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暗闇の灯 (小説) 1


ひとつ前 あたらしいいのち

※この小説は虚構作り話であって、実在の団体や人物とは何の関係もありません※


 1

 かすかな安全灯の光も消え、狭いカラー暗室はふれられるように黒く、なにも見えなくなった。暗闇のなか居場所を確かめようとベニヤの仕切り板に触れながら、あかりの頭を去来したのは昨夜の夢だった。
 
 こころが削れて、まるで一本の糸にまで痩せ細ってしまうような心許なさを、その夢を見るたびに感じる。もうなんども繰り返し見せられている夢だ。いつからだろう、もう十年になるかもしれない。
 
 夢のなかでじぶんの歯がぐらぐらとしている。舌で押して確かめてもよくわかる。子どものころ乳歯が抜けたときのように、揺らしているうちに歯が抜けてしまう。抜けたあとを舌で確かめると、血と黒くいびつな穴がある。でもこれはもう生えてはこない、永久歯だから。まだ三十二という若さで、歯を、しかも犬切り歯を失ってしまったことに夢のなかの灯は取り返しのつかないような恐れを感じる、そういう夢。
 
 あの世界を後にしたのは、もう遠い昔、あの夢を見始めたころのこと。あちらのひとびとは灯のことを、放蕩娘と呼ぶ。ひとつまたひとつと課せられていた呪縛をときはなっていく十年だった。最後の鎖は昨年にとけた。絡みつく網のように灯の心を支配していた母は死んだ。それを機に、灯は背中まで伸ばしていた髪を刈り上げるようにして耳の上で切った。

 明るいうちに調節し、ピントを合わせておいた引き伸ばし機の下のイーゼルに、細く切ったテストピースを載せる。手探りで露光ボタンを押すと、暗闇にぼおっと光が灯る。そのさまをじいっと見つめているうちに、露光時間は終わってぶちっとふたたび闇に返った。ひらひらとした印画紙の切れ端を手に、真っ暗ななか感覚だけを頼りにプロセッサーに近づいて、ローラーに入れる。一連の動作を終えて灯はすこし息をついた。プロセッサーの蓋を閉めれば、もう電気を付けていい。暗室には折々入るけれど、カラー暗室のこの完全な暗闇はいつまでたっても苦手だった。なのにどうして続けているんだろう、自分でもわからない。
 
 今度の展示のためのプリントだった。信州に住む親戚のおばあさまの伝手で、写真家をしている灯はその知り合いのギャラリーで個展を開かせてもらえることになっていた。そのおばあさまは従姉妹の祖母であって、灯と血の繋がりはない。おばあさまは一族の長老のようなひとで、孤児になった灯に目をかけてやろうと思ったらしい。勿論感謝はしている。
 
 大切なひとたちはみな熱心なクリスチャンで、そこに加わることのできない灯には、彼らの優しさは生温かく、そして息苦しかった。大学生になるまでずっとそこに溶け込もうと努力してきた。彼らになにか清らかなものがあるのは灯も否まない。けれどすべてが神と教会を中心にまわっているような生き方から、灯は飛び出した。もとから半端者なような気がしていたのだ。素直に信じきることができなかった。

 プロセッサーから出てきたのは、母の白い切れ端だった。だれにもわかるまい、これが母だと言うことは。段階露光の右端は白くとんでいるし、左端は暗くなにも見えない。写真の力を借りて、いま灯は亡くなった母を、そしてじぶんを捉えなおそうとしていた。捉えようとすればするほど、沼に足が填まりゆくような気がした。生前の母の弱さを、灯は憎んでいた。それなのに、ふしぎと安らかに死んでいった母だった。裏切られた、と思った。なぜそう思ったのだろう、その葛藤も過程もすべて作品に落とし込んでしまうつもりだった。なにが出来上がるかはまだわからない。

 露光時間をメモしながら、ふいに灯は歯を撮りたい、と思った。骨だって撮ったのだ、夢のなかで失った歯を、確かめてみたい。灯にはまだじぶんの若さが目に見えない自信のように手のうちに感じられた。若さが、そして美しさが。口では年を取ったといいながら、まだ実際にはそれを感じない年齢なのだ。心が闇に満ちるときに、それはふれられる唯一の確かなものだった。

 死んでいった母、いま生きていてその骨の写真を確かめているじぶん。この白い肌の下にはおなじ骨があるのだと透き間風が囁いていった。灯はすこしぷるっとしたけれど、その思いさえ面白く感じた。なんであれ感じたこと、肌に触れたことは、表現の肥料にしてやろうと灯は開き直っていたから。転んだ地頭は土さえ掴むっていうじゃない、わたしの先祖に地頭はいないけど。

 

 2

 「この川にね、捨てたんですって、代々のお殿様の位牌を。ぷかぷかと、流れていったんだわ」
 
 橋の上から身をせりだすように、街のまんなかを流れる川を眺めながら、従姉妹の八枝が言った。青い格子のきものに羽織を纏い、古い城下町に馴染んでしまったその姿を、灯はうつむいてハッセルブラッドの画面から覗いている。撮られ慣れている八枝はそれを気にもせずに、平気で罰当たりなことを言いながらその話に俳味さえ感じているらしかった。

 灯は信州にいる。駅のおおきな硝子の外に迫る、雪を被ったアルプスを背に、ようこそ信濃の国へ、と得意げな八枝にさっき迎えられたばかりである。街を歩きながら、八枝はそっと大切なものに触れるかのように灯の腕をとった。この二つ年下の従姉妹は、母の死このかた灯を庇護するような仕草をとりだした。なんてわかりやすいんだろう、もちろん母がなにか言い遺していったのだ、灯はすこし苦々しく思う。
 
 雪をまとった冷たい川は、両脇に街並みを従えている。西も東も、高山が壁のように聳えたっている。あれが常念、と指差したときの八枝は誇らしさに溢れていた。彼女はもとから半分こちらの血を引いているのだ。東京育ちで、この街の旧家に嫁いできた彼女は、けれどただの奥さまでもなかった。ぷかぷかと浮いていった位牌というのは、むかしむかし廃仏毀釈の史実なだけでなく、八枝とその夫がいま立ち向かっている問題でもあった。

 八枝の夫の真木は旧家の跡継ぎとして生まれたが、キリストに呼ばれたがゆえに先祖への勤めを果たすことを拒否し、一族から絶縁されているようなひとである。アメリカ人の牧師とともに、彼はその屋敷で教会を開いている。それが煙たくて、灯はなんど従姉妹に誘われてもここまで遊びに来ることはなかった。八枝の結婚式に訪れた以来、四年目になってやっと灯がここに来たのは、八枝のおばあさまの画策にみすみす嵌まったからでしかない。
 
 「八枝もすごいところに嫁いだわね」
 茶色のチェスターコートに象牙色のゆるやかなパンツを履いて、腰の位置にカメラを構えた灯が言う。嫁ぐなんて言葉は、フェミニストの気のある灯にはあまりに前時代的である。けれどこの従姉妹に関するかぎり、これ以外はしっくりこないのだ。

 「わたしたちの育ち方って、日本人だけどあまり日本人らしくなかったのね。真木と結婚するまであれが当たり前だと思ってたわ」
 いまさら気づいた、というふうに八枝が言う。
 
 灯の母と八枝の父は兄妹で、明治の初めから代々プロテスタントの家系だった。祖父は小児科医で、偉大なキリスト者だった。偉大な、というのは偉ぶっていたことではない。偉ぶらないところが、偉大だった。灯にはいまも胸にせまるように懐かしい祖父だ。幼い灯は、神さまというのはお祖父ちゃんのようなひとだと思っていた。けれども神さまは死んじゃった、灯に遺産をたくさん遺して。

 「このあいだね、分家の叔父さんが亡くなって、真木が祭祀権の継承者になっちゃったの」
 
 首もとの灰色のミンクを掻きよせながら、八枝が唐突に言いはじめた。あれはきっと八枝のものではなかろう。彼女のきもの暮らしは、ほとんどが真木家の蔵出しか、貰い物でなっていると前に言っていたから。八枝の話よりも、灯にはその高そうな毛皮の方が気になってしまう。
 
 「クリスチャンだもの、先祖の供養なんて出来ないし、お墓を守れと言われたって困るじゃない。お葬式のとき親戚のひとたちにいろいろ酷いことを言われたのよ。真木は言われ馴れているらしいんだけど、わたしはひとからあんなにあからさまな敵意を向けられるなんて初めてだったから、いかに恵まれた環境で育ててもらったか思い知らされたわ」
 
 そう言いながら八枝はからっぽの手のひらを、ひらひらと高みから川面に放った。彼女の脳裏では、黒ずんだ位牌たちがぱらぱらと川面に落ちていくのである。それを捉えようと灯がシャッターを切る。

 「どうしてそこまでするのかしら、真木さんは。仏壇を拝んでるクリスチャンだって幾らでもいるじゃない」
 従姉妹の夫の生きづらさを想像しながら灯は聞いた。長いものに巻かれる自由を知ってしまったいま、灯にはそんな些細なことでひとからわざわざ憎しみを買うような真木の生き方は理解できないし、呆れてしまう。なんという原理主義者だろう。

 「真木はね、出来ないんですって。ただとにかく、聖書に逆らって本家の当主としての務めを果たすことが。じぶんのなかに聖霊が宿っているかぎり、とにかく無理なんだって。そして聖霊をいちど受ければ、それは決して去ることはありませんものね」
 お説教か、と灯は思う。

「わたしだって同じことを選ぶでしょうけど、でも勇気がないの。このあいだも真木の後ろでただ小さくなって震えていたの」
 八枝は橋桁から離れると、ふたたび灯の腕をとり、すこし甘えたふうに手触りの良いウールのコートを引いた。
 
 八枝はおばあさまの使いで、街中のギャラリーに灯を連れていくことになっていた。灯の個展を開く予定の場所である。八枝が働いていたこともある蔵作りのカフェに、ギャラリーが併設されていた。古い建物を改築したところだと聞いていたから、作品はどう展示するのかと心配していたが、天井の壁際に沿ってピクチャーレールが張り巡らされている。内壁は漆喰塗りだから無論釘打ちは禁止だ。吊るせるようにしないといけないのか、と灯はメジャーを片手にすこし頭を悩ませた。作品を額装して東京からここまで持ってくる手段については、なんども頭のなかで練っていた。
 
 オーナーはおばあさまと懇意だったから、展示はもう会期まで決まっていたけれど、一応ということで持参したポートフォリオを見せた。カフェは落ち着いた暖色のひかりが射していて、濃い色をした民芸のテーブルと椅子が揃っている。ひとつずつ家具は違っているのが楽しくて灯は気に入った。差しだしたポートフォリオはオーナーのお眼鏡に叶ったようで、安堵する。けれど隣で八枝がすこし不安げな顔を浮かべていた。
 
 コーヒーとケーキが並んだテーブルにふたり残されて、すこし改まったように八枝がきらきらとした目を灯に向けた。
「それでさいきんいかが?」
灯はすこし躊躇った。話さなくてはいけないことがあった。けれどもそれが受け入れられるとは思っていなかった。いま話すべきだろうか、八枝とふたりきりの今は、真木が一緒のときよりも話しやすいだろうことは確かだ。

 「結婚、するかもしれない」
ぽつりと呟いた。八枝がはっと息をのむ。彼女は単純だ。その裏に潜む幾多の問題よりも、まずウェディングベルが頭に鳴り響いたらしい。結婚すると言ったって、灯は式を挙げるなぞ一言も言っていないのに。

 「まあ!どんなひと?どんなひと?」
八枝は一瞬で恋の話に頬を染めた少女時代に戻ってしまった。リアリストの灯は皮肉にも、これは砕いてやらないとと思う。

 「バツイチの男で、子どもがいるの。前の奥さんは親権を放棄しているから、わたしが育てることになると思う。もちろんノンクリスチャン」
 面白いぐらいに唖然とした八枝を、灯はすこし満足げに眺めた。沈黙のなかゆっくりとコーヒーに口を付けていると、しらじらしい空気を裂くように、扉が開いて客が入ってきた。
 
 「八枝さん」
 入ってきたのは見目の整った若い男で、八枝を見るとかるく口角をゆるめた。けれども八枝はまだ固まっている。男はいっしょにいる灯を見て、すこし目礼してから離れた席を取ろうとした。やっとのことで八枝はいずこから戻ってくると、ふたりの掛けている丸テーブルの余った席を引き、その男に示した。

 「久米さん、こちらわたしの従姉妹の灯ちゃんです。灯ちゃん、久米さんは教会の常連さん、というかいつもうちに入り浸ってるひとなの」
「お噂はかねがね」
すこしおどけたように久米は白い歯を見せて笑った。きれいな歯だ、と歯に取り憑かれた灯は思う。
「あまり良い噂ではないでしょう?」
「お綺麗なひとだと聞いてましたよ」
久米はさらりと世辞を言う。それがつかみ所のない感じだ。

 「八枝さんは今日教会にいるものだと思ってた」
「この後ちゃんと帰るわ。今日は従姉妹が来るから出させてもらったの。久米さんもこのあと一緒に来ます?」
「なにか美味しいものでも頂けるんですか」
「牛肉の塊を頂いたので、きょうはビーフシチューなの。今朝もう作っておいたから、帰ったら温めるだけになってるわ」

 久米が灯に笑いながら言う、
「飯をたかりに入り浸るぼくみたいな人間のせいで、八枝さんは苦労してるんですよ。ぼくなんかあの屋敷の家具になってきていますからね」
「わたしは苦になんかしてないわ。あの家はふたりで住むには広すぎて寂しいもの、みなさんが来てくれると賑やかになって、わたしも嬉しいの」
「八枝さんも成長しましたね」
 からかう久米を八枝が睨んだ。八枝が同年代の異性と親しげなのが灯には珍しい。
 
 はっと思い付いたふうに八枝が言う、
「搬入や搬出のお手伝いを、久米さんにお願いできたらとっても丸く収まるのだけど」
 店員が注文を取りに来て、久米がコーヒーとモンブランを頼んでいるあいだ、灯はその言葉を咀嚼していた。
「お手伝いならしますけど、なんなんですか?」
 ここで灯の個展を開くことから八枝が説き起こす。灯が写真家だと聞いて、久米はそちらを向いてかるく目を見張った。説明が済んだとき、灯は疑問に思っていたことを聞いた。
「丸く収まるってどういうこと?」

 八枝は渋い顔でためらいながら言う、
「真木やパウロさんに頼むのが順当だとは思うんだけれど、作品の如何によってはあのひとたちは難しいんじゃないかって、さっきのポートフォリオを見てちょっと思ったの」
 
 灯は察した。途端に窮屈になった。自分の内側から生まれる表現は、大海に放たれるとひとに好かれたり嫌われたり、波に砕かれたりどこかもわからぬ所へ運ばれたりしていく。自分の作品がこのひとたちに拒まれるだろうことはわかっていた。わかっていたのに、胸がかぎ裂かれるような感覚がする。

「八枝はいいの? わたしの個展の手伝いなんかして?」
 灯の表情をみて、機敏そうな久米がかすかに目を反らした。
「わたしはヌードを撮らせてくれっていわれない限り、灯ちゃんに協力するつもりなの。従姉妹だもの」
 そう言ってから八枝は、久米に気づいて顔を赤らめた。久米はそれを聴かなかったふりして、灯に社交的な質問をしはじめた。

 かるい質問におなじ程度の軽さで答えながらも、灯にはだんだんこの教会の久米さんという人物が何者なのかが気になり始めた。とても軽そうでいて、軽薄ではない。八枝とも気を置けなそうでいて、どこかきちんと距離を保っている。ふしぎがっているのさえ気取られたらしい、久米はまた白い歯をみせて笑った。
 
 カフェを出ると、海鼠壁の蔵の建ち並ぶ通りである。折角だからどこか見たい? と聞かれて、灯は安易だなと自分でも思いながらお城と答えた。空襲を受けなかった街には、古い建物が無造作に残っている。歩きながらそのことを言うと、八枝が苦い顔でうちは三月の空襲でぜんぶ焼けちゃったものね、とまるで見てきたかのように言った。ふたりの祖父は医学生だったころ、実家ごと東京空襲で焼け出されたので、家には古いものが残っていなかった。

 戦火をまぬかれた城下町は、北国らしい白く濁った青い空の下に、泰然と纏まっている。しばらく歩くとお城が見えた。しろい砂利のみちを、白鳥の泳ぐ内堀のところまで行ったとき、青い山々を背負った漆黒のお城を見上げながら八枝が言った。

「わたしはきものなので、あの階段は登れないとおもうの。おふたりで行ってきて」
「きものの時代のひとが建てたお城なんじゃないの?」
 灯はとまどう。
「いや、たしかにあれは止めておいた方がいい。灯さん、行きましょうか」
 久米が気取りなく、さらりと誘った。

 靴を脱いで一歩目からよじ登るような急階段に、灯は八枝のことばを悟った。けれど氷のような床や、吹きさらしの銃口や窓、もはや白かったことがあるとも思えぬような漆喰の壁には、嘘のない時間の質量が感じられた。久米はもう飽きるほど登っているのだろう、むかしこの床を磨くボランティアをした苦労話なんかを適当にしている。大切なカメラを守りながら一番急だと言う階段を登っていると、後ろでがたっと音がした。下から二段目で久米が踏み外したらしい。係員の大げさな心配をふりはらうように、久米は大丈夫だと立ち上がってみせる。

「猿も木から落ちるんですね、子どもの頃から登っているから油断してしまった」

 平気そうな顔を装っているけれど、久米はほんのわずかに足を曳いていた。どちらから言い出すでもなく、ふたりは三角の破風の下のちいさな空間に座りこんで、息を整えた。冷たい床は暗く、格子窓から光が滲んでまぶしい。膝を抱えながら足首を撫でている久米の隣で、灯はハッセルのファインダーを開けて、外の景色を追っていた。

「灯さんは賢すぎて屈折してるひとだと聞かされたんですが、そうなんですか?」
突然久米が聞いた。斬りこむような質問だったが、なぜか嫌な気はしない。
「八枝に比べたら屈折してると思うわ」
「あのひとは真っ直ぐですからね......」

 彼のペースに載せられたくなくて、灯は暗い床の上にひらりと久米に向き合うと、問うてみた。
「あなたは? あなたは何者なの?」
「ぼくはこの辺のなんの変哲もない家庭に生まれ、ずっといい加減に生きてきて三年前にキリストに出会った、ただの何でもない男」
「それが一番気になるわ。なんであなたみたいな上手に世渡りしていけそうなひとが八枝の教会にいるのよ?」
 ふたりが近すぎたことに気付いて、久米がわずかに顔を背けた。
 
「上手に世渡りできても、それで満たされるとは限らないんですよね。こちら側にいると、虚しくなりません?」
 久米のおおきな焦げ茶の瞳は、悟り尽くしたように澄みとおっている。
「ぼくと灯さんはどちらも同じところを知っていて、ただ順番が逆だっただけなんじゃないかと思うんですけど」

「こちらがどんなところかあなたに分かります?」
「ふふ、ぼくがこちらにいた時にどんな人間だったかは謂わないでおきます」
「なんであなたはそちらにいるの?」
 漆喰の壁に空いた窓から、久米は遠くをみはるかした。その整った横顔に、ふいに差してきた光が影をつくる。

 「ぼくはね、溺れていたんです。このまま死んじゃうのかな、と思ってたときに、救いだされたんです。溺れるのだけが人生だと思っていたぼくを、キリストが舟に引き揚げて、凍えているぼくを一緒の毛布にいれて暖めてくれたんです。だからそれ以来ぼくは彼に付いていくことに決めたんです」

「......写真、撮ってもいい?」
 溺れる比喩を話す久米の顔がうつくしくて、灯はそっと聞いた。どうぞ、と久米。そのままの表情でいて欲しくて、ハッセルを向けながら灯はまだ神のことを聞き続けた。

「どうして外の世界を知っているのに、信じられるの?」
「外の世界を知っているから信じられるんじゃないんですか。ぼくは恋愛で満たされたことがないんですよ。きっともっと違う相手なら、とか色々試したんですけどね、虚しさを満たしてくれるひとには結局会えなかったんです。ぼくはいまキリストとの関係に、その探していたものを見いだしてるんです。ぼくが女性だったらもっと通りがよく聞こえるんでしょうけど」

「キリストの花嫁ってやつでしょ」
「灯さんの言い方には現実味がないでしょ。そりゃ男をひっつかまえてきて花嫁だの言ってもそうでしょうけど。ぼくとキリストの恋愛は、すでに色のついた硬い言葉の入る隙間のない、ふたりだけの関係なんです」

 もう何枚か、灯は久米を撮り終えていた。それに満足して、もう足が大丈夫ならそろそろ行きましょうか、と灯は後ろを振り向いた。そこからふたりはあまり口を利かなかった。黙々と登り、黙々と降りた。優美な月見櫓を歩いていたときに、久米がふと言った。

「八枝さんの従姉妹だから、どんなお嬢さまかと思っていたら意外でしたね」
「わたしは半端者だもの。あなた、八枝のこと好きなの?」
「そんなこと聞いて、真木さんとパウロさんを使ってぼくを間接的に葬り去りでもしたいんですか」
 
 それ以上答える気のなさそうな久米は、すたすたと暗い出口へと降りて行った。連絡をうけて、堀のところで待っていた八枝は、夕食に使うらしいフランスパンを三本も抱えていた。



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