとしていた。白漆喰の蔵々が、なんだかそらぞらしく光っている。田口は、ねむりこけたすみれを、シルバーのボックスカーに載せたところだった。屈んでいた姿勢から直った彼のリネンのシャツの袖を、灯がとらえた。ふいのことで、田口は驚いたようだった。
「これ、取っておいてもいい?」
灯はそう言って、外に漏れたさびしい車内灯を受けて光るダイアを示した。田口は真面目な顔つきで灯の顔をじっと見つめ、真意を探ろうとする。
「大丈夫、質屋に持ってくんじゃないから」
「そんなに困ってないだろ」
そう言いながらも、田口の目は嬉しそうに細まった。よかった、とその口からちいさく漏れでたかと思うと、灯は彼の腕に閉じ込められていた。そう、これでよかった、と灯もふんわりと思った。長すぎる一日に疲れていて、もうあまり知性は働きそうになかった。
車にのりこみながら、ぼんやりと思ったのは、結局じぶんも人生の重大な決定は、母のように、感性の赴くまま決めてしまう性質なのかもしれない、ということだった。だけれども、そんなことは個展初日の終わりに考えなくたっていい。いまはただもう、今日を終わりにしたいだけ。隣でハンドルを握っていた田口が、灯の先ほどの言葉を反復するように、「これから大変なことになるな」と呟いた。そうかもしれないけれど、でも人生なんてなにを選ぼうとそんなものだから、仕方ないじゃない、と思いながらも、灯にはもう声に出す気力も残っていなかった。
つづき