インタビュー後の覚え書き
ちゃんと自分の話したいことを話せた後は、そのスペースが空くので、その下につまっていた何かがポコッと浮かんでくる。それはポコポコポコポコと連続することもある。
だから逆に、インタビューの場で話したことや、インタビューの直後に思うことは、まだ自分の中に詰まっている上の方の話で、その後から、遅れてやってきたものの方が、より深い大事な気づきがあるような気がしている。
遅れてと言っても、今日はまだ翌日なわけなのだけれど、今朝、「そうか!」と浮かんできたことがあるので記録しておきたい。
昨日自分がした「不完全」に関する話の中で、書くときにばっさり切り捨てた中に、下記のような部分があった(有さんにリライトしてもらった分から)。
短編を書いてるとき。ここでこういう感じがくるような気がするとか、本をよく読んでる人にはある程度型があることがわかる。そこでこうなるってわかることを表現する語彙などがないときに、ごまかして次に行ってしまう。その文章は文法としては完璧で筋はわかるけど、確実にあちこちに目を瞑った、力が足りないから妥協したということが自分ではわかる。その不完全さがわかる。力が足りないということがわかる。今は力がないという不完全さがある。
フィクションではなくても、何か文章を書いていて、「こういう感じのことをここに書きたい」と思っても、書けないので、違う表現に逃げるとか、目をつぶることが今まで本当に多かった。そんな「書きたかったことに出会えない」という、くやしくさみしい思いをしたことが多い。
それは、本当だったら生まれるはずだったものに出会えないということでもあり、自分が何度も逃げてきたことだけでなく、生まれるはずの命を殺したような罪の意識が、その度にうっすらと積み重なっていく。
そのときは「今できる100%で書いた」と思ったとしても、実は罪の意識は深い部分に残っていて、それがいつも突き上げてくる感じがある。「お前が果たすべきことを果たせ。逃げてるんじゃないぞ」と言っている。
そんなこと、昨日のインタビューではまったく意識してなかったが、今朝になって突然やってきた。
でも、ふりかえると、5月の芸術祭のときに「また、会う日まで」という作品を読んで私が思っていたのは、そういう自分の「逃げる」や「罪の意識」を投影していたということなんだ、と今朝一人で納得をした。
このnoteを書いたときにも、今日と似たようなことを言っているけれど、昨日の話でより深いところから出てきて、つながった感がある。
「罪悪感、罪の意識」
自分が感じる不完全の底に、そういうものが渦巻いているというか、くすぶっているというか、そういうのがあるんだな、と。
こういうぐるっと回っての気づきがあるから、そのときどきで感想を残しておいてよかったと思う。5月の私、グッジョブ!
ということで今朝もこうして残しているのだ。
5月に引用をしたオリザさんの言葉も、昨日のインタビューを終えたあとでは、さらに迫ってくるものがある。
「表現の欲求」とは、この「私に見えている世界」「私に聞こえている世界」を、ちゃぷっとわが手に捕まえて、それをそのまま記述したい、演劇という形にしたいという単純で暴力的な欲求だ。
今日もよい1日となりますように。
日常のなかの何気ない感動を「ちゃぷっとわが手に捕まえて記述」できますように。
少しでも罪滅ぼしをできる日になりますように。