『沈黙』を読んだあとに、浮かんできたことと、出会ったもの
先日もちらっと書いたけど、この数か月の間に、マーティン・スコセッシ監督の映画『沈黙』を見て、遠藤周作原作の小説『沈黙』を読んで、そのあとまた映画、小説の順に、2回ずつ観て、読んだ。
「すごく悲惨」というのが、まずは表面的な感想。
そして小説の「風景の描写の筆力がすごい」というのが、続けて思ったこと。
で。
そういった感想の奥で、もっと何らかを感じているから自分はこの作品を繰り返して観て、読んでいるわけで、その「感じている何か」は何なんだろう?という問いを持ちながら、何が浮かんでくるかを待ってみた。急いで言葉にしようとせず、浮かんでくるまで。
浮かんできた問い
すると、いくつかの問いが浮かんできた。
・村の民たちは、厳しく迫害され、表向き仏教を信仰してると見せかけてまで、どうしてキリスト教の信仰を継続していたのか?
・そもそも、キリスト教が伝来する前までは、日本の一般の民衆たちはどの程度仏教や神道を信仰していたのか?
・仏教になく、キリスト教にあるものはなんなのか?
・小説の舞台となったような貧しい土地で、厳しい年貢の取り立ての中、民たちはなにを思い生きていたのか?
・処刑をしたり、異教徒をじわじわと追い込んでいく役人は何を思っていたのか?その時代の、その職務の人にとっては、それが仕事として当たり前のことだったのだろうか?アーレントのいう「凡庸な悪」みたいなものだろうか?
・ロドリゴ司祭やガルペ司祭は、どうしてそこまで自らの使命を全うしようと思えたのか?その他、当時、命をかけて信仰を広めようとして海を渡った宣教師たちを動かしていたものは何だったのか?
・キチジローの存在は、何を象徴しているのか?なぜ何度も何度も登場するのか?
おそらく、当時の村の民の生活は困窮を極めており(それは作品中描かれている)、その苦しさから藁にも縋る思いで、神にすがっていたのではないかと思われる。
ただ、当時、もともと仏教がどのくらい日常のなかに浸透していたかがわからない。苦しさからの脱出を求めてのキリスト教信仰だとしたら、迫害されてまでも、その信仰を守り続ける理由にはならないのではないだろうか?
先日、NHKの「ブラタモリ」で、どうやって隠れキリシタンが信仰を続けることができたのか?という内容が放送されていたけれど、この番組では、Howの話はされていたが、Whyの話はされていなかったように思う。
こういったことについて思いをめぐらすとき、やはり時代背景や、その時代における人々の意識や価値観、日本における宗教意識の変遷、
それから、キリスト教そのものの教え、欧州のキリスト教にまつわる状況や布教の背景にあったもの(なんのための布教か)といったことを知らないと、ただ自分で想像するだけでは意味がないんじゃないか?と思って、ちょっとクラクラしてくる。
めげずに問いを集約すると、
「そもそも信仰とはなんなのか?」
「宗教と歴史、政治の関係は?」
となると思うのだけども、今一番自分で考えたい問いの形にすると、
今、自分に信仰心があるかというと、ほぼ毎日お寺や神社にお参りには行っているけれど、これを信仰心というのか?自分では別に特定の宗教の信者ではないと思っている。そういう自分と、何らかの宗教を信仰している人の違いは何なのか?信じる拠り所があるかどうかなのか?導いてくれる存在がいるかどうかなのか?儀式や修行をしているかしていないかなのか?
舞台となった時代はどういう時代で、その時代の人びとにとっての信仰とはなんだったのか?
ということになるか。
浮かんできた問いについて考える
私ははるか昔、プロテスタント系の大学で、キリスト教概論の単位はとったけれど、ほぼなにも覚えていない。
昨年、主に初期仏教の教えと、日本に伝来した仏教が様々な宗派に別れていく流れは学んだが、これが一般の民衆にどんな風に広まり、人々がどの程度、どんな風に信仰をしていたかはわからない。
キリスト教や歴史のことをもっとちゃんと学ばないと理解できないのかな?と思っていたときに、この本を見つけた。
目次をみると、クリスチャンの遠藤周作の目線から見た仏教とキリスト教を比較している章もある。「これはいい」と思って早速読んでみた。
信仰とは何か
まずひとつ、「なるほど!」と思ったのは、
信仰を、日本では一般に、百パーセントの確信というふうに考えがちです。そうじゃなくて、前にも述べたように、ベルナノスの言う九十パーセント疑って十パーセント希望を持つというのが宗教的人生であり、人生そのものでもあると思うんです。人間というのは、そんなに強かったら宗教は要らないと思います。
九十パーセント疑い、十パーセント信じるというその十パーセントは九十パーセントより強いのかもしれません。その十パーセントとは無意識のところで信じていることだと思います。
たしかにそうだ。信者、信徒というのは、ほぼ百パーセントの確信をもって信仰しているのだと、私は思っていた。
でも、たしかに『沈黙』では、ロドリゴ司祭が抱く「疑い」が、繰り返し描かれている。
さらに、
私は非宗教的人間と宗教的人間があるとは思いません。宗教的人間という形を自称する人間と、自称しないけど、実は探しているものは宗教的なものだという人間との二種類があると思うのです。
というのも、たしかに、と納得をした。そう思えばこそ、いろんなことに納得がいく。
(「宗教とは?」「宗教的とは?」というのもまた、考えなくてはならないけれど)
いろんなこというのは、たとえば
パワースポット巡りが流行っているのを見て、それってどうなんだろう?
自分が真言宗の信者じゃないのにお遍路をしたり、曹洞宗の信者じゃないのに永平寺で座禅を組むってどうなんだろう?
みたいなことが気になったことがあって、何かを信仰するのに「資格のようなもの」がいるのではと私は無意識に思っていた。
だけど「宗教的なものを探している」ととらえると、その行動には納得がいく。
日本では、日常の中で宗教的行事を行っているわりに、宗教はあやしいみたいな猜疑心も強いと思う。私も間違いなくその一人だ。
だけど、文学を読むには時代背景を知らないと理解できなくて、歴史を知っていくと宗教や政治が絡んでいて、哲学も遡っていけば宗教とは切り離せない。さらにさかのぼると神話があって。。。そうやってなんか全部つながっているのだから、全部つなげて理解していかないとなあと思っている。これは長い旅になりそうだけど。
神とは何か
私は、「神様らしきものはいる」と思っているけれど、それがすべてをつくり出した創造主だとか、唯一絶対と思っているかというと、そこまでは思っていない。「宇宙の大きな流れのようなもの」と漠然と思っているに過ぎない。
そういう意味で、
神はいつも、だれか人を通してか何かを通して働くわけです。私たちは神を対象として考えがちだが、神というものは対象ではありません。その人の中で、その人の人生を通して働くものだ、と言ったほうがいいかもしれません。
三年間の大病をしなかったら『沈黙』なんていう神を考える小説も書けなかったかもしれません。そう思うと、目に見えない力が働いていると思わざるを得ません。
「その人の中で、その人の人生を通して働くもの」というのは、しっくり受け入れられる。そういう力が働いているということは信じられるし、今も信じている。それをどう呼ぶかは、人それぞれ好きにすればいいのではないか。
聖書は弱虫を描いている
もう一つ、『沈黙』に関連して納得したところが、
イエスを取りまく者は、みんなぐうたらなんですね。
イエスにあれほどつきまとって、先生と共に死にます、なんて言っていた弟子が、最後にローマ兵が来たら、クモの子を散らすように逃げているんです。
はっきり言ったら、あの使徒たちは全部ユダです。聖書では裏切りをユダだけに集中しているけれども、全部ユダと同じものがあったと言えるんじゃないでしょうか。
そのように裏切りをするような弱虫が強虫になっていった。強虫という言葉はおかしいですが、比喩としてあえて使いますと、弱虫がなぜ強虫になったのかというところが、私にとって聖書のおもしろいところでした。弱い人間を強い人間に変えたXがそこで働いたと考えざるを得なかったのです。
ここでいうXは、上記に出てきた神の「働き」のこと。
「ユダや弱虫」と「イエス、神」との関係を、『沈黙』ではキリスト教弾圧下の日本を舞台に表現したのか、ということが自分の中でつながった。
キチジローが象徴しているもの
さらに、聖書における「弱虫」をキチジローが象徴していたのか、というのもつながり、納得がいった。
『沈黙』を書こうとしていた時に、長崎へ行って踏み絵を見ていたら、それに足の指の跡が残っていたのです。それが気になって、どんな人が踏んだのだろう、どんな気持で踏んだのだろうと考えたのです。最後には、おまえがそういう状況にいたら踏むだろうかということをよく考えてみました。
私も明らかに踏むほうの可能性のある人間だから、踏んだ者のほうにカメラを据えたのです。
キチジローは私だと思っています。だから、踏み絵の前に立たされたらどうするかという質問があったら、なんで『沈黙』の中にキチジローが出てくるかわかるでしょう、ということにしているんです。
私も棄教してもまた信仰し、また踏んでというようなことの連続だろうと思います。それもやっぱり信仰だと思うのです。
背景を切支丹時代にとるのも、あの時代が自分を一番反映しやすいからです。なぜなら私はキリスト教徒として育てられたからです。そこに材料をとれば自分の悩みとか苦しみを投影しやすいからです。それは左翼の作家がある農民や労働者の世界を書くことが自分の思想を反映しやすいから書くのと同じようなものです。
遠藤周作という作家のことを全く知らずに『沈黙』を読むのと、こういった著者の考えや思い、執筆の背景を知って読むのとでは、伝わるものは異なってくるだろう。ここからまた作品に向き合うのが楽しみになってくる。
今回は、考えたいことのメモみたいになってしまったが、とにもかくにも、小説は時代背景を抜きにしては読めないことは確か。そして、私は時代背景の知識が乏しすぎる(涙)。
引き続き読み、学び、驚き、味わいながら、「人が生きること」の深みをのぞいていきたいと思っている。
ちなみに、今回、こうやって「歴史と宗教、信仰」について少し時間をかけて思いをめぐらしているのは、昨年味わった他の体験ともリンクしているから。書こう書こうと思って書けていないテーマのひとつ。
・戯曲『宮城野』を読み解いた講座を受けた衝撃
・『日本文学盛衰史』のショック
こういう「文学と歴史」というテーマはいつも頭の中にありつつ、なかなか手が出せていない。
引き続き、自分の興味を旗に、先人の賢者たちをガイドに、歩を進めようと思っている。歩みは遅いけど、一歩一歩。
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