揺らぐことない都 (短編)
*この小説は作り話であり、実際の団体や
人物とは関係がありません*
↓あずさの車中で
「まつもとぉ、まつもとぉ」
というノスタルジックなアナウンスとともに、鷲尾夫人はまあたらしい桔梗色の列車を降りた。やっぱり寒いわ、と灰色のコートの襟を正して、どこか寂しげな、味気ないホームを見回す。いいえ、まだだわ、雪をまとった常念岳を見なくては、わたし、故郷に帰ってきたという気がしないの。
改札を出ると、春めいた色の花々が待ち構えていた。わあ、と思わず声をあげると、娘の声がして、お墓のよ、と言う。立っていたのは、弟の信吉と、娘の八枝のふたり。いまなお松本に残っている、飯森家の末裔たち。すてきなお花ねえ、と鷲尾夫人はため息混じりに、ユーカリやミモザやチューリップの花束にふれる。
「墓参りにこんな小洒落た花、必要か?」
信吉が言うと、八枝が答える。
「あら、おばあちゃんはそこら辺に売ってる仏花なんて、きっと大嫌いよ」
「さっき八枝に買わされたんだ」
と信吉が鷲尾夫人を向いて。
「信吉叔父さんだって、たまには家族サービスしなくっちゃ」
八枝は妙に浮かれたふうに言った。
「お前の深草少将はどうしたんだ。連れてくればよかったのに」
叔父の反撃に、八枝はすこし目を泳がせたが、すぐ平然を装った。
「なんのこと? まさかわたしが小野小町だとでも? 身贔屓も過ぎません?」
「あなたたち、仲良いわねえ」
呆れたように、鷲尾夫人が言う。すこし姦しいくらいだ。手にしていたキャリーケースを娘に押し付けると、銀いろの自由通路を左に、北アルプスを一望出来る大きなガラス窓へと足を向けた。なによりもまず、ピラミッドの形をした山を探す。ああ、常念は見えるかしら。
「あら、残念ね。ガスってるわ」
鷲尾夫人の失望も知らず、まださっきの浮わついた口調の抜けきらない八枝が、何でもないことのように喋る。
「山を見るのを楽しみに来たのに……」
「また見られるわよ、大丈夫、大丈夫」
母の命日だった。もう五年になる。ひとりで実家に残っていた信吉は、これを境に、電車通りのマンションに引っ越すことになっていた。独身の信吉には、あの家は広すぎ、手に余った。鷲尾夫人の生家は、更地になって分譲されるらしい。弟の決めたことだ。彼女はなにも言わなかった、言えるはずもない。
どこか沈んだ鷲尾夫人を乗せて、車は街の北へ伸びる坂道を上がっていく。その途上の風景もまた、鷲尾夫人を塞ぎこませる。なにもかもが変わってしまって、見覚えのあるものはどんどん消えていく。道路拡張に次ぐ道路拡張で、古い建物は消えてゆき、あたらしい道路、あたらしい博物館、なんとあたらしくお堀まで掘っているらしい。
「ここにあったお蕎麦屋さんは?」
「立ち退きで失くなっちゃったわよ」
なにもかもを眺めていたようで、すうっと過ぎていった車窓だった。お墓の傍で車を降りる。枯れた芝にしゃりしゃりした雪が残っている。飯森家の墓は、丘に広がる霊園の、なかでも見晴らしの良い一角にあった。ふるさとの街を眼下に眺める、桜の老木の下。真冬のことで、ただ裸の枝が吹き晒されているだけ。
旧士族の飯森家の墓は、御一新の頃に吹き荒れた廃仏毀釈の嵐のために、神道の様式で作られている。けれど彼女の両親だけは、そこにカトリックの洗礼名とともに葬られていた。母は晩年、孫娘の嫁ぎ先の教会で、使徒行伝に倣った洗礼を受け直したのだったけれど。鷲尾夫人は手持ちぶさたに、家名の刻まれた灰色の御影石を眺める。
「叔父さんのお葬式は、どうしたらいい? わたし、神道や仏教のお式なら、喪主をするのはいや」
冷たい銀色の花筒に、両手一杯の花々を生けながら、ちょっと甘えた声をして八枝が聞いた。信吉は冷たい柄杓の水で、墓石を洗いながら答える。
「八枝の好きなやり方でいいよ。真木さんのお葬式、あれはとても良かった」
ぼんやりと聞いていた鷲尾夫人は、意外な、というふうに弟の表情をみやった。いつもの信吉はもっと取っ付きにくくて、しかも根っからの無宗教主義者なのだ。八枝がいつもより叔父に懐いているのも、なにか理由があるのかしら?
飯森の家は、霊園と同じ、蟻ケ崎の斜面にある。街を見下ろす広い敷地に、若い頃英国に留学していた父の建てた、ハーフティンバーの屋敷が聳えていた。壊してしまうのは勿体ない、とまた喉元まで出掛かったけれど、鷲尾夫人はふたたび飲み込む。
家の中はがらんどうで、華やかなりし頃の幽霊でも出てきそうだった。鷲尾夫人は、もう家具もない部屋を、ひとつひとつ彷徨った。形あるものは、いっそ滅びてしまった方がいいんだわ。ここにいると、逃れたはずのものにまた捕らえられてしまいそうになるから。大嫌いだけど、大好きだった―。
わたしがこの街に抱いている想いは、だいたい母へのものと重なっている。遠くにいれば恋しくて堪らないけれど、ずっと近くにいると息が詰まってしまって、空気を吸うふりをして逃げたくなってしまう。立派な家がうつくしいのは、外から見たときだけだわ。
だから滅んでしまったっていいの。そうすればわたしは純粋に、イエスさまが設計し、建設をされた、揺らぐことない都を焦がれることが出来る。もう六十を過ぎたというのに、まだいまのわたしは―。
いっそ根なし草に―、とまた鷲尾夫人は勢い余って、声に出して呟いていたらしかった。寄りかかって見下ろす庭には、荒れ果てた蔓薔薇の枝が、錆びた白いアーチを覆っている。アーチは倒れかけていて、柵は斜めに傾いでいる。母の自慢のイングリッシュガーデンは、もう見る影もない。自然と歌が口を突いて出た。今朝、故郷を思い描きながら、列車のなかで口ずさんだ歌が。
ばあ ぺんしぇーろ、すらーり どらああて……
「なんでナブッコの合唱なんか?」
いつの間にか、信吉が戸のところに立っていた。何もない部屋で、自然と引き寄せられるように、裸の窓辺に姉弟が集う。
「この年になるとね、黄金の翼に乗って、早く天国の故郷に帰りたいなあ、って気分によくなるの」
あっそ、と軽く流してから、信吉は尋ねる。
「八枝が話した?」
「なにを?」
さらりと信吉は、昭和の文豪みたいな眼鏡を背けた。それが不審で、その表情を追いかけようとすると、弟は片手に持っていた本を、姉に差し出した。
「いまさら、形見分けでもないけど」
そう言って渡されたのは、小さな古い聖書。しぼの寄った黒い紙表紙が擦り切れていて、ぽろぽろしたちいさな検索用の栞が、すべての書に付いている。
「母さんの聖書、姉さんにあげるよ」
受けとって、ぱらりと開けてみると、至るところに引かれた色鉛筆の薄い線が目を惹いた。
「でも、あなたこそ読むべきじゃないの」
冗談めかして、鷲尾夫人は笑いながら言ってみる。きっといつもの信吉なら、瞬時に不快になって、宗教を押し付けるな、と言うに違いない。
「ここ最近、八枝のとこの教会に通ってるんだ」
「まあ!」
突然の告白に、鷲尾夫人は思わず口に手を当てた。
「なかなか面白いよ。姪っ子がプロポーズされるところなんか見られたしね」
「まあ! それでさっき深草少将なんて言ってたのね。でもあれって、最後は死んじゃうやつだわよ」
はは、と信吉は、しばらく八枝のロマンスを思いだして笑っていたが、すぐに表情を改めた。
「家を売ったこと、姉さん怒ってる?」
「怒れなんかしないわ。この地上には、永遠に残るものなんてないもの。松本城だって、善光寺さんだって、未来永劫建っている訳ではないものね」
姉さんらしい飛躍だ、と信吉が呟く。
「クリスチャンは、能天気でいいね。それでもきたらんとする都を確信していられるんだから。ぼくは母さんが亡くなったとき、足元の砂を掬われたような感覚がした」
「偶然ね、わたしも似たようなことを思っていたわ」
「ぼくは自分の研究にだけ没頭して生きてきて、神だの宗教だのは、母さんや姉さんに任せたつもりだったんだ。自分は関わりたくなかった。馬鹿にしていたから」
「言っておきますけれど、わたしのは宗教ではないわ。宗教みたいに形骸化したものではなくて、目に見えない神さまとの個人的な関係だわ」
「そうなのかもしれない。八枝のご主人が亡くなったとき、衝撃を受けた。彼とは高校が同じだったから、それなりに親しかったんだ。なかなかとち狂ったひとだな、とは思ってたけど、ぼくだって研究狂いだから、気が合ったのかもしれない」
「そうかもね」
「でもあのひとが死んだことで、神の存在を否定出来なくなった気がした。ナイフで刺されて死にながら、『生きることはキリスト、死ぬことは利益です』って言ったんだろ。もし神がいないなら、彼は無駄に生きて、無駄に死んだことになる」
窓辺に寄りかかった信吉の、短いまつげがまたたいた。やわらかい硝子の光が射し込む。白い棺に寝ていたひとのことを、鷲尾夫人は思った。まるで一粒の麦のような。ふと視線を冬の庭に戻すと、黒を着た八枝が散策を終えて、ちょうど家に入ろうとするところだった。
「あの聖書、母さんが亡くなってから、ぼくも手もとにおいて読んでたんだ」
「そうなの? それで妙に詳しかったのね」
まるで気のりしないかのように、冷たさを装おって。
「ヨブ記に、ヨブが子どもたちが罪を犯したかもしれないから毎週捧げ物をした、って書いてあるとこがあるだろ。あそこにしっかりと赤い線が引いてあった。案じてたのは姉さんじゃないよね、きっとぼくの方だ」
「さあ、それはどうかしらね?」
「お母さんたち、そろそろ時間だわ」
階段を上がってくる音がして、空っぽの廊下に八枝の声が響いた。それを聞いて信吉が腕時計を確かめる。母の贔屓だった、老舗のフランス料理屋を予約していた。姉弟揃って部屋を後にしながら、鷲尾夫人が言う。
「信ちゃんが取っておいていいわ、あの聖書。もう大丈夫、わたしはお母さんを赦したもの。あとはあちらで会うだけだわ」
「ふたりにわだかまりがあったなんて、いま初めて知ったけどね」
信吉はそう笑った。あら、このひと誰かに似ているわ、と鷲尾夫人は振り返りざまに思った。
「信吉叔父さん、その眼鏡を掛けると、お祖父ちゃんの写真にそっくりだわ」
わずかに夕方の光の射す、うす暗い玄関で、八枝が靴を履きながら言った。ああ、そうだったか、と思った。いまではおぼろにしか思い出せない、会社の経営でいつも忙しかった父。もう何十年もまえに、棺のなかでやさしく微笑んでいて、意外な気がした父。
さよなら、と言って戸を閉めた。泣いちゃいけない、感傷的だと思われるから。ふりかえらないように、ふりかえらないように。弟の車に乗り込んで、城下町へ下っていくと、あやなす色に燃える西空に、ちらりとピラミッドのような常念岳が覗いていた。