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海の上の証し ウィリアム・ブランハム (日本語訳)



これは筆者が、三年程前に翻訳した、
ウィリアム・マリオン・ブランハム
(William M. Branham
アメリカ、1909-1965)
による一説教の全文です。

どなたか探されている方の、
お目に止まりますようにと祈りつ、
ここに掲載することにいたします。

大変長い、
一時間半の説教の書き起こしを
翻訳した文章ですので、
お読みになられたい方は、
どうぞご自由に
印刷等なさってください。




A Testimony On The Sea Dallas, Texas, USA March 7, 1964

海の上の証し アメリカ合衆国、テキサス州、ダラス 1964年3月7日

 さあ、頭を下げて祈るまえに、神の御言葉を読みたいと思います。わたしがいつも御言葉を読みたがるのは、わたしの言葉は人の言葉であって、間違えるけれど、神の御言葉には決して間違えがないからなのです。聖書の箇所をたどっている皆さん、さあ、マタイ書を読みましょう、今夜は14章です。22節から始めます。

 さあ、頭を下げてお祈りをしましょう。私たちの首と心を神の御前に下げているいま、今夜この建物の中で神に覚えてほしい祈りのリクエストがあるひとはいますか、手をあげてください。主よ、彼らを見てどうかあわれみ深くあってください。

 天のお父さま、あなたの御臨在に、主イエス・キリストの御名という道によって、近づきます。彼が約束してくださった恵みの確証によって、彼の名によって尋ねるならなんでもあなたが与えてくださると知っているからです。本当に感謝します。あなたがいま祈りを聞いてくださったというこの確証の素晴らしさを、どうやって言葉に表せましょうか。主よ、あなたは上がっているこれらの手をご覧になりました。彼らの必要をあなたはご存知です。

 あなたは全知、全能であり、無限の神であって、人々の心の中を知っておられます。わたしたちの思いを、その生み出される前から知っておられるお方です。主よ、いま私たちの願いがあなたに届くとき、どうか天から見下ろしてください。そしてこれらの願いをその御心のうちに受け取って、その栄光の富に応じて答えてくださいますように。

 どうか私たちの心の願いを叶えてください、それらが神の御心に叶ったものでありますように。御心を叶えられるのはあなたの喜びだと知っています。どうか今夜もあなたの御臨在をおおいに注いでください。主よ、病人を癒し、失われたものを救い、罪と不法のうちに死んでいるものたちを生き返らせて、新しい命を今夜与えてください。どうかイエスを見られますように。その御名によって祈ります。アーメン。どうぞ座ってください。

 みなさん全員に座ってもらう席を用意できなくて、申し訳ありません。第一夜から、大勢の人々にお断りしなくてはならなかったと聞いています。本当に申し訳ないことです。グラント兄弟も、まだ新しい部屋を増設するに至っていないのです。左側に広げるつもりだと聞いていますが。親愛なる、親切な兄弟、彼に今日、ダラスのこの教会に来るのを毎年の恒例行事にしないのかと聞かれました。扉がどんどん閉じられていくようなこの時代に、なんて素晴らしいお招きなのでしょう。私を毎年呼んで、恒例行事にしようなんて言ってくれるのですから。本当に感謝しています。

 今朝、かれらと交わりの時を持つことができました。ゴードン・リンジー兄弟や大勢とね。これからバーモントで開催される集会のスポンサーであるペリー・グリーン兄弟、彼も今夜私の後ろに座っています。ドン兄弟とその奥様、本当に皆さんにここにいてもらえて、嬉しいことです。主の祝福がありますように。

 さて今晩は、説教をできる限り易しいものに、子どもでもわかるようなものにしようと思っています。明日の午後は宣教のための礼拝ですから、皆さんに来ていただきたい。さて、もしあなたの教会で礼拝があるなら、どうかそちらに行ってください。そこがあなたが配備された位置なのですから。誰にも自分の教会の礼拝を放棄して欲しくはありません。

 そしてもしあなたが病気で、祈ってもらうために来たいけれど、自分の教会に明日の午後の礼拝があるのなら、自分の牧師に訳を話してその理解を得てください。私たちが、ここダラス一帯の、イエス・キリストの共同体を助けるため、協同で働いているのだと、あなたの牧師に知らせてください。

 ですから明日の午後、たしか二時半に、宣教のための説教をします。それから病人のために祈りましょう。今まで配ったプレイヤーカードをすべて取り上げて、今週祈り残した人々すべてのために、明日一日使って祈りましょう。

 さあ、今夜話そうとしているのは、ちょっとしたドラマのようなものです。今晩のうちにできるかぎりたくさんの病人のために祈りたいので、ちょっとの間だけ。聖句は「安心しなさい。わたしだ、イエスが語っているのだ」、そして題目は「海の上の証し」です。

 それはきっと午後も遅くなった頃の頃だったでしょう。太陽が沈みゆくころのこと、きっと暑い日で、ここと同じような暑さだったのではないでしょうか。(エアコンが切れてしまいました、今直しているところです)そう、だからさっきあっちで話す題材を変えたんです、早く終えられるようにってね。こんな暑さの中皆さんがずっと座っていなくていいようにと思って。

 この大男の漁師は、一日中イエスのなされる偉大な業を見ていて…  私もその時代に生きて、彼の後を追いかけていたかったなあ。でも知っていますか、いまだって私は、それと同じ特権を得ているんです。イエスの業を見るという特権を。

 そしていま彼を見ている方がずっと、その頃より素晴らしいんです。私はもっとイエスに信仰を抱いています、その時代に生きていたよりも、もっとたくさんの信仰を。それは二千年の間に、福音が真理だということが証明されたからです。二千年経ったいまもイエスはまだ生きていて、その頃とおなじ働きをしているのです。

 ですから私たちはその時代の彼らよりももっと確信を、そしてもっと信仰の土台を得ているのです。なぜってイエスはそこら辺を歩いているただの人間で、神のもとからきた神の子だと言っていて、彼を通じて神がその時代に語りかけているのだと言っていたのですから。

 そしてみな彼のことを疑っていました、特に神学者たちはね。それにしてもねえ、可哀想なはなしですよ。だってこの神学者たちは、神に盲目にされていなかったら、信じていたに違いないんですから。聖書にそう書いてある。

 ねえ知っていますか、今日もう一度彼らを盲目にするって、神が約束しているのを。彼らが見えないようにするために。「軽率で、思い上がっていて、神よりも快楽を愛する者、和解せず、中傷し、節度がなく、善を好まず、信心を装いながら、その実を捨てる者」その頃の約束と同じでしょう。

 だからこういう人たちにはもう可哀想だとしか言えません。この時、この時代に成就すると神様が約束されていることに、盲目で気づくことができないのですから。それが私たちにははっきりして、見えているのです。人々は見ても、首を振って言うでしょう、「何も見えないよ」と。だから可哀想なんです。それでも聖書の言葉は成就されなくてはいけません。そうならなくてはいけないのです。

 さて、この弟子たちは神に選ばれた人々でした。ねえ、イエスは彼らに、世界の基が据えられる前に彼らを選んだのだと言ったんですよ。彼らはあらかじめ定められた、神の種でした。ですから厄介事が起きて、人々がイエスを疑問で追いつめたようなときでも、彼らには何の疑問もなかったのです。彼らは理解こそできねど、ともかくイエスのみを知ろうとしたのです。「あなただけが命の言葉を持っておられます」。そしてイエスとともにいようと決心したのです。それが彼らに定められた役目だったのですから。ですから今日も、永遠の命に定められたひとびとは、永遠の命のもとにやって来るのです。「父が私に与えてくださるものは皆、私に来るであろう」。それが御言葉です、御言葉が地に落ちる事はありません。神の言葉なのですから。

 さてこの弟子たちは、山沿いの広い野原で大きな集会を開き終えたところでした。イエスが彼らに言われたのです、「さあ、わたしの先に行って海を渡りなさい」と。そういってイエスはひとり山に登って祈りに出かけたのです。弟子たちは、友達たちに会ったあとで…… わたしにも彼らの気持ちが想像できます。友達に会って、別れるときの気持ちが。やっとお知り合いになれたという頃に、さよならをいわなくてはならない気持ちが。

 わたしが国中、世界中を旅するとき、このことでいつも心を痛めるのです。お友達を作って、そして置いていくということで。裁きの日に再会するまで、もう二度と会えないだろうと思うと、なんだか悲しくなるのです。

 さあわたしには舟が見えるようです、その舟首が岸に乗りあげているのが。それはきっとシモン・ペテロだったでしょうか、その太い日に焼けた腕と肩をもって舟を押し、くるりと海の上に浮かべたのは。皆が岸辺の方に向かってさよならと手を振っていました。叫ぶ声が聞こえてきます、「また戻っておいで、先生を連れてまた会いに来てね、またリバイバルを開いて頂戴、今日はほんとうに祝福されたよ」と、新しい友達たちが手を振っているのです。

 それからペトロは舟に乗り込んで、他の弟子たちの間をかき分けて座りました。きっと彼の兄弟アンドレの隣だったでしょうか、そして艪を手に取ったのです。風ともなく、弟子たちの漕ぐ艪ともなく、舟は進んでいきました。彼らは二人一組になって座っていて、二人がこちら側、そして… 六組か八組の艪があったのでしょうか。漕いだり休んだり。そうして風に乗って舟を平穏に進ませて、常の風が吹けば帆を揚げて、舟が走り出すのです。

 それは暑い午後のこと、聖書でその前に起きた出来事を読むと、きっとそうだったろうと思います。

 とっても静かで、晴れていて、暑い午後でした。太陽が照っていて、彼らが漕いだり手を休めたりしながら、人々に手を振って「またいつか会おうねえ」などと言いながら海に漕ぎ出すと、日が暮れ、黄昏時が訪れて、やがて闇に呑まれて行きました。

 彼らはかなり早い速度で漕ぎ出していました。海に浸かった、大きくて重い艪を動かすのは、大変な仕事です。彼らの大半は漁師で、大きくて強い、海の男たちでした。

 彼らはきっとイエスがいまにも追いついて、舟に乗られるのだと思っていました。ただ舟を出して岸辺をちょっと漂っていようと。舟を出して、ゆっくり漕いでいようと。

 きっと若いヨハネが、まず話し始めたことでしょう。彼はその中で一番若かったのですから。きっと彼が言い出したのです、「ぼくはちょっと疲れちゃった。ちょっと岸辺を漂っていようじゃあないですか。ねえ、考えてみたら、急ぐ必要はないですよ、イエス様はまだ来ていないんだから。ちょっとここで待っていて、ここで気分転換でもしていましょうよ。」

 そうやってきっと彼は座って、頭を下げていたと思うと、証しの集会を始めだしたことでしょう。これこそわたしが話したいことなのです。きっと彼がまず立ち上がって、「兄弟たち、人々が何と言おうとも、どれだけ疑おうとも、ぼくはもう今日こそ確信しました、ぼくたちが従っているのは偽者じゃないって。ぼくたちが従っているのは神以外の何者でもありません。だって、神以外のだれが今日彼の行ったような業をできるっていうんですか。ねえ、彼が今日ビスケットを手にとって割って、五千人に食べさせたとき、あれ以上にすごいことはないと思ったんです。今日までのぼくには少し疑いがあったかもしれない。(わたしはその証しを復誦しているだけなんです、そのままにね。)でもこれで決着がつきました。」

 「思い出せば何年も昔のこと、ぼくはヨルダンの近くに住んでいました。ちっちゃな男の子だった頃、ぼくの母 ーきれいなユダヤ人の母だったー はよく午後になるとぼくを膝に抱きあげて、ポーチの揺り椅子に座ってぼくをあやしてくれました。罌粟の花がヨルダンの岸辺に咲き誇っていて… 彼女はよく、先祖たちがやって来た砂漠の方を見つめながら、聖書のおはなしをしてくれました。一番気に入っていたのは、シュネムの女のはなしでした。その小さな男の子死んじゃうはなし。そこに預言者がきて、その男の子を生き返らせてくれるんだ。あれはほんとうにどきどきするおはなしだった。

 でも母がはなしてくれたはなしの中で、一番どきどきするのはこれだった。「いい、ヨハネ、あなたはまだちっちゃな子供だけれど、これから大きくなるあなたに覚えていてほしいことがあるわ。わたしたちの先祖をエジプトから連れ出してくれた偉大なジェホバのことを。わたしたちは荒野を通ってあの川を渡ってきたの。そして荒野をさまよっていた四十年のあいだ、服を手に入れる場所もないし、食べ物もないのに、神さまは天からその荒野に、毎晩パンを降らせてくださったのよ。それは先祖たちが、偉大なジェホバについていくというお仕事を果たしていたからなのよ。そしていつの日か、ジェホバはこの地球に人間の形をとって降りてきてくださるの。彼は”油そそがれた者”、メシアと呼ばれるようになるのよ。」

 「思い出してみると」ヨハネは言いました、「ぼくはちっちゃな子どもだったので、子どもの頭なりにそれがどういうことなのか考えてみようとしました。神さまはどうやって二億半もの人々に、荒野で食べ物を与えることができたんだろうって。どうやってパンを手に入れたんだろう。ぼくはママによく聞いたものです。「ママ、そのひとは、ジェホバは、おそらに大きなオーブンをもっていて、夜のあいだずっと大忙しでパンを焼いていたのかな。それを地面にもってきてみんなに食べさせたのかな。ジェホバのおそらはオーブンでいっぱいなの?」」

 「母は言いました、「違うわ、おちびちゃん、あなたはまだちっちゃいからわからないのよ。いい、ジェホバは創造主なの。オーブンはいらないのよ。彼はただ語るだけで、そのことばがほんとうになるの。彼は偉大なジェホバだから、語るだけでいいの。彼が語って、それを天使たちが地上の人々に届けたのよ。」

 「そして今日、彼があそこに立っているときの顔の表情を見ましたか。心にすこしの疑いもない顔でした。ぼくは後ろの岩に登って、彼がパンをとってはそれを裂くのをみていたんです。それをぼくたち弟子に渡して、人々にパンが配られるのを。彼の手がまたパンに伸びたときにはもう、パンは元どおりになっていて、それを何百回も繰り返すのです。そのうちカゴがすべて満たされて、みんなお腹がいっぱいになったのです。

 「あれはジェホバ以外ではありえないとぼくはわかったんです。だってジェホバのされたことそのままなのだもの。ジェホバのみが創造することができるのです。だからあの方は偽者なんかじゃないって。創造主はたったひとり、ジェホバだけです。だから色々見てきたけれど、これでぼくは満足しました。ぼくの心はもう完全に彼に従っているんです。ぼくは心から信じています、彼はただの預言者じゃないって。預言者だけれど、預言者以上です。神ジェホバが、ぼくたちのあいだに住んでいる、それこそが彼です。パンを創造する、それはジェホバのされることでしょう。だから彼は「もしわたしが父のわざを行わないとすれば、わたしを信じなくてもいい。そのわざを信じなさい。それがわたしがだれなのかという証しをするからだ。」と言えるんです。人々にも簡単にわかりそうなことじゃありませんか。

 こうやってヨハネは、彼がメシアだと納得したのです。イザヤが「ひとりの男の子がわれわれのために産まれた。その名は驚くべき指導者、平和の君、力ある神、永遠の父」と呼んだ方。ヨハネはその目でみた事柄によって納得したのです。

 若者が証しをしている…

 その時のことです、シモン・ペトロがいいました、「なあ、ちょっと待ってくれよ。ここで証しの集会を始めようっていうんなら、俺にも一言言わせてもらいたいね。みんな知っているだろうけど、俺はずっと疑っていたんだ。弟のアンドレは預言者ヨハネのリバイバルにも参加していたんだが、あのヨハネはこれから来られるメシアについて証ししていて、メシアを自分が紹介するんだって言っていただろう。俺はそういうことをアンドレに言われても、ずっと疑っていたんだ。なんて言ったって、いろんなメシアもどきの話しなら聞き飽きているからね。

 でもよ、兄弟たち、俺の年老いた父さんのことを知っていないかい。ヨナスって名前なんだけどよ、すごくしっかりとした信仰のひとだったんだ。今も覚えているのは、父さんと母さんと、俺たちがみんな集まっているときのこと。俺たちは漁師だから、魚が獲れないときは、パンが買えないわけだ。そんなときにみんなで床に膝をついて、神さまに祈ったんだ。「神さま、どうか今日も魚を捕まえさせてください。どうか魚を売って、借金を返して、食べ物を買えるようにしてください。」

 「そういうふうにして嵐のなかを漁にでたんだ。嵐なんかへっちゃらにね。」

 そして父さんは… そう、父さんは灰色の髪を背中までたらしていたなあ。ある日父さんは舟のたも網のうえに腰掛けて、俺にこう言ったんだ。「シモン、お前はわしの長男だ。知ってるだろう、わしはずっと信じてきたんだ、シモン、わしはメシアをこの目で見ると。我が民はエデンこのかたメシアを待っていたんだからな。どれだけ長くかかろうと、メシアが来るのは間違いのないことじゃ。」

 「「もう四千年も経つじゃないか」とお前はいうかもしれんが、しかしわしはメシアが来るのを信じている。すべてのユダヤ人が自分の一生のうちにメシアを見られると信じて生きてきた。わしも生きているうちにメシアを見たいと思う。しかしわしは年老いてきた。もう漁も辞めにゃあならんだろうし、体のあちこちが痛むでの。わしが生きている間には多分見られないだろう。しかし、息子よ、もしかしたらお前なら見られるかもしれん。だからお前に聖句をよおく教えておきたいのじゃ。いいか、メシアが登場する前には、いろいろなことが起きるだろう、いろいろいんちきなことがな。なぜってサタンは、本物のメシアが来たときの評判をぶち壊そうとするからじゃ。いつだってそうじゃよな。(今もその通り)」


 それから彼は言いました「それから父さんは俺に腕を回して言った、「息子よ、いいか、本物のメシアを確かめる方法はひとつじゃ。わしらはもう何百年も、一人の預言者もなしでやってきた。マラキが最後の預言者じゃった。それさえも、もう四百年も昔の話しじゃ。それ以来預言者はいない。しかしよおく覚えておけ、モーセがこう言ったんじゃ、メシアが現れるとき、彼は預言者になるとな。

 わしらユダヤ人は預言者を信じるようになっているんじゃ。そしてメシアの地上での歩みは、神さまが約束してくださった神の語られた御言葉じゃ。御言葉はいつだってまず預言者に来る。そして預言者はそれを証明するのじゃ。ゆめゆめ忘れるでない、息子よ。大がかりな何かが起こるじゃろう、そして人々はそれに夢中になって一世を風靡するやもしれぬ。しかしメシアは預言者になるのだからな。なぜって神は決してそのやり方を変えられはせぬのじゃ。そのお方がメシアは預言者、とおっしゃったのじゃからな。だから息子よ、覚えておけ、預言者というのは主の言葉を語るひとのことで、メシアが来るとき、彼は預言者になるのだからな。」」

 「いまもまだ父さんの腕の感触がするみたいだ」シモンが言いました、「父さんがこう腕を回して、アンドレはそこに立って網を洗っていた。アンドレ、お前も覚えてるだろ?」

 「ああ、シモン。覚えているとも。」


 「それからアンドレが、このヨハネは預言者だと言って来た。俺は魚を売ったりするのに忙しくて… 父さんはもう何年も前に死んでしまったんだ。でもずっと心に引っかかっていた。父さんがメシアは聖書に基づいた預言者になるといったこと。忘れるな、それは神が語られた言葉だからなといったこと。御言葉はいつだってそれを証しする預言者のもとに来ること、そうしてその時代に約束されたことがあらわされるのだと。「さあ、シモンよ、いつの日か」と父さんはいった。父さんはいったんだ…」

 「そうしてアンドレに誘われて、そのイエスというひとのいるという集会を見にきたんだ。噂ならいろいろ聞いていた。このイエスの前にもイエスというやつがいて、なんだかすごいことをすると公言して四百人を連れ出したが、みんな滅びちまった、そういう話をいろいろな。俺は今回も同じようなものだろうと思っていた。また熱に浮かれた大がかりなリバイバルとか、なんか大きな教団を作ろうとしている奴らとか、そういう類だと思っていたんだ。でもある日、弟のアンドレについていってみることにした。」

 きっとそのとき、舟が揺れ始めたことでしょう。誰かが叫び始めたのです。するとシモンが言いました。「おい座れ、舟を揺らすんじゃない!ちょっと待て、落ち着きなさい!」

 そして言いました、「そうしてそこに行って、彼の目の前までやって来たとき。初めてなのに、彼は俺の目をまっすぐに見つめて、俺の名前を言ったんだ。俺たちは初対面だったんだよ。俺のことを知っているばかりか、彼はあの敬虔な俺の父さんのことも知っていた。俺に聖書を教えこんでくれた父さんを。それでこれはメシアだってわかったんだ。それで納得した、その場でな!あれは… あれで俺は納得したんだよ。」

 きっとフィリポが言ったことでしょう、「私も一言いいですか? さてと、兄弟ナタニエルよ、気分を悪くしちゃいけません。私たち二人は、メシアがどんな方なのか学ぶため、聖書を何年も何年も研究して来たんですからね。私はイエスがそうするのを見たとき、その場を離れて、ここにいる友達のナタニエルを連れて来たんです。そしてナタニエルが来たとき…」

 ナタニエルが言いました、「僕が話そう、僕に話させてよ!」

 ねえ、ご存知でしょう、イエスさまに何かをしていただくと、わたしたちはじっとしてはいられないんです。自分で話したくてたまらなくなるんです。その通りでしょう。それがほんとうのことであったら、話さずにはいられなくなるんです。聖霊で満たしていただいたとき、私はそのことを話さずにはいられませんでした。誰かにそのことを知って欲しくって。他の誰かに話してもらうんじゃない、自分の口で話したくて仕方ないんです。

 そしてわたしには、ナタナエルの興奮した様子が目に浮かびます。「ねえ、僕が話したいんだ。フィリポ、君が話してくれたとき、僕は君のことをちょっと疑っていたんだよ。僕は聞いたね、「ナザレから何か良いものがでるだろうか」って。」

 そうしたら君は、人類史上最高の良い返しをくれたね、「来て、見なさい」と。」それは今日にも通用することです。そうですとも、家に留まって批判をしなさるな。やって来て、自分の目で確かめてごらんなさい。

 「ナザレから何か良いものが出るだろうか。」

 「「来て、自分で見てみなさい。」それから君は僕にこう言ったね… そうして僕がイエスのもとにくると、彼は言ったんだ。僕がヘブルびと、イスラエル人で、正直な人間だって。…それは僕にもわかってたんだ。でもどうしてと僕は思った。彼は普通のひとに見えた。僕はメシアっていうのは、天の黄金の回廊から、この大きな教団のど真ん中に、エルサレムに降りたって、歩きながら「カヤパ、わたしが来たぞ」っていうものだと思っていたから。」

 「でも彼はナザレの出身で、しかも貧しい家の生まれで、それに私生児だなんていう噂のあるひとだというじゃないか。彼は祭司の服装をするでもなく、普通のひとの格好をしているし、僕はそこに歩いていくまでに思っていたんだ。「どうしてこのひとがメシアであろう」って。彼の着ている服は、若い頃からの着古しのオンボロで、ずっとそのまま着ているみたいだったし、髪の毛は背中にこう垂らしていて、街で見かける普通の人そのものだったのだもの。それから彼は僕のことを見ていったんだ、「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」と。それで僕は納得した!御言葉に誓ってこのひとはメシアだって!彼こそメシアだって!」

 きっと舟が揺れたことでしょう。そうして証しの集会は続いていったのです。おお、なんて素晴らしい時を過ごしていたことでしょう、海の上で、ほんとうに良い時を過ごしていたのです。

 アンドレが言いました、「ちょっとの間、おれの頭を悩ませていたことがあるんだけれど、そのことを話してもいいかい。覚えているかい、みんなでジェリコに行ったときのこと、彼が「ここを登らねば。わたしはサマリアを通らなくてはならない」っていったこと。そうしてみんなでサマリアに登っていくと、シカルという町で、彼はおれたちに町まで行って食料を買いにいくようにと、全員を追いはらったのを。」

 「ああ、覚えているとも!」

 「もちろん。」

 「うん。」

 舟はもう大揺れでした。リバイバルが終わったあと、みんなで素晴らしい証しを分かち合っていたのです。そのようにしてこの証しの集会が開かれたのです。

 アンドレが言いました、「そうさ、覚えているかい、おれたちが帰ってきてみると、なんということか、我らが先生は娼婦みたいな女と話しているんだから。「ふーむ」おれたちは思ったさ、これは気まずいと。見なさい、彼はみんなを追いやったとおもえば、こうして若い女とふたりきりで話しているんだから。彼がここにいて、評判の悪い女がそこに座っている。覚えてるだろう、おれたちみんなで茂みに隠れてふたりの会話を聞いていたのを。」

 「彼がこういうのが聞こえた、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」おれたちは思った、「ふうむ、もしかすると勘違いしていたのかも。この女、ほんとうはちゃんとした既婚女性だったのかもしれない」と。」

 「すると彼女は、イエスの顔を見ていった、「わたしには夫はいません」と。

 「みんなががっかりしたのを覚えているかい。我々が信じている偉大なメシアが、嘘をついていたと。あの板ばさみの状態。なぜって彼は「あなたの夫を連れて来なさい」と行ったのに、この女は夫はいないって証言したんだから。撃ち返し玉が彼にむかってきたわけだ。覚えているかい、みんな驚いて、息が止まってしまったのを。」

 「ああ、覚えているとも。」
 「そして彼の次の言葉を覚えているかい、彼は言った、「あなたは真実を言った。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。」」

 「ああ、覚えているかい、あの茂みの裏での証し集会を!もう、まったく持って、彼の裏をかくなんてことできないんだ、彼は神なんだから!」

 「おう、それこそまさしく…」シモンが言いました。

 「これでおれは納得したんだ。」とアンドレ。

 バルトロマイが言いました、「待っておくれ、わたしも証ししたいんだ。兄弟方、よろしいか?」

 「ああ、いいとも、したいならどうぞ。時間ならいくらでもあるんだ。彼はまだ来ていないからね。ちょっとこの辺を漕いでいればいいよ。どうぞ、バルトロマイ、証ししてください。」

 「では、わたしにとってすごいことのうちの一つを。ジェリコにいる姉妹で、リベカというひとを覚えているかい。」

 「ああ、彼女のご主人がそこでレストランをやっているという、うんうん。」「彼はビジネスマンで、名前をザアカイっていう、」「ああ、ああ、彼のことならよく覚えているよ。」

 「覚えているだろう、彼女は… 彼女はわたしたちの姉妹の一人で、主を信じていたんだけれど、ザアカイがイエスを受け入れずに終わるんじゃないかってとっても心配していたのを。ザアカイはそこの祭司ととても仲が良いひとで。だからリベカは何かが起きて、ザアカイの目が開かれ、この先生が神の御言葉が肉体になってわたしたちの間を生きているお方だって認めるように、と祈ってたんだ。わたしたちは彼に話そうとした… ナザレのイエスはひとの心の秘密を知る人で、それが彼が御言葉である証しであること。御言葉は識別する…」

 「「くだらない!」ザアカイは言った。「わしは祭司たちを信じてる。祭司のいうことでわしは満足なんでね。」なんといっても彼は町のいろんな団体に所属していたからね、実業家クラブとか色々に。だから彼にはその信頼を裏切るわけにはいかなかったんだ。」

 「リベカはわたしたちに祈るようにいった、祈るようにと。でもわたしたちが彼が預言者だって少しでも口の端に載せようものなら、ザアカイは言うんだ。「くだらない。祭司たちは言っているじゃないか、あいつはベルゼバブだ、悪魔だと。悪魔の力であんな業をしているんだと。彼はメンタルテレパシーをやる奴だと。それだけだ、それ以上の何もないのだ。」と。」

 「「今の時代にそんなことが起こるはずはない。我々にはもう何百年も預言者はいないのだ。どうしてその男、教団のライセンスも持ってない男が、預言者であり得るんだ。そんなはずはないに決まってる!」」


 「しかしそれでも、彼の妻のリベカは諦めないで、祈っていたんだ。

 ある朝、イエスが町にやって来たとき、リベカがわたしたちに言った、ザアカイは彼を見るために通りに出ていったと。ザアカイはイエスが預言者だとは信じていなかった。だから彼はこう言ったんだ、「ただちょっと彼をじっくり見てみたいと思ってね。」ザアカイはこの前、レストランで一緒に食事をしていたときにそう証ししていた。」

 「そうして彼はイチジクの木に登って、言った。「そうだ、こうしよう。わしがここに隠れていれば、彼からは見えるまい。わしは背が低くて、小柄だからな。下で人混みに紛れていては、何も見えないからな。木に登ってみていることにしよう。」そうしてザアカイはふたつの大枝の元にのぼって、そこに座った。」

 これはじっくり座って学ぶのに良いところ。ふたつの道、あなたの思いと神の思いが出会うところ。ねえ、じっくり考えるに値することでしょう。

 「そしてザアカイは言った、「そういってみれば、彼はきっと預言者に違いない。もしかしたらわしが間違えていたかもしれん。だからこうしよう、彼のことをじっくり見てやるんだ、どうせわしのことは知らないんだから。こうやって葉っぱで身を隠してしまえば、わしのことなんて目にも入らんだろうからな。彼が通り過ぎたときに観察していよう。もし彼が、それらしいひとでなければ、ここに座ったまま、思った通りのことをいってやるんだ。」

 「そうしてザアカイは見ていた。葉っぱをもって、背伸びしながら、イエスが角を曲がってくるのを見ていた。そうしてイエスが曲がり角を曲がって、道をこちらへと歩んでくる、そう、あちらこちらと視線を移しながら。弟子たちは呼びかける。「すみません、脇に寄ってください(病気のお子さんをお持ちの方や皆さん)、すみません、先生はとっても疲れているんです。昨晩の集会はすごかったもので。」そうやって低い物腰で、「すみませんが、どうぞ脇によってくださいませんか。先生を通してください。いま町に入られるところなんです。申し訳ありませんが、ちょっと隅にお寄りください。」」

 「そうしてザアカイは、木の上に腰掛けて、イエスを見下ろしていた。」

 「するとイエスはその木の下へとまっすぐにやって来て、立ち止まり、見上げると言った。「ザアカイ、降りて来なさい。きょうはあなたのところで夕飯を食べよう。」

 「それでわたしは納得した。イエスはザアカイがそこにいること、その名前、彼の職業も知っていたんだ。これでわかった。これがわたしのメシアだと!そうだとも、メシアがそれをすると知っていたのだから。そうだとも。そうしてその日イエスはザアカイとともに行き、夕飯を食べた。なんて素晴らしいときだったことだろう。いまも覚えている。」

 きっとその頃のこと、証しの集会が続いている時のこと、そう、弟子たちは海の上で証しをしている。きっと夜の暗闇のなか、どこか極北の彼方で、サタンが丘をのぼり、この出来事を見下ろしていました。彼はこの証しの集会を見て気づいたのです、彼らがイエスを置いてきてしまったことを。これぞ彼のチャンスでした。ねえ、この出来事はまるでいまにも繰り返されているようではないですか、リピートのように。彼らは… リバイバルの熱に浮かされたまま、イエスを置いて来てしまったのです。

 それこそ今日のわたしたちにおこったことではありませんか。この混乱のときに、全世界にリバイバルの波が押し寄せたのを、わたしたちは見ました。すべとの国々でリバイバルの火が興され、燃えています。偉大な癒しの集会。何千人何万人ものひとびとが聖霊のバプテスマを受けて。その熱狂のさなかに、この弟子たちがイエスのことを「おお、彼がこうするのを見た、彼がこれをするのを見た」と証ししているように、そのさなかにわたしたちは弟子たちと同じように、イエスを置き去りにしてしまったのです。

 わたしたちはリバイバルのもたらした大きなチャンスを持ち逃げしてしまったのです。それらのチャンスを、たくさん金を儲けることに、教会を、大きな建物を作ることに、何億円もするような建物を建てたり、大きな学校を作ったり、教育機関を作ったり、教団を成長させるために用いてしまったのです。

 それからまた共産主義の勉強会だの、反共産主義だの… 近頃ひとびとが話すことといえば、みんなそればっかり。そしてまずさいしょに、サタンが目をつけるのは、われわれの反共産主義のプログラムだの、教団のプログラムだの、そのほか何億ものいろいろなたわけです。そういうふうにして昔風な祈りの集会や、聖霊のバプテスマの回帰などから離れ去ってしまい、ついには炎が下火になってしまったのです。

 心から叫んで、人々を祭壇のもとに来させようとすると、かれらはまるで死んだかのようにして祭壇のもとまで歩いてくるのです。来るのを恐れているかのように。そして牧師たちに一緒に祈ってくれてといいます。「ねえ、なんて祈ったらいいんですか」そうしてそこに座って(そうさせるのも一苦労ですが)何分間かじっとしていたかと思うと、あなたの方を見て、そして自分の席に戻って行くのです。

 わたしに言わせてもらえば、炎は消えてしまったのです。何かが起きたのです。いいですか、いま必要なのは、罪人たちがキリストを見あげて、悔い改め、両手をあげて祭壇に走り寄っていって、叫びながら憐れみを求めるような、そんなリバイバルなんです。そしたら教会全体が、神の栄光の火に燃えるようになるのです。

 教団を大きくしようということにばかり熱心で… より大きな学校を作り、牧師たちを教育しようとして、はじめよりもより神から引き離してしまいました。神は教育によって知るものではない。神学によって知るものでもない。神は信仰によって知るものなのです。神を説明することはできない。説明をはるかに超えたお方だからです。このざまをご覧なさい。

 ペンテコステ派のひとびとよ、昔はペンテコステだったというのに。いま我々の女性は髪をボブに切ってしまい、化粧をしています。男たちがそれを許しているのです。牧師たちがそれを許しているのです。みんな何か言うのを恐れているんです。何か言ったら教会を追い出されてしまうと。おお、何が必要かって、説教壇から会衆にいたるまでの大掃除ですよ!これは恥です、不名誉です!

 ある男性がこの前、わたしのところに来て言いました、「ブランハム兄弟、ひとびとはあなたのことが大好きです、でもね、」そして「あなたはいつもひとびとに喚きたてている。女性のショートヘアのことだとか、そんなことをいつも喚いてるではありませんか。」

 わたしは言いました、「聖書は女性がそうするのは恥辱だといっています。それによって彼女は夫に恥をもたらすのです。」そう、それこそあなたが神から離れていってしまった印なのです。サムソンの場合、長い髪はナジルびとの証しでした。この俗世を離れて、神の言葉へと身を投じた印だったのです。

 そして女性の皆さん、あなたが髪をバッサリと切るとき、あなたは自分のナジルびとの印を否定することになるのです。聖書に戻るのではなく、ハリウッドに身を捧げたのです。聖書がいっています、「かれらはこうなるがよい」これは恥です。それなのに牧師たちはなにも言わないのです。

 この男性が言いました、「どうして女性をほおっておかないのですか、みんなあなたのことを預言者だといっているのに。」

 「わたしは自分が預言者だなんていったことはないですよ。」わたしは言いました。

 「みんながそういっているんです。かれらにどうやれば霊的な賜物を受け取れるかとかそういうことを教えたらどうなんです。もっと大きなことを、偉大なことを教えるべきじゃないですか。」

 「どうしてABCもわからない人たちに、幾何学を教えることができるっていうんですか。真っ当な生き方も出来ないのに。」どうしろっていうんですか。

 そう、まず基本から始めるのです。年々、国中を巡って、物事はひどくなる一方です。何かが間違っているんだ、御言葉がじゃない。だからリバイバルの火を燃やすことができないんだ。いまこそ大掃除のときです。わたしたちがそれをしないなら、神が働かれることはないでしょう。大掃除が必要なのです。

 男性方で、奥さんにズボンを履くだのなんだのを許しているひとたち。それもメソジストでもバプティストでもない。ペンテコステ派のひとたちです。そうですとも、信心を装っているだけの、ラオデキアの教会時代、生ぬるくで、ただ名ばかりのペンテコステ派。ペンテコステは名前じゃありません、それはひとびとを清らかにする聖霊のバプテスマの体験のことなのです。

 だから偉大な癒しの集会だのが開けないんです。どこかで何かがおかしいから。それはサタンです、わたしたちのことを見てる… 「でももし何かを言ったら、教会の会員証をとりけされてしまう…」いいですか、クリスチャンはペットじゃないんです。クリスチャンはもっと荒くれた洗練されていない存在なんです。神の男女であり、神のために立ち、誰がなにを言おうとも関係ない。かれらは懇願されたり、説得されたり、ちやほやされたり、甘やかされたりする必要がないんです。そういうは温床育ちの、なんのためにもならない交配種のことです。何も生み出すことがない。

 思いだすのは、そう…

 もうすぐ巣作りの季節がきます。スズメが麦を咥えて巣に運んでいますけれど、いまはちいさな鳥たちも、もうすぐ自分の巣を作りはじめて、自分たちの小さな卵を孵すようになるのです。ちいさな鳥は巣の卵の上に座って、何分かごとにちいさな足をもって卵をひっくりかえしては、またその上に座るのです。もしちいさな母鳥があたためている卵を冷たくさせてしまったら、卵は孵りません。母鳥はちょっと飛びたって口一杯の食べ物を得ると、また卵のもとに帰ってくるのです。

 そして知っているでしょう、可哀想な母鳥は、じっと卵の上に座って二分ごとにひっくり返してやっていて、自分では… 巣から出る力もなくなるまで、犠牲になって飢えているのです。しかしそれでも、もし母鳥が雄鳥と接触しなかったのなら、これらの卵は孵らないのです。いくらどうやっても… どれだけ可愛がろうが、孵りません。ただずっと巣にあって、腐ってしまうのです。

 ペンテコステのひとびとは、そのつがいであるイエス・キリストと一緒にならなきゃいけないんです、その巣には腐った卵がいっぱいなんだから!信仰を否定して、カトリックの公会議に加わりにいく。教皇のとなりに座って、それを素晴らしいことだなんて、霊的なことだなんていう。ペンテコステ派のみなさん、あなた方はいったいどうしちゃったっていうんですか。聖書がこれらのことがみな起こると言っているのを、知らないんですか。

 私たちはメソジストやバプティスト派のひとたちが仲間に加わったなんていって喜んでいますけどね、あなたがたは知らないのですか、眠れる乙女が油を買いに来るのは、花婿が来るちょうどその時なのを? そして彼女たちは油を買えなかったのです。そう、携挙はあまりにひっそりと起こるので、それが起こるときには、起きたことさえ気づかれないくらいなのです。携挙が起きてから、あなたはなにがあったんだろうと考えるのです。

 ヨハネが地上に来たときのように。ひとびとはイエスに言いました、「あれ、聖書にはエリヤが先に来ると書いてありますけれど。」

 彼は言いました、「彼はもう来た、あなた方が知らなかっただけだ。」

 いつか同じことが起きます。あなたは言うでしょう、「艱難の時代の前にこんなことが起きるはずじゃなかったのか。携挙が起こるのだとおもっていたのに。」

 御言葉が返ってきて、「それはもう起きた、あなたが知らなかっただけだ!」 時代はあなたが思うよりずっと終わりに近いかもしれません!おお、目覚めなさい、教会よ!

 こんなこと止めなくちゃ。ここに来たのは教義を教えるためじゃないんです。ちょっとここで話しておけば、皆さんがそれをとっておけますからね。

 いいですか、兄弟たち、サタンはこの大企画を見たんです。教会同士がお互いを出し抜こうと、教団同士がお互いを出し抜こうとしているのを。文盲を根滅させようとするのを。心理学の試験を行うのを。宣教に出かけていこうとするひとに、まず心理学の試験を受けさせるっていうのだから。ペンテコステ派の話ですよ!長老教会の話じゃない、ペンテコステです!あるペンテコステの一派では、(大きな団体です)宣教師を送り出す前にまず心理学の試験を受けさせるっていうんです。

 そんなテストがあったなら… まず初めに、聖霊降臨(ペンテコステ)の試験がありました。二階の部屋で高きとことより火が降り、神の力が下るのを待つテストです。これが試験です。どこかの俗にまみれた、半分酔っ払いのような心理学者がそこに立っていて、人をちょっと興奮させようとするだとか、そんな類のものではないのです。「あなたはまったくもって不合格ですね」だなんて。ひとが神経質だというのはその人が霊的である証しだというのに。霊的になるにはそういう状態にならないといけないんです。だからそういうことです。神様が長年されようとしてきたことをめちゃくちゃにして、自分たちのプログラムだのなんだのでなんとかしようとするんです…

 彼らは大勢のひとたちが集まっているのを見ると興奮して、こう言うんです。「もしこのひとたちをみんなアッセンブリー派に出来たらな…」

 「もしみんなをワンネスに出来たら…」

 「もしみんなをメソジストに出来たら…」

 メソジストはすべての人をメソジストにしようとする、バプティストはみんなをバプティストにしようと、ペンテコステはみんなをペンテコステに。おお、もうどうしようもありません! 神が世界の基礎が据えられるときからそう定められていたのですから。

 われわれは福音を説教せねばなりません、それだけです。でもわたしの大プログラムが…ですって? わたしたちは火を置き去りにしてしまったのです。置き去りにして、自分たちで勝手に火を作ってしまったのです。

 そして共産主義だとか… みなが恐れています。共産主義がやって来ると。何が起こるでしょう?  でもご存知ですか、共産主義は大したことないのです。今みなさんに言っておきましょう、わたしは共産主義が怖くない。

 でもわたしが怖れているのは、ペンテコステ派のみなさん、教会統一運動があなた方を連れていくことです。それが問題なのです。それが獣の印となって、あなた方が組織であるゆえに、それに加わらざるをおえなくなるでしょう。入るか、出るかのどちらかです。それが問題です。だれでも善良で、理解があって、霊的なひとはそのことを知っています。われわれに必要なのはもう一度「海の上の証し」をすることなのです。

 いまわかっていることといえば、我がペンテコステ派のひとびとがそれを信じ込んでしまったということ。「なんて素晴らしいことだろう、メソジストも、長老教会派も、ルター派も、チャーチオブクライストも、ペンテコステ派もみんなひとつになるとしたら…」あなたがたは偉大な使徒行伝の教えを否定するはめになるでしょうよ。みんなそうしないといけないのです。それに加わったらもうそうしなくちゃいけないのです。すべてはローマに吸収合併されてしまうのですから、確かなことです。聖書がそう言っているのですから。

 あなたがた牧師たちはなにがおかしいというんですか、これらのことをひとびとに警告もせずに見逃しているなんて。神はあなたに責任を問われるでしょう。そしてこの騒乱の時代に… 彼らは騒乱のうちにあるのです。彼らは。共産主義が支配するんじゃない、教会統一運動がすべてを飲み込んでしまうんです。そして覚えていなさい、「そんなこと起こらない」とあなたが言ったときにはもう手遅れなんです。あなたはもう獣の印を受けてしまった。もうそれに属しているのです。いま、逃げられるうちにそれから逃げてしまいなさい。そうですとも。

 神の御国の印を受けなさい。キリストの体というのは、神秘のキリストの体であって、聖霊のバプテスマによってその仲間となるのです。入会するんでも、入れてもらうんでも、説得されて入るんでも、異言を語ることによって入るんでも、叫んで入れるんでもないんです。聖霊の生まれ変わりによってその家族に生まれるんです!そうですとも、もちろん。


 さて、ここで気になることはといえば。問題というのは一気にやって来るものなのですね。おお、悪魔が見下ろしていいました、「ははは、やつらめ、癇癪を起こしてやがる。あんなところで跳んだり跳ねたり叫んだり、盛り上がってやがるなあ。そうだ、いまこそやつらを沈めるチャンスだぞ。さあてやつらに仕返しをしてやろう。」

 そして悪魔は丘を上がって、その毒の息を吹きはじめました。[ブランハム兄弟が息を吹く音をたてる。]「奇跡の時代は過ぎた。」

 「結局のところ、こいつらはただ神経質なだけなんだ。海外宣教に送り出すまえに、精神テストを受けさせなくては。」ペンテコステ派!まったくもって。

 ね、毒の息吹が御言葉を殺すのです。「おお、なにか違うことに違いない。きっと…」

 ね、他の多くの教団と同じこと、ただ退行していってるだけなんです。それこそ彼らの歩んでいる道です。殺してしまうのです。組織にしようとしたその瞬間に、殺されてしまうのです。これまでもこれからもずっとそうなのです。立ち上がることはありません。歴史上そんなことはなかったのですから。

 このラオデキアの教会時代に、キリストは教会の外に立って、戸を叩き、中に入ろうとしているのです。彼らはそれがたまらないのです。その音を聞くのが耐えられないのです。

 さて、これこそわたしたちの生きている時代です。騒乱がやってきました。


 そして奇跡がいままでのように起こらないことに気づくのです。病人は病人のまま家に帰ります。神のせいではありません。ひとびとのうちにリバイバルが欠けているからです。リバイバルがないのです。彼らは座って、聴いて、家に帰って言います、「ふーん、まあ悪くなかったんじゃない、まあね。」情熱がありません、ひとびとのうちにあるべきものが欠けているのです。

 15年前、ここアーカンサスでのこと、わたしはジョーンズボロで小さな集会を開いていました。人口15,000人ほどの小さな町に、集会のために40,000人ものひとたちが来ました。会場に入るためだけに、みなトラックや担架の下に寝て、病気の子どもを紙で覆ってやったりしていました。一度席に座ると皆、夜も昼もそこを離れないのです。誰か家族を使いにやって、ハンバーガーやラムネを買ってきてもらって、昼も夜も、ずっとそこにいるのです。彼らの心は炎で燃えていました。神がなさるどんな小さなことでも、彼らに火を点けたのです。何百人もの人が来ました。神はいまも同じであられます。

 神は今晩も、天と地を創造された時と同じ方であられます。

 どういうことでしょう、わたしたちは熱に浮かされて組織を作ろうと、あれを建てようと、これを建てようと、何か大きくてキラキラしたものを作ろうとしてしまったのです。近所のひとと比べたり、メソジストと比べたり、バプティストと比べたり、長老教会派と比べたり。あなたたちは彼らと違います。違うのですとも。

 彼らは教団のひとびとで、それはそれでいいのです。彼らに何か言おうとは思いません。彼らの中にはたくさんの善良なクリスチャンがいます。でもあなたはその不信心なグループと交わってはなりません、御力を否定する人々とは。あなたは彼らの一味になってはなりません。

 いいですか、問題はといえば、あなたがたは教会のなかにハリウッドを持ち込もうとしているのです。するべきなのは教会のなかからハリウッドを追い出すことだというのに。ね、自分の建物を綺麗に飾りつけようとしているのです。教団を大きくして、ひとびとを惹きつけようとしているのです。

 わたしたちは彼らの側に行ってはならない、彼らをこっち側に呼び込まなくてはならないのです。なんでもギラギラしていて。いいですか、ハリウッドは世俗さでピカピカ光るのですが、福音は謙虚さによって内から輝くのです。ピカピカ光るのと、内からの光で輝くのと、全くもって違うことなのです。福音は謙虚さと従順さ、そして謙遜と力によって輝くのです。ハリウッドは光って、みんなが「ウォー」だなんて叫んだりするのです、ね。そんなのわたしたちには必要ありません。

 わたしたちが生きたいのは… そうイエスは言いました、「あなたがたは地の塩である。もし塩がその塩気を失ったのなら(それは福音の力のことです)…メソジストやバプティストや長老教会派やみんなが来たいと思うような何かが、わたしたちの教会のなかで起きていなくてはならないのです。わたしたちには塩気がなくてはなりません。塩は喉を渇かせます、渇きを生み出すのです。塩は味覚に触れるものです。触れられなくてはいけないのです。

 われわれのすごいかんしゃく、つまりメソジストやバプティストと較べ合わせようと、大きな建物や大きな場所、立派な教育を受けたひとびとだの、すごい学校やもっと大きな大学だの、そんなこんなによって、われわれはかんしゃくを起こしたのです。そしてここに問題が起きて、霊的な心のあるひとは見渡して言うのです、「あれ、どうしたんだろう。われわれはみんな世界統一教会に加わらなくてはならないんだろうか?われわれの団体はみんな加わることになってしまうんだろうか?」そうですとも、あなたはそうするでしょう。そうですとも。見ていてごらんなさい、その通りになるから。聖書がそうなると言っている。その通り。キリストは外に出されてしまうのです。

 この間の晩に、天にしるしが現れて、月はみずから暗くなりました ー教皇が来る前に、ローマに最初のひとりが着く前にー 。予想されていなかったことが、起きたのです。主が近頃なされることといったら、実に素晴らしい!

 そうして彼らがこの大暗闇の時をすごしているときに、風が吹きはじめたのです。生き残れる望みは絶えてしまいました。あなたならどうしますか、あなたの教団が世界統一教会に加わってしまったら。地上に建てた偉大なあれこれもなんの意味があるでしょう。最後の望みが消えたのです。

 でも、そう、すべての望みが絶えて、もう助からないと思い、彼らが叫び出そうとしたその時に…突然彼らはイエスが水の上を歩いてやってくるのを見たのです。暗闇の時に、イエスは歩いてやってきたのです。

 知っていますか、イエスは彼らから去ったときに、何が起きるかわかっていたのです。そしてその国で一番高い丘に登りました。高く登れば登るほど、遠くまで見渡せます。だからイエスは彼らを見るために登ったのです。

 そう、イエスはこれが起こるのを知っていました。この日が来るのを予測していたのです。「人の子が来て、表わされる日は、ソドムの時代のようになる。」ですから子が表わされなくてはならないのです。

 邪悪で姦淫にみちたこの時代はしるしを求めます。しるしは与えられるけれど、ソドムの時代と同じく、それを拒絶することでしょう。しかしこれは復活のしるしです。イエスはいまも生きていて、同じわざを行なっているのです。

 そうしてこの偉大な時に、弟子たちはみな苦しみにあっていました。イエスはそれを見守るために登られたのです。彼は丘の上に座って、彼らを眺めていたのです。

 さて今回は、イエスは山に上がられたのではなく、墓から上がられて、空を月と星々を超えて昇られて、たかくたかく昇り、天から見下ろされているのです。そうして高きところにイエスは座しておられます。「一羽の雀さえ主は守りたまう。(だからわたしたちのことはもっと見守ってくださっている。)イエスは見ておられるのですよ。

 そしてこの暗闇の時代に、すべての教会は大きなプログラムに加わってしまっているときに。このプログラム、あのプログラム、すべてが計画されていて、ほかのすべての教会、教団みたいに。そして何が起こったでしょう、この暗闇の時代に、ほんとうに霊に満たされているひとたちは不思議におもいます。「何が起こるのだろう、うちの子を見て見なさい。」男は言うでしょう、「うちの妻を見てみろ、これを見てみろ。」そうして彼らは日曜日をサボったり、水曜の祈りの集会を早く終わらせて、「ウィーラブスージー」だのなんだのをテレビで見られるようにしたりするのです。神よりもこの世を愛する者たちのように振る舞っているのです。

 このあいだ、あるご婦人に言ったんです。ー彼女の服はとってもぴっちりした服を着ていて、そのドレスは… わたしは言ったんです、「姉妹よ、あなたの服はぴっちりしすぎています。こんなことを言うのはわたしも気がひけるけれども、本当のことです。あなたはクリスチャンでしょう、妨げの石になってしまいますよ。」

 彼女は言いました、「でも、ブランハム兄弟、ご存知?こういう服しか売っていないんですよ。」

 わたしは言いました、「店に行けば、ミシンを売っているじゃありませんか。言い訳はできませんよ。」

 聞いてください。親愛なる友たちよ、あなたがたに言いたいことがあります。からかいたいんじゃない。違うとも、わたしは皆さんが苦しみを免れられるようにと思っているんです。あなたのうちに霊があるかぎり、あなたはそれを行うことでしょう。そうだとも。あなたはその中に産まれでなくてはいけない。今の言葉を好きにしたければすればいい。でもこれだけは言わせてください。いいですか、あなたの心のあるところに、その宝もあるのですよ。

 言わせてもらいましょう。あなたは旦那さんに対しては、ユリのように純真かもしれないー若いお嬢さん、あなたは彼氏に対してはユリのように純真かもしれないーしかしいつの日か、神があなたを姦淫を犯した罪で訴えられるのです。そんな服装をすると有罪になるのですよ。

 イエスは言いました、「誰でも女を見て欲情するのなら、彼はもう心の中で彼女と姦淫を犯したのだ。」そしてあなたを見たことで姦淫を犯した、罪人の男が罪を問われるときに、誰がそれを提供したと言うのですか。考えてもごらんなさい!ペンテコステ派の女性たち、恥を知りなさい。あなたがたを愛しているから、言っているのです。愛は過ちを正すものです。

 これは盛大に駄々をこねているようなものですよ、洋服のことで駄々をこねているのです。ファッションだって、この世のものですよね。彼は言いました、「この世や、この世のものを愛してはいけない。もしそれらを愛するなら、神の愛はあなたのなかにない。」あなたがどれだけ異言で語ろうと、飛んだり跳ねたり、踊ったりしようが。髪を切ったり、そんなドレスを着るのならーあなた方男性はそれを許しているーあなたの結ぶ実があなたの状態を語るのです。その通り。これだから私たちはこんな混沌のうちにいるのです。

 それから共産主義の風だの、教会主義の風だの、教会統一運動の風だの、これらは…いまは結合の時代なのです、労働組合を組織する時代なのです。組合は労働者たちを団結させようと、ガタガタ言っています。国々は… 国連がひとつにしようとしています。教会たちはひとつになろうとしています。これらは何を示そうとしているのでしょう?これはキリストと花嫁がひとつになろうとしていることを示しているのです。このことを語っているのです。すべてこれらのネガは、来たろうとするポジを示しているのです。

 さて、もうかなり遅いので、もう終わりにしようとおもいますが、このことに気づいていただきたい。さあいいですか、大いなる時が来て、生き残る望みが絶たれたときに、誰かが水の上を歩いて、こちらに歩いて来るのです。そして悲しいことに(よく聞いてください)、彼らを救うことのできる唯一のものを、彼らは怖がっているのです。「怖そうに見えるよ。もしかしたら、ねえ、霊なんじゃない」などと彼らは言うのです。

 同じことが再び起こっていないと、誰が言えますか! 彼らは怖がっているのです。運勢占いを怖がっているのです。イエスがこの時代に起こると言ったように、なにか悪魔の力なのではないかと怖がっているのです。彼らを救えるのは、イエスキリストしかいません、なにか別の教団ではない、すべての教団がひとまとまりになったって敵わない。それはことを史上最強に悪くするだけだ。あなたを助けられるのは、イエスキリストだけなのです。

 そして神が終わりの日にこのような形で現れると約束され、このようなことをすると、約束され… それはまるでアブラハム(最初の種)に約束の子が戻ってくる前に、アブラハムの高貴な種であるイエスが、同じことを私たちがみるであろうといったのと同じです。約束の子の前に、神は肉体を持って現れ、イエスと全く同じことをなさるのです。神がそうすると、終わりの時代について言ったように。

 あなたがたの前に、たくさんの預言を何十個も並べて、起こるべきとこを示すことができます… それなのに両手を広げてそれを受け取るべき教会は、「あー、ぼくちょっとなんだか怖いな。あれはぼくのグループから出てはいないしね。」なんて言っているのです。ね。

 彼らは怖がっているのです。彼らをキリストのもとに運ぶことのできる唯一のものは、キリストご自身なのに、彼らは恐れて怖がっているのです。

 「あー、わかんないよ。あれは霊に取り憑かれているのかもしれないし、ねえ、ぼくにはわかんないよ。」自分を助けることのできる唯一のものを怖がっているのです。

 そして暗い困難の時に、これら選ばれた教会たち、外のどこかで座っているグループ、彼らは気味悪いと怖がっているのです。なんの関わりも持ちたがらないのです。すると優しい声がして、言います、「恐れるな、わたしだ。」

 神は御言葉です、そうでしょう? 神は御言葉を変えることなど決してありません。今晩、御言葉がこう言っているのが聞こえませんか。「神は昨日も今日も永遠に変わることがない。恐れるな、わたしだ。」と。

 さあこうべを垂れましょう。

 天のお父さま、今宵は暑く、日も暮れています。祭壇からは火が消えてしまいました。あなたは畑を巡って落ち穂を拾っておられます。あなたはおっしゃいました、「神の国とは、海に出かけて、網を投げる人のようである。」と。そのひとが網を引き上げると、御国はそのようであったのです。

 主なる神よ、いつの日か、その水の中にいる最後の魚が… あなたはおっしゃいました、いろんな種類のものが釣れると。福音の網は種々のものを捕まえます。カメや、ナマズや、蜘蛛に、蛇、死肉に群がる魚も獲れます。わたしたちには、なにが獲れるかわかりません。しかしそこにはあなたが追い求められている魚たちがいるのです。あなたが判断する方です。でもカメやナマズはすぐに泥穴に戻ったり、元の水に戻ってしまうので、わたしたちにもわかります。

 しかしいつの日か、定められた最後の魚が、あらかじめ来ると定まっていた魚が来て、御体を構成する最後のパーツが、湖から引き上げられるのです。

 あなたはルター、ウェスリー、アレクサンダー・キャンベル、ジョン・スミス。カルヴィン、ノックス、フィニー、サンキーなどなどの時代に、網を投げ入れられました。そしてペンテコステの時代には、F.F ボズワース、フロッドシャムなど偉大な男たちのときに。あなたはビリー・サンデーの時代に、そしてそれから時代を通じて、網を投げ入れ続けられました。あなたはいまもまだ、海を櫛梳っておられます。

 主よ、今宵もここにそのうちのひとりが座っているでしょうか。もしそうであれば、その人を福音書に出てくる井戸端の女のようにしてください。彼女は売春をしていても、あなたをメシアとして認識したのです。彼女はしるしを見て、納得したのです。「あなたは預言者だとお見受けします。」と彼女は言いました。その方がメシアだとは思いもよらなかったのです。彼女は言いました、「私たちはメシアを探しているのです。」つまり言い換えれば、「私たちはメシアが来ることを知っています。彼が私たちにこれらのことを教えてくれるのです。」

 そしてあなたは言いました、「私が彼である。」それで決まりなのです。

 さあ今夜、主よ、彼らに見せてください。「わたしだ。恐れてはならない。これがわたしの約束である。」主よ、病を癒し、失われた者を救い、虚しい者を満たしてください。

 どうか今晩ここを去るときに、わたしたちの心が、エマオから来た者たちと同じことを言いながら、去ることができますように。「彼が今宵この建物で語っていたとき、神の臨在の中で、わたしたちの心は燃えていたではないか。」彼らはそれがあなただと知っていたのです、彼らはあなたを招き入れ、そして目が開かれたのです。どうか今晩ここにいる皆が全て、あなたを招き入れることができますように。理解できなくとも、とにかくあなたを招き入れられますように。それがあなたがご自分を明かすことのできる、唯一の方法だからです。あなたが復活ののちにご自分を明かされた方法は、十字架につけられる前にされたのと同じやり方でした。

 さあ、今宵来てください、主よ。あなたはご自分が、昨日も今日もそして永遠に変わられないとおっしゃいました。あなたが肉体をもって地上におられた頃と同じように、どうぞわたしたちのためにしてください。そのように心かるく、家に帰ることでしょう。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

 さて、今晩の集会は、ひどく暑かったですね。時間通りにここを出るまでに、あと二十分あります。わたしは自分のすることを止めることも、妨げることもできないんです。わたしは何かに突き動かされているから。この人生ずっとそうで、それが間違えていたことはないんです。聖書にかかれていること以外のことを語られたことはないのです。止めることはできません。わたしにできることは何もない。どうしたってそうなんですから。

 そしてもしわたしが忠実でいるなら、だれかそれを必要としているひとがいるんです。だから私は忠実になるのです。そしていつの日か、私は聖パウロが言ったように、こう言いたい、「わたしの手には誰の血も付いていない」と。ふむふむ。皆さんに真実を語りたいのです。わたしがなんだっていうのじゃなく… みなさんのことを愛していますよ。

 もしあなたに小さな息子がいたらー、さあ、考えてもごらんなさい、ご婦人方、さっきショートヘアだの何だのの姉妹たちをわたしは叱りましたけれどー。もしあなたに小さな息子がいて、道路に座り込んでいるとして、あなたがこんなことを言ったら。「可愛い息子や、ねえ、いいこちゃん、うちに入った方がいいよ。もしかすると、もしかしないかもだけれど、轢かれてしまうかもしれないよ。」あなたはその子を愛してはいないでしょう。そうですとも。あなたは出ていって、彼の背中をひっぱたいて、うちに入れることでしょう。そうですとも。その子を愛しているのだから。福音もそのようなものなのです。神はあなたを愛しておられる。神は愛する者を懲らしめて、叱られるのですー、神のもとに来るすべての子供を。もしあなたが懲らしめを耐えられなくて、怒って出ていってしまうなら、あなたは私生児であって、神の子供ではない。でも覚えておいてください、これは聖書的なんですから。

 さて、神からのひとこと、一言は、私が生涯をかけて喋る一億の言葉に優ります。それは神ですから。わたしたちは神の約束を知っています。神がなさると約束されたことを知っています。

 さて、ちょっとわたしにはわからないのですが、これから…

 (彼はまたカードを配ったのですか?あなたがカードを配ったのですか?なんでしたっけ?J?いいでしょう。)はい、時間を節約して1番目から始めましょう。きっと建物中にいることでしょうね。Jの1番。さあてちょっと大変なことになりました。わたしたちが始めたのは… あるときはここから、あるときはそこから、行ったり来たりして、でもだいたいこの辺を行き来していたんです。けれどもいつに来ても、どんな人にも、列に並ばれるチャンスはあるのですよ。

 それはここにいるからってわけではないのですけれど…

 どれだけの人がご存知ですか、この集会では、聴衆席で癒されたという人が、列に並んで癒された人たちの二倍もいるということを。もちろん、ご存知でしょう。

 ね、プレイヤーカード(祈ってもらう順番を整理するの為のカード)なんてただの… いまだってそんなもの必要ないんです。昨晩のように、プレイヤーカード無しにしたっていいんです。昨夜はカードを使いませんでした。カードを持っていない人たちのあいだに聖霊が降ったのです。さて、わたしには確かかわからないので、見たことは見たけれど何も言わなかったことがたくさんあります。まだ暗闇のうちなのです。それはそのままにしておきます。わからないのですから。それを言いだしたっていいことはない。なんであれ神のおっしゃったことが正しいのですから。だから神の言うことに耳を傾けなさい。

 さて… (Jと言いましたっけ?1番?)Jの1番。誰がカードを持っていますか。手をあげてください。(息子よ、間違えているのでないかい?)おお、申し訳ない。おお、後ろの壁際にいらっしゃいました。こちらにいらっしゃい、ご婦人よ。彼らがこのカードを今持ってくるのですね。男の子たちーボーダーズ兄弟かビリーか、どちらか、時々そのどちらもが、このカードを混ぜて、みなさんがどれでもお好きなのを選べるように、差し出すんです。われわれにはわかりません。誰かが5番を選ぶかもしれないし、7番を選ぶかもしれないし、この人は15番をとるかもしれないし、95番かもしれないし。われわれにはわかりません。

 それからまた、わたしが来ると、わたしは… どこでも、どこからでも心に置かれた番号から呼ぶんです。ですからわたしが… またときどきわたしは、一列に何人いるかを数えて、それをこっちの列の数で割って、その答えを使うんです、ね。そうでなかったら、真っ先に思いついた数をまず呼ぶんですよ。

 Jの1番、2番、2番、3番、4番、5番、6、7、8、9、10番。いらしてください、ね。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10。それでよろしい。そうですとも。さあ来てください… 待って、ひとり違う方向に行きましたよ。1、2、3、4、5、6、7、8、9。そうですとも。これで10だ。そうですね。11、12、13、14、15、これであと5人です。1、2、3、4、5、よろしい。これでいいのです。16、17、18、19、20。1、2、3、4、わたしには4人しか見えないが。20だって?20人返事があったのですか?

 いいでしょう、さてあまり同時にここにたくさんの人が立っているふうにはしたくないのです。もしこの数をこなしてまだ時間が余っていたのなら、もっとたくさんの人を呼びましょう。われわれは…もしかしたら…あと数人呼ぶことにしましょう。あと5人呼ぼう。Jの21から25まで。どうか立ち上がってください。21から25番まで。1、2、3、最後列にいた、4。1、2、3、4、これで5だ、よろしい。さてここで止めておきましょう。これで列には25人並びました。ここに列を作っています。

 さて、ここでみなさんに一つお願いがあります。どうかみなさん、これからの15、16分のあいだ、神に集中して、そらさないでいてくださいますか。そうしてくれますか。そしてどうぞ、心を開いてくださいますか。どうか、わたしのいうことを覚えておいていただきたい。昔のことわざにあるように、馬耳東風といったふうにはならないでいただきたい。そうはしないでください。考えてください。もしわたしが何か御言葉に書いていないことを教えたり、そういう約束をしたりしたのなら、みなさんにはここの支配人を呼んで、わたしのところにそれを言いに来る義務があるのです。そうですとも。わたしは聖書にあること以外何も教えていない。

 ですからもし、わたしが御言葉に忠実でいて、神が、聖書がこう言っているのだと言ったなら… もし主の天使が来て、聖書にないことをわたしに語ったのなら、それは主の天使ではあり得ません。そうですとも。彼は一度たりとも、御言葉にないことを語ったことはない、みなさんが覚えているとおりだ。彼は何百、何千の何千の何千回のうち一度たりとも、間違えたことを語ったことはないし、語ったことが実現しなかったこともないのです。

 きいてください。ここにいる支配人や他のひとたちに聞いてごらんなさい。

 ここでみなさんが見るものは、そのうちでもまだ初歩に属するようなことばかりです。そうでしょう、兄弟たちよ。なんていったって、外にでると… 私生活のなかでは、神が「あそこの場所に行って、これを見なさい、するとこのことが起きるだろう」とか、「ここで、あそこで、このことを言いなさい」とか、年がら年中、ずっと絶え間なく語られるのです。聴衆のひとたちが見るのは、ほんの一部分に過ぎないのです。

 しかしさて、どうか敬虔にしていてください… さて、この祈りの列に並んで、ここに立っている皆さんは、わたしとは見知らぬ他人の間柄ですか? もしそうなら、手を挙げてください、いいですか。ここに並んでいないみなさんのうちで、わたしがあなたのことを何も知らないとわかっている人はどれだけいますか? 手を挙げてください。さていまのうち… ありがとう。あなたがどこにいたって構わない、バルコニーのうえにいても、後ろで壁に寄りかかっていても、下のこの辺りにいても、どこにいようとも、わたしは… これはあなたに良かれとしているのです。これはあなたのためになることなのですよ、ね。あなたのためなのです。


 いまのは、うちの小さな孫息子が、わたしに話しかけてきた声かと思ったのですが、違いました。ちょうどあのくらいの大きさの、うちの小さな孫息子が今晩ここのどこかにいるんです。だからうちのポールかなと思ったんです。あの子はいつも、壇上にきて説教してあげるよってわたしにいうんです。まだ2歳にならないっていうのにね。きっとあのちっちゃな男の子はママを探しているんでしょう。

 ですから覚えていてください、わたしはあなたを助けようとしているってことを。神がそれを知っていてくださいます。わたしが助けようとしているってことを。さあ、いいですか、神がわれわれのうちに来てくださった時に、あなたがそこから利益を得られるようにしたいのです。さあ考えてもごらんなさい、終わりの日にそうなさると約束してくださったとおりに、イエスキリストの人格が肉体を持ってわれわれのあいだに働いてくださるのを… どれだけの人が、神がそう約束してくださったことを知っていますか? まるでソドムの時代のように、背を向けた天使が… それは神だったのです。それが神であったことを信じますか? どれだけのひとがそれが神であったと信じますか? そうですとも。聖書がそうだと言っています。イエスもそれについて語りました。

 さあ、気づいてください。

 さてプレイヤーカードを持っている、そちらのみなさん、どこにいてもいい、わたしのためと思ってしてほしいことがあるのです。さあ、覚えていますか。あなたが癒されたと言われたら、また何かを語られたら、これらのことに気をつけていなさい。なにを言われたかに注意しなさい。語られたら、それはあなたの信仰を強めるためなのです。そしてあなたの信仰がある一点に達したら、手を伸ばして神を受け入れなさい。これはわたしがしているのではないのです、天の父が知っておられるからです。

 この列に並んでいるひとびとを見ますと、ひとりも見知った顔がありません。この聴衆全体をみても、二、三人しか、知っている人はいません。いまここで誰だと言える人はひとりもいないと思います。エドムンド・ウェイを数分前に見かけたような気がしましたけど、見失ってしまいました…

 もしわたしの間違えでなかったら、わたしの知っている人がいました。あそこにいる男性とその奥さんと小さな女の子、フリッツァーという名前の、オハイオからはるばる来たひとたち。あなたは… あなたはフリッツァー兄弟ですか? ちいさなグループで座っている… あれがわたしの友人で、オハイオから来たフリッツァー兄弟と姉妹です。それ以外に、後ろの方に座っているのは… こっち側に座っているご老人は、もう92になろうという、ウィリアム・ドウチという名前のひとで、あれが彼とその奥さんです。彼女は看護師でー オハイオのウィリアム・ドウチ、わたしのとても親しい友人です。

 ちょっと前に、彼は ー91歳の時にー 心臓発作を起こして、完全に心臓が止まってしまったんです。彼の奥さんがわたしに来てくれるようにと電話しました。彼はあの時死にかかっていたんです。ねえ。

 彼はほんとうにずっとわたしの腹心の友でいてくれましてね。彼に会いにいく道すがら、わたしは心配で、止まったんです。すると車のタイヤがひとつ、外れかかってしまいましてね、タイヤが粉々にちぎれてしまっていたんです。だからテキサコのガソリンスタンドに入って、ガソリンを入れて、外に出てそれを見ていたんです。そしてわたしが見上げると、ダウチ兄弟がうちの教会の通路を歩いてきて、わたしと握手するのを見たんです。「主をほめたたえよ!」とわたしは言いました。後ろを振り返ると、彼が通りを歩いて来て、わたしと握手したのです。それからわたしは彼の家に行きました。

 彼の医者に会いました、若いユダヤ人です。(いや中年かもしれない、ユダヤ系の人なんです。「彼はどうしていますか?」とわたしは聞きました。

 「彼にはもう少しの望みも残されていないだろうよ。彼はいま、酸素テントの下にいるんだ。あそこで死ぬことになるだろうね。いいかい、もう91なんだから。」彼は言いました。

 わたしは言いました、「ええ、先生。」

 「心臓が完全に止まっちゃったし、もうなすすべはないよ。もうお呼びの時が来たんだね。」彼が言い、わたしは「ええ、先生」(彼は死なないぞ、それだけのことさ!)と言いました。

 わたしは入っていって、酸素テントの下に手をさしいれました。わたしは言いました、「ドウチ兄弟、聞こえますか?」彼はわたしを見上げました。彼の名前なんですが、彼はドイツ系でね、ほんとは、D-a-u-g-hというんだが、わたしはDowっていうふうに発音しているんですよ。ね、わたしはテントの下に手をさしいれて、言いました、「わたしの声が聞こえますか、ドウチ兄弟?」彼は「ああ」と答えました。

 わたしは言いました、「あなたは死にません。あなたが死なないことを、わたしは見たんです。」


 それから一週間経ち、うちの教会に立っていると、そこにやって来たのはダウチ兄弟ではありませんか!集会が終わって、川沿いのカフェテリアに食事をしに行きました。わたしがうちの車を出て、通りを歩いていると、そこにダウチ兄弟が、手を差し伸べながらやってくるではありませんか!幻が成就しないことは決してありません。そしてこの91歳のひとは、すべての集会に来てくれるのです。カリフォルニアに住みながら。ダウチ兄弟、手を挙げてみせてくれませんか、みんなに本物の兵士がいることを知らしめてあげてください。いまここに、ここに座っているのです、ね。91歳ですべての集会にくるのですから!わたしがタバナクル(インディアナ州ジェファソンヴィルにある教会)にいると、彼は毎日何百マイルも運転して、わたしのささやかな説教を聴きに来て、そして帰っていくのです。神よ… 夕暮れの時に光がくるであろう。

 このあいだ言ったんです(わたしは彼と話していたんですが)、「ダウチ兄弟、あなたのために何ができるでしょうか?」

 「たったひとつお願いがあります、ブランハム兄弟。主がこられる時に、わたしも一緒に行きたいのです。」

 「心配なさるな。それはもう確実ですとも。」そうですとも。

 さて、あのひとが来て、洗礼を受けました。みんな… やってきて聖霊のバプテスマやすべてを受けて、なんとすばらしいキリストの僕であることでしょう。

 さて、みなさんにとにかく敬虔になっていただきたい、みなさんこちらを向いて、祈ってください。さあ、ここにいる教師の方々は知っておられるでしょう、イエスはいま大祭司をしておられ、われわれの弱さによって訴えかけることができるのを。ええ、もしイエスが昨日も今日も、永遠に変わらないお方で、変わらず大祭司であられるなら、イエスは同じように行ってくださることでしょう。ただ彼の体のみが… 神の御座についているのです。どれだけのひとがそのことを知っていますか。イエスの肉体は神の御座についているのです。けれど彼はわれわれの体を通して、約束されたように、現れられるのです。「わたしのするわざを、あなたがたもする」

 みなさん、静かに座っていてください、敬虔になって、よく見て、祈ってください。

 我らが天の父よ、わたしは自分が知りうるかぎりを尽くして、敬虔であろうと努力してきました。いま、あなたからどうか一言をください、主よ、そしてどうか静かな、小さい声がこの聴衆の上におりてきて、「わたしだ。恐るな。」とおっしゃってくださいますように。叶えてください、父よ。いまわたしは今晩語った説教とともに、自らをあなたに委ね、あなたの御言葉が確かにされることを望みます。あなたがそうしなくてはならないのではありません。しかしあなたはそれをなされるでしょう、あるいは約束を果たすために、そうなされるでしょう、どうかイエスの名によって叶えてくださいますように。アーメン。

 みなさんとても敬虔に、とっても敬虔になってください。どうやってするかって? いまこれからみなさんに、聖句をさしあげたいと思います、もし主がそうなされるなら、わたしにはわかりません。でもいまこうやって説教していると… ね、これもある種の油注ぎなのですよ。そしてこれはまた別の種類の油注ぎ。これはほんとうに祝福でした。この… これはほんとうに体力を奪われる仕事です。

 さて、ここにご婦人が立っています。わたしは今まで一度も彼女を見たことはありません。われわれは他人ですよね? あなたはちょっと前にわたしのことを知らないとおっしゃったでしょう。神様はあなたを知っておられる。わたしのことも知っておられる。知っていますか、私たちはいまここに立っているけれども、このことについても裁きの日に弁明しなくてはならないことを? お気づきですか? われわれのなすことすべてに対して、神は天においてわれわれに責任を問われるということを? これらのことを言ったのには理由があるんです。さあ、もし主イエスがわたしに、あなたのしていること、心にあることだとか何だとかを明かしてくださったら、あなたは信じますか? あなたは信じざるを得ない、そうじゃありませんか? 聴衆のみなさんも、信じますか?

 さて、われわれは井戸端の女と主がそうしていたように、ここに立っていますー初対面の男と女としてね。いまここで、集っているのは… 聖ヨハネ、4章です。さて、もし聖霊があなたに言ってくださるのなら、誰のためにここにいるとか、あなたが病気だとか、家庭の問題だとか、経済の問題とか、何であれ、わたしにはわかりませんけれど。でも神はご存知です。でも神はあなたの心にあることを識別することがおできになるのです。神は御言葉ですから。わたしは人間だから、出来ない。

 あなたはちょっと緊張していますね、だからこういうふうにしているんです、わかるでしょ。これがあなたの問題のひとつですー神経質だってこと。その通り。それからあなたは糖尿病でもありますね。これがもうひとつあなたの悪いところー合併症ですね。とにかくいろいろなものが悪いんだ。そうでしょう? その通りだとしたら、手を挙げてください。神が癒してくださると信じますか?信じる? さて、そのあなたの神経質というのは年のせいですね。でもいま、全部あなたを立ち去るでしょう。

 そしてわたしは信じます、信仰によってわれわれがカルバリに行き、輸血を受けることを。

 さて、それこそイエスがなされたことなのです。イエスは井戸端の女に、彼女の問題を告げたのです。彼女のは、夫を持ちすぎたことでした。あなたのは… 思うに神経質と、あと二、三個悪いところがあったのですね。その通り、違いますか? これも同じことです。

 さて、イエスがシモンに会ったとき、イエスはシモンが誰なのかを告げました。あなたは神が、わたしにあなたの名前を教えられると信じますか? そうすればあなたはもっと信じることができますか? できる? ミス・ストロング、ストウト。信じますか? 行って、信じなさい、そしてあなたは… これでおしまいです。アーメン。

 おいでなさい。信じますか。あなたにとっても、わたしは他人ですね。わたしはあなたを知らない。神はあなたを知っている。神があなたの問題を明かすことができると信じますか? もしそうなら、主なる神は褒め称えられよ。そうでしょう? さあ、心配しなくていい。あなたがそこで感じているのは神です。そうですとも。あなたも神経過敏に悩まされていますね、精神的な神経質に。あなたはすぐ取り乱してしまうんだ。それから膀胱の問題にも悩まされていますね、肝臓のなにかが悪くって、そして貧血もあるんですね。そうですね。あなたはなにか… ここに男のひとがずっと現れてくるんだ。神があなたを癒すことができると信じますか? あなたの夫も癒すことができると、彼も良くなると? 彼の胃の不調も立ち去り、良くなると信じますか? それが彼の問題なんだ。行って、彼のうえに手を置いて、そう告げなさい。

 あなたにとってわたしは他人ですね。主イエスはお互いのことをご存知です、そうじゃありませんか? 神があなたのことを良くすることができると信じますか? もし主イエスがあなたの心にあることを、わたしに明かすことができるとしたら、イエスがあなたを癒せることを信じますか? あなたにはいくつか問題がある。あなたの問題のひとつは、胆嚢の不調だ。それからそれが膀胱に潰瘍を作ってしまった。そうあなたの医者が言ったのでしょう。さて、それからあなたは手術を受けなくてはならないと言われたのでしょう。まったくもってその通り。そうじゃありませんか? さあ、神はあなたが手術を受けなくてもいいようにしてくださると、信じますか? あなたは神に信仰を…? さあ、あなたはこれがわたしの行いでないことを知っているでしょう。信じますか? 良いでしょう。行きなさい。そしてあなたが信じた通り、あなたになされますように。

 われわれは他人同士です、きっとそうですよね。主なる神はお互いのことを知っておられます。神がわたしに、あなたを助けられるようなことを明かしてくだされると信じますか? あなたはそう信じていますね。積極的なのがわかります。とても良いことだ。とても立派なことだ。さあ、あなたには悪いところがたくさんあるーいろんな合併症だとかいろいろ、咳のようなものが治らないんですね。それからあなたはとっても神経質だ、それから… その通り。そしてそれから、あなたは心に重荷を抱えている、それは誰かのため、あなたの息子のためですね。彼は問題を、家庭の問題を抱えている。彼とその奥さんは、いつも喧嘩している。そしてあなたはそれを心に背負っている。そうでしょう。さあ、それはすべて清算されて、無くなってしまうと心から信じましょう。あなたはいま信じていますね。

 主があなたを祝福してくださいますように。

 いかがお過ごしですか? わたしはあなたを知りません。あなたもわたしを知りませんね。幻が始まってきました。この建物全体がこう光ってきて、なんだかこうつむじを巻いて、行き交うのが見えます、ね。でも主イエスがわたしに、あなたがなんのためにここに立っているのかを明かしてくだされると信じますか? 神がそうなさると信じます? わたしも信じますとも。わたしがこうして話しかけているのは、あなたの霊と接触をとるためなのですよ。そのためにしているんですとも。ね、わたしはあなたを知りません。だからわたし以外のなにかが、するのでないとおかしいのです。わたしは自分自身を完全に己から引き離さないといけなくて、神がご自分でなされているのです。わかりますか?

 さて、ひとつ、あなたはものすごい神経過敏に悩まされていますね。これは長い間悩まされてきたものでしょう。そうですとも。そしてその神経質によって、高血圧が引き起こされるのですね。脳卒中になったこともありますね。

 ねえ、あなたは伝道者だったことがあるか、それか伝道者であるかどちらかでしょう。さあ、あなたはいまも伝道者ですね。あなたが説教壇の上に立っているのが見えます。ならば神に信仰を持ちなさい、そうすれば神経過敏はあなたから去っていくでしょう。牧師はみなそうなのですよ。あなたも大丈夫。説教壇に戻って、神に従い、御言葉に忠実であり続けなさい。

 あなたの背中の不調も治って、椅子に座れるようになると信じますか? 信じます? ならよろしい。進み続けなさい、「主よ、感謝します」と言いながら。

 ご婦人よ、いらっしゃい。いかがですか? あなたはわたしが神の僕だと信じますか? いいでしょう、あなたのご婦人の病、婦人病が立ち去ると信じますか? 信じます? なら行って「主よ、感謝します」と言いなさい。

 腎臓の不調と、あなたの背に、背中の問題がありますね。神があなたを癒し、今晩あなたを良くして下さると信じますか? 神があなたを良くして下さると信じますか? いいでしょう。そのまま進みなさい。

 ご婦人よ、いらっしゃい。わたしはあなたの他人です。わたしがあなたに何か言わなくても、ここにいる神の臨在があなたの病を癒して下さると信じますか? 信じます? なら、もしあなたが、あなたの胃の問題が… 喋ってしまいましたね。それはもう消えましたよ。

 お元気ですか?  神はあなたの心に住んでおられますが、あなたの心臓は最近とても調子が悪いのですね。神が良くしてくださると信じますか? あなたの道を行き続けなさい、そして信じなさい。神があなたを祝福してくださいますように。あなたは癒されました。あなたは大丈夫です。

 あなたは胃に問題があって、神経過敏になっているのですね。食後に消化性潰瘍のせいで辛くなるんだ。それが無くなると信じますか? さあ何かを食べにゆきなさい。

 あなたは起き上がるのが辛いのですね。背中の痛みに苦しめられているのですね。あなたが信じるのなら、もう痛むことはありません。信じますか? いいでしょう。ゆきなさい、そして主イエスに完全に良くしていただきなさい。

 なにをそんなに神経質になっているのですか? さあおゆきなさい、そして「もう神経質になんかならないぞ」と言いなさい、そうすればもうならないでしょう。そうですとも、あなた。

 ご婦人よ、おいでなさい。さあ、エチオピアの女性と、白人の男 ーまるで夕日に起ったことのように。イエス… 昔アメリカ南部であったように、その頃にも人種隔離政策があったのです。でももうそんなものはありません。すべての人間は神のものなのだとイエスが彼らに教えられたのです。彼女がユダヤ人であろうと、サマリア人であろうと、そこに違いはありませんでした。さあ、もし神があなたを助けてくださらなければ、すぐにもあなたはその関節炎のせいで身体不自由になってしまうことでしょう。でも神があなたを助けてくださり、あなたを良くしてくださると信じますか? あの女性がしたように、あなたもお行きなさい、そしてまわりのひとたちに、神があなたにしてくださった素晴らしいことを告げなさい。

 さあ、いま外科医がナイフを取り上げようとしている…


 ちょっと待って。それはこの女性じゃない。さて、みなさん、ちょっと待ってください、いま敬虔にしてください。サタンが何かしようと企んでいます。ああ、これだ。腫瘍。腫瘍。ふたりともです。そうですとも。あなたには腫瘍がある、彼女にも腫瘍がある。そして悪魔がお互いに助けを求めて叫んでいるのです。けれども聖霊だって叫んでいるんです! あなたは誰を信じますか? 神? いいでしょう。ご婦人よ、床から起き上がりなさい。担架から立ち上がりなさい。[ブランハム兄弟が担架に寝ていた女性に語りかける。]

 あなたは信じますか? すべてのことは可能なのです。あなたは信じますか? 聴衆の皆さんはどうですか? さあ、みんな立ち上がろうではありませんか。いまこそその時です!さあすべてのひとよ、いますぐ、みんなこの足で立ち上がりましょう! 神に賛美を捧げましょう! 手を挙げてください。主イエス様、ありがとうございます!あなたの偉大さとその癒しの力を賛美します。

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