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貝殻




 「現実に遭遇する以外の困難にはかかわるな。感情にかんしては、現実の交流に対応するもの以外は、あるいは、霊感を与える契機として思考に吸収されるもの以外は、自分自身にゆるすな」
      
シモーヌ・ヴェイユ



 こころに貝殻が欲しい。

 なんだって形からはいろうとする、浅薄なわたしは、いろんな貝殻を手にとって、どんなのがいいだろう、と呟いている。

 たとえば、タカラガイ。なんだってこんなに大きくて立派なのが、うちに転がっていたんだろう。三センチもあって、アザラシのせなかみたいな、かわいらしいやつ。いつだか息子が浜辺で拾ってきたのに違いない。あの子には、石や貝を拾う才能があるから。

 惜しいことをした。きのう、大磯の照ヶ崎海岸でかれに拾ってもらった、牡蠣の貝殻をもちかえってくればよかった。手のひらよりもおおきくて、外は紫のひだがかさなって、ごつごつと、中はしろく、すべらかで、やさしい冷たさをしていた。
 
 なかには、いまは死せし軟体動物の、貝柱のひっついていた跡があって、そこだけ平凡なクリーム色をしていた。太く、しっかりくっ付いていたらしい。それはなんだか、いま考えていることに似ていた。

 貝殻が欲しい、とおもう。この潮流のはげしい海をわたるのに、わたしは貝殻が欲しい。自由にひらいたり、閉じたりして、やわらかなじぶんを守るため。ハリネズミになったり、身を硬化させてまもる方法だってあるだろうけれど、癒やされて、ようやくしなやかになってきたじぶんの心を、そのままにしたいから。

 そういえば、今夜はクラムチャウダーだ。さっき牛乳を買いに、山を降りてきたばかり。アサリは冷凍の剥き身。生きたやつを買ってきて、蒸し焼きにして使うほうが美味しいんだけど、殻から身を取るのが手間で、さいきん横着をおぼえた。玉ねぎ、セロリにベーコン、じゃがいもとニンジン。赤い鉄なべでやわらかくなるまで煮る。そろそろルーをいれにいかなきゃ。

 そう、だから、キリストを貝殻に出来ないものかしら。わたし自身がいくら傷つきやすくても、彼のなかにつつまれているのなら、必要に応じて、あけたり閉じたりできるなら、こんなわたしでも、海をわたりきれるかもしれない。そんなことを、ずっとぐるぐる考えている。

 だからきっと、貝の形は、タカラガイとは違う。あれは下の部分が、閉じかげんな口みたいに、ぎざぎざと開いているだけだから。ひらきたいときには、もっと大きく開きたいし、守らなくてはならないときには、もっとちゃんと世界を閉め出せるようにしたい。

 アサリみたいな、二枚貝が理想的なのかとおもうけれど、でもアサリの貝殻はうすくて脆すぎる。キリストはそんなんじゃない。だから、きのう大磯で拾った牡蠣の殻が、いま手元にあったならなあ、とおもうのだ。

 あのしっかりしていて、漆喰を思わせるような肌ざわりと、かすかな光沢のあるしろい内壁を。そしてそこにしっかりとくっ付いていた貝柱の存在を。身が腐り果てたのちにも残っている、あの丈夫な貝殻を。

 ああいう貝殻に守られてみたい。どこに行くときも、キリストにつつまれて。ひらいたり、閉じたりしながら、じぶんの心を守りつ、生きたい。はじめはひんやりと、それからじんわり温かくなっていく、その肌を感じていたい。しずかな貝殻のなかで、いろんな声をしている彼の愛に、耳を澄ませていたい。

 




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