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8.縁起の法と独創性

さて前回は観測あるいは認識という言葉を用いると、21世紀に生きる我々には縁起の法を理解し易いのではないかという事を書きました。今回はこの事をもう少し詳しく議論してみたいと思います。

自然科学の分野では長い間「観測」という行為を単純にただ現象を見るという意味でしか理解していなかったように思います。例えば物が動くのをただ見て記録するという風にです。だから宇宙のどの様な現象でも観測手段さえ用意すれば、人間は現象をあるがままの姿で知ることができると思っていたのではないでしょうか。ところが20世紀に入って量子力学が発展すると、不確定性原理などにより極微の現象では観測そのものが現象に影響を与えることが解ってきました。

例えば何かの微粒子を観測するには、粒子に光などを当てて目で見える様にしなければなりません。しかし当たった光は粒子の運動を乱します。粒子の位置を正確に知ろうとすればできるだけ波長の短い光を当てねばなりませんが、波長の短い光はエネルギーが大きいので粒子の運動を大きく乱します。つまり位置を正確に知ろうとすればその運動状態がその分不明となり、逆に波長の長い光で運動状態への影響を少なくしようとすれば位置の情報が不正確となるのです。この様に観測するという行為自体が現象に作用して現象を変化させてしまうのです。

この様な微小な現象でなくても、例えば風の強さや方向などを観測する場合風力計を用います。風力計を設置するとその場所での風速や風向が観測できますが、そのことによって設置点での風の流れは幾分影響を受けます。全ての点での風の状態を知るには非常に多くの風力計を設置しなければなりません。しかしそうすれば全体の風の流れは大きく変わります。この様に観測手段を多く用意すれば常に世界全体を正しく知る事ができるとは限らないのです。いくらでも正確に現象全体を知ることはできないのです。我々は現象全体の一部だけを観測しているのであって、観測している現象以外の世界については正しい知識を持っていないという事です。この事実が前回までに論じた1/fゆらぎを説明する大前提でした。つまり1/fゆらぎは我々が全体ではなくごく一部の現象のみを観測するから発生するという事です。

この観測という概念に乏しかった時に仏教の縁起の法を説明するために考え出されたのが唯識論だと思います。根本意識である阿頼耶識(あらやしき)に内蔵された原因(因)や作用(縁)という種子(しゅうじ)から生じた結果(果)の一部が、我々の眼耳鼻舌身意の六識に執着心を表す潜在意識である末那識(まなしき)を加えた七識として生じることによって世界を認識するという筋立てです。つまり阿頼耶識の全てを我々は認識できなくて、種子から生じた結果の一部のみが七識として生じ認識するという事です。これはまさに上述した観測という事に相当するのではありませんか。

そこで今日の本題である縁起の法に対する私の考えに進みたいと思います。

釈尊の悟りの内容として「これある故にかれあり、これなければかれなし」と表現される縁起の法、つまり事柄の相互依存性が挙げられます。しかし例え古代とはいえ人々の思考法に何らかの論理性はあったはずで、どの様な言葉で表現されるかは別として、結果には原因がつきものだという通常の因果関係そのものを何らかの形で、多くの人は理解していたと考えるのが自然ではないでしょうか。だから釈尊による独創的な悟りの内容としては、この様な因果関係そのものというより、我々はその因果関係全てではなく一部しか認識できない事により因果関係全体を見通せなくなり、事柄がこの因果関係の連鎖の中で変化するという事が理解できず、その変化の方向が見通せない事柄に執着して苦が生じるということではないでしょうか。当時は観測という概念があったのかどうか知りませんが、少なくとも現在のように明確な形ではなかったのではないでしょうか。もしそうなら上の意味での縁起の法を誰にでもわかる言葉として表現するのは困難であったと思います。

実際釈尊は悟りに至った後、人々はその内容を理解できないのではないかと思い、人々に法を説くのをしばらくの間躊躇されたと言われています。このことからも悟りの内容が通常の因果関係だけに依ったものでないことが分かります。唯識論は因果関係上のこの観測ということを説明するために考え出されたものだと理解しています。だから私はこの「観測」に相当する事実に気がつかれたことが釈尊の独創だと思うのです。如何でしょうか。

私の個人的な意見ですが、佛教史上での独創性ある教えとしては、上記の釈尊による縁起の教えに続いては龍樹菩薩などによる大乗仏教の教え、それと法然上人による専修念仏の教えを挙げたいのです。大乗仏教では自己の解脱より他者の救済という「利他行」を重視するという点、専修念仏の教えでは三信(至誠心、深心、回向発願心)に代表される「信」を第一とするという点などに独創性があると思います。これらは釈尊による初期の教え(出家による自己救済)からは幾分異なっているかもしれませんが、大乗仏教により社会における生産活動が是認されたこと、法然上人の教えによって衆生全ての救済が可能となったことなどに大きな意義があったと思うのです。

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