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続・言葉の重さはどこからくるのか

かれこれ半年近く前、「言葉の重さはどこからくるのか」という投稿で、インタビューの録音を聴きながら感じたことを書いた。

その人の深くに沈んでいる「何らかの感じ」が、言葉に入れられて、言葉に包まれて、出てくる。その人が必死にひっぱり上げた言葉

を、そのときの私は「重い」と感じていたようだ。

軽い言葉は、はやく流れる。比較的一定のスピードで。
重い言葉は、ゆっくり進む。結構立ち止まる。足踏みをする。声が低く、小さくなる。前後に大きな呼吸の出入りが伴う。

とも書いている。
今の私も、そんなに感じることは変わっていない。

このときは「話す言葉」について思いをめぐらせていたけれど、同じことはもちろん、「書く言葉」についても言えるだろう。

「重さ」というのは、「深さ」とか、「迫力」とも言えるかもしれない。物理的に、身体的に、書き手はそこまで行ったというか、もぐったというか。

それは「うまい」こととはベクトルが違っていて、決して読みやすいとかわかりやすいとか、そういうことじゃなく、書かれている内容そのものが迫ってくるので、どう書かれているかには気がいかない。もはや文章を読んでいるという感じではなくなる。一緒に体験するという感じになる。

「うまい」文章というのは、内容がするするっと入ってくるし、リズムよく心地よく読めるのだけれど、最後まで、あくまでも文章を読んでいる状態で終わる。しばらく経つと、「何が書かれていたか」をあまり思い出せなくなる。

深さもうまさも、どちらをも感じる文章ももちろんある。だが、深さのほうがインパクトが強いので、うまい文章であっても、うまさは背景に押しやられる。

自分が傷ついて血をだらだらたらしながら、自分の排泄した汚物にまみれて書かれたようなものは、「何か」がのっかっている。そういうどろどろぐちゃぐちゃな自分に接地しているひとは、まず「ごまかし」がない。ごまかそうとしているときでさえ、ごまかそうとしていることを隠さないので、ごまかしがない。

言葉遊びのような装飾も、自分はわかっていてお前らにはわかんないだろというようなスノッブさも、演出として使うことはあっても、ただただ演出として使う。

そういう人が書く文章は、ひたすらまっすぐなその人を、むごたらしいほどにくっきりと描き出す。そんな覚悟が感じられる人の文章が、私は大好きだ。


自分自身は、人に読んでもらうことが前提の表向きの文章は、パシッ、ピタッと言葉をはめていくように書けるようになりたいと思っているけれど、自発的に何かしらを書くとき、特に自分の内面に意識を向けているときに書きたい文章の傾向があるとしたら、そういう痛い程ごまかしのない文章だ。

だから、ふわっとした感じにも、ポエムっぽさにも逃げたくないし、さらりとスマートな感じも演じない。ねっとりとまとわりつくような感じも、化学式のようなきっぱりとした感じもまったく必要ない。不器用な仮面もかぶらない。

かっちかちに乾いて固まった土に、シャベルを何度もつきさすような。地面にシャベルを何度跳ね返されても、めげずにシャベルをまた手にとってごつごつガチガチした地面に向き合うような、そういう文章を書きたい。


最近、高野悦子の『二十歳の原点』や、神谷美恵子の『神谷美恵子日記』、メイ・サートンの『海辺の家』などの日記を、立て続けに読んでいる。どの日記も言葉の向こうからその人の声が聞こえてくるようで、読んでいるというより、ぐーっと耳を澄ませてその人の語りを聴いているような心持ちになる。

決して流暢な語りではない。でこぼこ道を進むように、がくんがくんすることもある。だけど、自分を見つめることを通して、世界を見つめ続けた人の日記からは、土にシャベルをひたすら刺し続けるようなたくましさが伝わってくる。

そんな文章に触れることができると、「ああ、そうだ、そういう感じだ」と思い出す。筆者たちの「言葉の重さ」を感じることが同時に、自分に安定感をもたらしてくれるのだ。

その「言葉の重さ」は、その人がたしかに生きている(生きていた)ことから来るのだろう。ただ生きるのではなく、たしかに生きること。内容が深刻だからとか、テーマが重要だからとか、有名な人だからとか、そういうことじゃない。

その人が書くことを通して発している「たしかな存在感」が、その言葉たちに「重さ」を与えていくのだろう。


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大前みどり
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