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わたしの軛 (改訂版) ④


三年まえに書いた話を、
書き直したり、削ったりしてみました。
葛藤することとか、
砕かれることとか。
うわべを撫でるだけじゃなくて、
ちゃんと苦しんで、納得したことを
生きてみるとか。
キリストと共に生きる喜びとか。
あらけずりな話ですが、
これを読んでくださるおやさしいかたが、
ここからキリストを、
掬いとってくださいますように。

⚠注意⚠️
今回は、小説でもなければ書けないような
あけすけなはなしを、男どもがしているので、
おちいさい方はお読みになりませんように。
全六回のうちの四回目です。


↓ひとつまえ






7



 次の週は、普段どおりの日々が過ぎていくかのようにみえた。真木はなにかに打ち克ったという感覚と、主のためになにかを為した充足感の余韻とをひきずっていて、霧が晴れわたったような表情をしていた。

 久米は金曜の夜、ふいにやって来た。仕事終わりらしく、紺のスーツを着ていて、私服のときとは別人のような雰囲気がした。

 「すみません、突然来ちゃって」

 久米にはどこか、拒もうにも拒めない、甘え上手な小動物みたいなところがあった。それが計算なのか、本来備わったものなのかわからなかったが、多分どちらともなのだろうと、真木は思った。

 「どうぞ、ちょうどパウロも来ていますから」

 真木は久米を、結婚を機にリフォームしたばかりのリビングに案内した。おおきなアイランドキッチンのカウンターに肘をつき、パウロと八枝はこちらとあちらに座して、食後のコーヒーを啜っていた。久米が来たことはきこえていたらしく、ふたりは好奇の目を向けた。

 「やあ、どうしたんだい?」

 パウロが聞いた。八枝は立ち上がって、訊かれぬまえから、マグカップを用意しにいった。

 「すみません、お邪魔しちゃって」
 久米がくりかえした。
 「久米さんは、夜でもコーヒー、お飲みになります?」
 八枝が聞いた。
 「飲みます、飲みます。お酒でもなんでも飲みますけど」
 久米が屈託なく答える。酒ということばに、八枝の表情がくもった。
 「わたしたち、お酒は飲みませんの。でも、うちのコーヒーは美味しいですわ。パウロさんが湧き水を汲んできて、淹れてくださるんです」
 「そうなんだ。教会なんかに来て、ぼくは場違いみたいだなあ」
 「そんなことありませんわ。いらしてくださって、ほんとうに嬉しいですわ」
 「八枝さんに喜んでもらえたなら、ぼくもうれしいな」
 「それで、久米さんはなにかご用があったんじゃありませんか?」 
 真木がそっと話を戻した。

 「そう!」
 コーヒーを受け取り、久米はまっすぐな目をして言った。

 「ぼくは営業をしてるし、友だちも多いし、たくさんひとを知ってるんです。でも教会のひとたちは、世間のひととはなんだか違って。ぼくの知らないなにかが、ここにあるような気がしたんです」

 「へえ。聖書はどのくらい読んだんだい?」

 「福音書っていうのが、なぜか四つもあるじゃないですか。しかも書いてあるのは、ほとんど同じ内容。さいしょは、キリストって四回死んだのかなって思ったんですけど。それから使徒行伝っていうのも、きのう読み終えました」

 ほう、これは近ごろ珍しい、ぶれない良い青年だ、と真木は考えた。女たらしみたいな、とも思ったが、久米という青年は、女が好きというより、人間が好きなのではないかという気がした。その結果、女たらしになっているようにみえるが。

 「きみは、じぶんに罪の意識はありますか?」
 パウロが聞いた。
 「なにが罪かによりますけど、一時停止無視とかスピード違反以外で、法を犯したことはないですね」

 八枝が声をたてて笑うと、久米も嬉しそうにした。

 「そうだね、しつもんが悪かったね。キリストがなんで十字架で死んだか。それは、きみを罪から自由にして、あたらしい命を与えるためだったんだけど、罪についてかんがえたことがあるか、さいしょに聞いたほうがいいかと思って」
 たどたどしくはあるものの、パウロは懸命に日本語で話した。

 「自分が正しい人間だとは思いません。いまどきは、なにが善でなにが悪なのかはっきりしないけど。ぼくのことを、最低のゲス呼ばわりして去っていった女の子もいましたし」

 なんとなくこの会話の行き先が案じられて、真木は八枝に席を外させようと、その方便を探した。そして彼女にだけ聞かせるようにささやいた。

 「八枝、長くなりそうだから、きみは先に寝ていてくれないか。今日はあんまり具合がよくないだろう」

 八枝はすこし目をぱちくりさせたが、自分に席を外させたいのだろうな、という意図だけは、機敏に察した。

 「ごめんなさい、先に休ませていただきますけれど、どうぞごゆっくり」
 八枝はすっと部屋を出ていった。
 「ありがとう、真木」
 やはり同じことを思っていたらしいパウロが、感謝した。

 「聖書にこういうことばがあってね」
 パウロが言葉を続けた。 
 「Whosoever looketh on a woman to lust after her hath committed adultery…… ええっと、これは日本語でなんていうの?」
 「誰でも情欲を抱いて女を見るものは、すでに心のなかで彼女と姦淫を犯したのである」
 と、真木が答える。

 「聖書で読んだけど、わかんなかったです。情欲って、性欲のこと? 女のひとに性欲を感じちゃいけないの? そんなことって可能ですか?」
 「人間にはむりだね」
 パウロがきっぱり言った。

 「無理なのに、神は命じるの?」
 「人間にできなくても、神にはできるよ」

 「よくわかんない。ねえ、その場合の女って、だれのことですか。奥さんとか彼女とかに性欲を感じても、罪なんですか」

 「神はそういったことを、夫婦のあいだにのみ許されたんです。つまり奥さんは良くとも、彼女は罪でしょうね」
 パウロの日本語能力を危ぶんで、真木がかわりに答えた。

 「じゃあ、ぼくは罪人ですか?」  
 正直でよろしい、と心のなかで、真木。

 「そんなことはじめてききました。だって世間では当たり前じゃないですか」
「教会にきて、世間とはちがう、っておもったんだろう?」
 「そうだけど、でもあんまりに無茶じゃないですか。女のひとに性欲を感じただけで罪なんでしょ? そういうのを見たりするだけでもいけないの?」

 話がだんだん露骨になっていきかねないのを、咳払いでとどめたパウロが、真木に英語で無茶振りをした。

 「ぼくはエリーとの思い出にかけて、妻を冒涜するようなことは言いたくないからね。ここは四十年間独身をつらぬかれた、偉大なる真木先生にお話しいただきましょう」

 はてなを浮かべている久米を傍目に、真木は頭をかかえた。

 「……正直、簡単なことではありません。特に若いときはね。見るのも罪か、と久米くんが言ったけれど、それはそうでしょうね。ぼくは独身でいた時間が長かったので、自分のこととして、この問題と闘ってきました。それでぼくが言えるのは、自分の内側にキリストを宿して、常にキリストに目を向けていないと、ひとは罪を犯すということですね」

 「真木先生が語ると、ほんとうに説得力がおありになる」
 茶化すパウロを睨んで、真木はまた言葉を選びながらつづけた。

 「いつも思い起こしていた聖書の言葉があって、それは、キリストに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのだ、という言葉なんです。キリストがぼくのために十字架にかかってくださったように、ぼくも自分の欲望を十字架につけるのだと。なにか秘訣があるとしたら、それじゃないですかね」

 「……なんでそこまでして、真木さんも、パウロさんも、神に従おうとするんですか?  目に見えないし、いるかもわからない神に、どうしてそこまで人生を捧げられるんですか?」

 真木とパウロは、すぐに答えようとしなかった。暖かな光が灯された天井の高い部屋を、ほんのひととき、夜のしじまが支配した。久米の質問は、ほんとうに良い質問だった。

 「いるかもわからない、目にも見えない聖書の神が、いまのぼくには、すぐ傍にいるように、近く感じられるんですよ」

 真木は冷めたコーヒーを啜った。ふしぎな感覚に満たされて、実際それ以上、上手く説明できる気がしなかった。

 「O taste and see that the Lord is good というのは、日本語でなんて言うんだい?」
 「味わって、見よ。主は良い方である」
 「Act 2:38は?  お前が説明してくれよ。だいたいなにを言おうとしてるかわかるだろ」
 「……八枝を通訳に使うときに比べて、あまりにも雑すぎないか?」

 「……いまパウロが言わんとしていることは、多分こういうことだと思うんですがね。使徒行伝の二章三十八節に有名な言葉があって、それはペトロの説教に心をうたれたひとたちが、では自分たちはなにをしたらいいのか、と訊ねたときに、ペトロが答えたことばなんです」

 『自分の罪を悔い改めなさい。そしてイエスキリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』

 「賜物として受ける聖霊、というのは、神の霊のことですね。いまぼくやパウロが、目には見えなくとも、神を自分の内側に感じているのも、欲望を十字架につけられるのも、すべてぼくらが聖霊を受けていると、はっきり言えるからなんです」

 「もしぼくたちだの、八枝だの、教会のひとたちが、世間のひとたちと違うように見えたとしたら、それはそこに、聖霊を受けているひとがいるからです」

 「O taste and see の伏線も、ちゃんと回収しろ」
 「うるさい。つまり、パウロはいろいろ考えたり、疑ったりするよりも、ほんとうに神はいるのか、神はほんとうに良い方なのかを、久米くんが自分で味わって、確かめてみればいい、と言っているんだと思いますよ」

 真木とパウロのやり取りに、にやにや笑いながらも、久米はまっすぐに飛びこむようにパウロの目を見つめ、ちいさく叫んだ。

 「じゃあ、ぼくにその洗礼をしてください!」

 パウロはおもわず目を細めたが、口先では久米を押しとどめた。

 「きみ、まっすぐなのはいいけどね、それが今だけにならないように、もうすこし深くキリストを知ったほうがいい。まあ、また教会においで。もうすこし待ってごらん」

 久米とパウロがそれぞれの家に帰ると、真木はカップを集めて、食洗機を回した。教会で大量の洗い物が出るので、大概が八枝に降りかかってくる負担を減らすために入れさせた、外国製の大型なものだった。それでも、いろんなひとの集う教会のなかで、経済的に恵まれている彼らは、なにをするにも出来るだけ、ひとの嫌みにならないように、と慎むように暮らしていた。

 八枝の父に申しわけない、と真木はよく気に病んだ。クリスチャンの家庭で、なににも縛られず、自由に育ったはずの八枝が、いまは亡霊のような旧家の重圧や、伝道所と化している家でのさまざまなこころづかいに縛られていた。パウロの妻が故人であるせいで、牧師夫人のするような役割が、まだ若い彼女にふりかかっているのだった。

 二階に上がると、八枝はまだ布団のなかで本を読んでいた。覗いてみると、それが「行人」だったので、真木はすこしどきりとした。

 「みなさん、お帰りになったんですね」

 八枝はすこし暗かった。漱石ではなくて、誰かあまり思いつめない、胃に穴を開けないような文豪を読んでいてくれないだろうか。そんなひとがいるか、と真木は頭を回転させた。八枝が結婚まえによく読んでいた、ジェーン・オースティンを思い出して、もうずっとあれだけ読んでいればいいのに、と思ったとき、それがあまりに極論なのに、彼は苦笑した。

 「どんなお話をされてたんですか」
 あまり突っ込んで聞くことのない八枝には、めずらしい質問だった。
 「……レディーのいるところでは、話しづらいようなことを」
 八枝にはあまりぴんと来なかったらしい。
 「わたしが男で、そしてもっと年がいってたら、もっとみなさんのお役に立てただろうなあ、ってよく思うんです」
 「それはつまり、きみがおじさんだったら良かったってことかい?  とんでもない。おじさんがこれ以上増えたら、おれは数減らしのために、逐電してやるね」

 八枝がふふふと笑ったので、真木は安堵して眠りについた。




8



 松本平では桜が見頃だったが、木曽の深山にはまだ春も来ていないようだった。眠れる山と裸の木々を車窓に見ながら、愉しげな声で八枝がかるく口ずさんだ。

 「♪木曽の谷には、真木繁り」

 運転している真木は、途端に苦い顔をした。

 「きみは、おれの名前に関するコンプレックスをすべて刺激する気かね? 」

 わざとやったらしい八枝は、おどけた笑みを浮かべた。

 「信濃の国はまだわかりますけど、そんなにみんな、幕末の久留米の神官なんか知りませんって」

 その同姓同名の幕末の志士のせいで、真木は妻にさえも、自分の下の名前を呼ばせようとはしないのである。

 「時々きみみたいなのがいるから、油断ならんのだ」

 久米が来た翌日だった。重森三玲作庭の枯山水を見てきたあと、木曽路でもいちばん大きい、奈良井宿をみて帰るつもりだった。

 真木に連れまわされて、八枝もこの一年で、わからぬなりに庭を見てきた。今日のめあてだった看雲庭は、真木がむかし父親に連れられてきた庭だったらしい。八枝は石の配置の意味だのは、説明されてもあまりわからない。ただ波々が北欧模様みたいでかわいいなと思った。ばかにされたくないので、口はつぐんでいたけれど。

 奈良井の宿は、冬の短い日を直角に浴びて、軒並みが黒い影を落としていた。路の向こうに見える山は茶色だし、それになにより寒かった。夏に来るべきなのかもしれない、でもこう観光客の少ないのも、こう寂しさが漂う風情もなかなか悪くないと、ふたりは凍えながら強がった。

 寒さから逃れようと、宿場沿いに一軒のカフェを見つけた。町屋らしいほの暗い席に着いて、コーヒー二つとパフェ一つ頼むと、真木が突然言いだした。

 「明日の通訳は、おれが代わろうか」

 あの場所で通訳をすることは、彼女の存在意義のようになっていたから、その提案はすくなからぬ驚きをもたらした。

 「こないだへまをしたから、パウロさんにクビにされたんですか?」 
 「いや、パウロは関係ない。おれひとりの考えです」
 「どうして、わたしにはそのくらいしか出来ないのに」
八枝はすこし涙目になっていた。

 「ごめん、泣かせるつもりじゃなかった。こないだの失敗を盾にとって、おれの方がマシだと主張するつもりもない。おれはきみみたいに流暢に出来ないし」
 「でも真木さんの方が、リスニングが上手いじゃありませんか」
 「それはあっちに住んでいたし、あの特殊な南部訛りに耳が慣れているだけだ」

 ともかく、と真木が仕切り直した。

 「おれが言いたいのは、きみはあまりにも長く、矢面に立ちすぎている、ということなんだ。ちょっと安全な場所に戻してあげたい、と勝手に思っただけだよ」

 やってきたパフェをつつきながら、八枝はその言葉を消化しようとした。

 「矢面に立ちすぎた、ってどういうことですか?」
 「人目につきやすい、視線も批判も浴びやすい最前線を、きみはずっと突っ走ってきた。なんだか最近疲れているのは、そのせいじゃないか」

 「疲れてるようにみえます?」
 「こころがね」

 言い当てられてしまって、八枝はまた涙が上がってくるのを感じた。

 「でもみんな頑張ってるじゃありませんか。あなたもパウロさんも」
 「おれだって二十代の頃には、いまほど安定して、奉仕は出来なかったんじゃないかな。年を取ると、こころを守る術も、持久戦を戦うすべも、なんとなく身に付いてくるものでね」

 八枝がふくれたのを見て、真木はことばを継いだ。

 「おじさんになりたいだとか、何だとか、自分でないものになろうとするのは、止めてくれないか。どうしてそんなに年を気にするのかな。こちらからすれば、羨ましいばかりなのに」
 「でもときどき、自分に求められている役割が、自分より十は年を取っているような気になるんです」
 「それはエリーのこと?」
 「ええ、たぶん」
 真木はすこしうつむいた。

 「たしかにきみたちは立ち位置が重なるし、背格好も似ているし、ときおり混ざってしまっているのかもしれない。特にパウロはなあ、まだエリーが死んだことさえ、受け止めきれていなそうだからなあ」
 「わたしも嫌だってわけじゃないんです」
 「でも、エリーはパウロの奥さんで、きみはおれのだっていうのは違うよ。しかもきみの方がずっと若い。勝ったね」
 「エリーさんの方が美人なのに」
 そんなこともないさ、と真木がはぐらかした。

 「エリーは、若いころからいつも強いひとで、主の喜びがわたしの強さ、という聖句を見るたびに思い出すような、透きとおったひとでした。ああいうひとは、あまり長くこちらに留まれないんじゃないかと思う。だからきみはそれで結構。たくさん泣いて、たくさん傷ついて、ゆっくり成長していけばいいよ」

 それを侮辱ととるべきか、素直に受けとるべきか、考えあぐねている八枝に、真木が言った。

 「まだ年寄りの忠告を聞いてくれるかい?  おれが本当に言いたかったことなんだがね。きみはいつも通訳をしていたり、もてなし役を宛がわれたりで、どうしても人の必要を満たす方ばかりに目が向いてしまうだろう。いつのまにか、自分の内側が空っぽになっていたりはしないかい? 誰にだって、人の面倒ばかり見てないで、自分とキリストとの関係を、最優先にしないといけない時がある。すこし離れてみたほうが、見えてくるものがあるんじゃないだろうか」

 格子の向こうを色鮮やかな観光客たちの過ぎていくのが、うつむいた目の端に写った。うす暗いなかに顔をあげると、真木の目はとてもまっすぐに八枝を見つめていた。八枝はこころのなかで、おおきな白布に太い筆でひといきに「降参」と書いた。





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