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スーパー銭湯のシューベルト



 伯父上が机を整理していたら見つけたという、図書カードを何枚も送ってくださったので、欲しい本をなんでも買える。いまのわたしはとても裕福。

 そろそろ、最寄りのくまざわ書店では、欲しい本がみつからない。おばあちゃんに子どもを預けて、ジュンク堂に行きたい、とずっと願っているのに、いざ預けるとなると、なぜかスーパー銭湯に行ってしまう。サウナと岩盤浴。

 一日中子どもを抱っこして、右往左往していた日々から、ずっと身体に蓄積していた疲れが、溶けていくみたいで。ととのう、という感覚に、ちょっと目覚めてしまった。ひとりになれたら、サウナに行きたい。

 子育ては、もう身体的にはあまりきつくないけれど、目が覚めているあいだずっと、お喋りを聞かされるこのステージも、なかなかにハードだ。静かになりたい、無になってみたい、それで選ぶのが、スーパー銭湯。

 「♪ここは茅ヶ崎別天地〜 竜泉寺の湯」

 に行くのである。こないだ、暖簾のてまえですれ違った岩盤浴着のおじさんが、ふーんふんふふふん、とひとりくちずさんでいた。

 スーパー銭湯は、ひとりで行くのがいい。まえに、夫と息子と行ったとき、ひとり女湯にはいれる気楽さに、あおぞらをながめながら、寝転び湯で気絶していたらしく、出たらボーイズはもう湯冷めしていた。

 岩盤浴コーナーの、休憩所にねころびながら、ラディゲの「ドルジェル伯の舞踏会」を読む。ひとりの時間をもらうと、欲張りすぎてしまう。頭を休めたい、無の境地に至りたい、なんていいながら、積ん読も消化したい、はま寿司にひとりで入ってみたい、サブウェイで野菜大盛りのローストビーフサンドを食べたい、本屋に行きたい、美術館に行きたい、カフェで読書したい、郷土史の講演会を聴きにいきたい、とリストは尽きるところをしらぬのだから。

 それでもいまのところ、スーパー銭湯がそのすべてに勝っている。だからお休み処でフランス文学を消化しているのは、その折衷案といったところ。

 それにしても、お風呂にテレビって、必要だとおもいます? 上星川の満天の湯に行ったとき、はじめて露天風呂にテレビがあるのを見て、びっくりした。やっていたのは、バラエティで、タレントがかくれんぼするような番組。くだらないのに、画面が大きすぎるものだから、目に入ってしまう。

 茅ヶ崎の竜泉寺にも、露天の温泉に、テレビがついている。まえに来たときは、自民党の総裁選をやっていた。スパ銭で岩波文庫を読むならリラックスできるけど、小泉のお坊ちゃんをみせられるのでは、こころを解放できないのである。

 サウナも然り。検索してみたフィンランドのサウナ作法には、目を閉じて瞑想しろ、って書いてあったもの。シャインマスカット食べ放題だの、七十才でもはいれるお得な保険について聞かされてては、瞑想なんてできないもの。

 まあ、でもけっきょくスパ銭というのは、そういうところなのだ。ほんとうに湯にこだわるなら、箱根でも湯河原にでも行け、ひなびた源泉でいくらでも瞑想してろ、なのだろう。わたしの自由時間がもっと長ければ、よろこんで行くのですけれど。手近な場所、となると結局、「ここはちがさきべってんち〜 りゅーせんじのゆ!」

 だからお風呂では、できるだけテレビから遠い位置で、まるでテレビなんか存在しないみたいにふるまっている。岩からどばどばとそそがれるお湯を眺めながら、ここは山梨の石和温泉、とでも思いこむつもりで。

 でも、あの日はおもしろかった。昼過ぎで、露天風呂にはあまり人影がなかった。わたしはテレビを無視していたし、ほかの数人の御婦人も、みんなテレビなんか見てはいなかった。

 徹子の部屋をやっていた。気にしないふりをしても、意識には入ってしまうものだ。あーあ、ほんとうに無になりたいなら、瞑想して無になりたいのなら、こんどの自由時間は、海岸にでも行くべきかもしれない。

 ゲストはだれかしら。ショパンコンクールのファイナリストだとかなんだとか。小林愛実さん。あ、あのひと! 

 そして、かのじょが演奏を始める。
 シューベルトの宗教的歌曲、リスト編曲だとか、なんだとか。

 わたしはふりむいて、お湯のなかをたゆたうように、音のよく聴こえる場所に移る。腰かけ湯にはいっていたひとも、そろそろとこちらへ移ってきた。それから壺湯にはいっていたひとも。わたしたちは、かのじょのシューベルトに聴き入る。目を閉じて、岩のうえに腰かけて、曲が終わるまで、火照ってしまわないように。

 ごぼんごぼんと、排水口にお湯が吸い込まれていく音が邪魔だけれど、それでもシューベルトに変わりない。しずかな精神の、ピアノのうつくしい祈りの音楽。くもりぞらの露天風呂で、わたしたちは音楽に身をゆだねきる。

 そして音が止んだ。徹子さんの声がしはじめる。恩寵にみちた空気が、わずかずつながら消えていく。それでわたしたちは、テレビを去った。わたしはシルク風呂に、ひとりはととのいチェアに、もうひとりは壺風呂に。あーあ、コンサートが終わっちゃった、と劇場を出るみたいに、わたしたちは岩風呂を去っていった。

 自由時間という名の、義母上の温情も、このくらいかなとおもったので、わたしはそのくらいでお風呂を上がった。仄暗いロビーに出ると、あのなんとも気の抜けた、竜泉寺の湯 茅ヶ崎店のジングルが、くりかえしくりかえし、洗脳するみたいに流れていた。

 



 

 


 


 

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