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「文体」ってなんだ? ~ 書けない理由を自分で分析するシリーズ第3弾 ~

「文体」ってそもそもなんなんだ? という興味から、この一か月で関連する本を何冊か読んだ。のだが、自分なりの理解を書こうと思ったまま書けない日が続いている。

ということで、書けないならその書けない状態を書いて、なぜ書けないのかを分析していけばいいという風にスタンスを切り替えることにした。分析といっても、自問自答がダラダラと続くだけですので、あしからずご容赦ください。

まず、書けないときというのはだいたい、それを書くには何週間も必要なんじゃないかと思えるくらい大きなかたまりのまま、どかんと書こうとしちゃっているときだ。自分の能力と持ち時間を過大に見積もっている。

そして、あきらかにいろんな断片が、整理されない状態のまま頭の中にごちゃごちゃっと入っているので、そのままでは書けない。

さらに、論点(問い、切り口)があいまいだから、書いたとしてもダラダラと時系列の行動や思ったことにしかならない(それでもいいときもあるとは思うけど)。

「書けない」については、noteを始めたときから引きずっているテーマで、過去に何度も書いている。特にこの2回はだらだらと書いている。


でも、

ただ、改めて思うのは、書き始める前の「うだうだ、だらだら、うろうろしている、かなり無駄に思える時間」は、ずっとその「書く対象」のことを考えている時間でもあるということだ。どうやってつきあっていくか。どう関係を持っていくか。
そこで気づくことも、あるかもしれない。その対象とちゃんと向き合えるまでに、それだけの時間が必要なのかもしれない。そう考えると、うろうろする時間というのは、対象との関係を作っていく大事な時間で、もしかしたらそこで関係をつくったからこそ、書き上げることができているのかもしれない。

というように、なかなかいいことを言っているんじゃないという気もするし、ただの言い訳のような気もするし。

さて。前置きが長くなった。

はじまりは

6月の頭にレーモン・クノーの『文体練習』を読んですごくおもしろかったので、そこから「文体」ってそもそもなんだ?と問いが自分の中で膨らんでいった。

なので、ちゃんと参考になる本を読んで、文体についての理解の解像度を上げたいと思った。その時点での自分は「文体とは、書き手の書き方の特徴、スタイル、クセ」もしくは「ある業界や、ある領域特有の文章のスタイル」のような理解をしていた。

村上春樹のちょっとまわりくどいメタファーにまみれた(いい意味で)文章なんかは「独自の文体だ」と思っていたし、哲学書なんかは読んでもわからないように工夫して書かれている文体だと思っていた。

読んでみたら

で。「文体ってそもそもなんだ?」という興味に導かれるように、そこから読んだ関連本が10冊くらいある。

『文体の化学』山本貴光
『作家は行動する』江藤淳
『街場の文体論』内田樹
『国民のコトバ』高橋源一郎
『小説の読み方、書き方、訳し方』柴田元幸、高橋源一郎
『書きあぐねている人のための小説入門』保坂和志
『書くための文章読本』瀬戸賢一
『日本語のレトリック 文章表現の技法』瀬戸賢一
『日本語の作文技術』本田勝一

部分的にだが、参考に目を通したのが2冊。

『創作の極意と掟』の「文体」筒井康隆
『文章読本』の「第9章 文体とレトリック」丸谷才一

今日はそれぞれの本の内容には触れないのでリンクは張らないが、この中では『作家は行動する』がインパクトが大きく難易度も高く、その分読むのに時間がかかったし、読後も尾を引いている。

そういうようなことを、つまり1冊ずつ「印象に残った箇所」と「それについて自分がどう思ったか、考えたか」という断片を書くだけでも、備忘録にはなるかなあと思っていた。

だが、せっかく文章や文体にまつわる本を集中的に読んだので、それぞれの著者特有の観点を際立たせながらも、共通している何らかを抽出できないか、「つまりこういうこと」という、自分なりに消化したことばを出せないかと思って、ここしばらく書くことが進まず足踏みをしていた。

これはいつも自分が使っている言葉でいうと、いわゆる「もやもや」とか「森の中で迷子になっている」という状態なのだけれど、そういう表現に逃げずに、今日はもうちょっと頑張って目をこらして見てみようと思う。

目をこらしてみると

「いったい何がぼやけているのか?」と考えると、私の中ではまだそういう言葉や文章に関する「世界地図」がない、ということだ。「世界地図」というのは自分がしっくりくる喩えであって、「全体像」と近い。

何かしらの入力があっても、それが全体の中のどの部分についてのことなのかを把握・配置できないと、断片を断片のままで保持しておかなくてはいけなくなる。が、バラバラのままでは保持していられない。葉っぱ1枚ずつ持っていてもしょうがなくて、木なり枝なりに生えさせた、何かしらのまとまりにしないと理解しがたいという状態なのだと思う、おそらく今は。

よく言われる話でいうと、「群盲象を評す」状態にいるような気がする。だから象全体を見たい状態になっている。

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どこかの誰かに「私が今迷子になっている世界の世界地図ください」といっても、どこでどう迷っているのか他の人にはわからないだろうから(専門家ならわかるかもしれないが)、ひとまず自分なりに苦心して手作りの世界地図を作る必要がある。

全体が正確無比である必要はなくて、入力した情報を配置するための理解の入れ物になればいい。中身が充実してきたらそれこそ、確度を上げた地図を再構成できるだろうから。

じゃあ何をしたらいい?

おそらく読んだ本1冊ずつについて、発見や疑問を書き出してまとめてと、論文を書いたときのように情報を整理していくと見えてきそうだがそこまでやるのはちょっと面倒くさい。そしてその場合、リサーチクエスチョンが曖昧だと、適切な情報を取れない。

今、自分が迷っている状態を問いの形にすると、

同じ「文体」という言葉でありながら、著者によってちょっとずつ意味領域が違っている(ように今の自分は思える)ことを、どう整理して理解したらいいか?

というところで立ち止まっている。
だとしたら、そもそもの「文体とは何か?」という各著者の定義を整理して、その上で

文体とはどんな風に形成されるのか?
文体を文体たらしめるものは何か?

のように、問いを立てて情報を分類していくといいのかもしれない。このへんはなんだかまだぼんやりしている。

全体像へのヒント

たまに全体像が見えなくなったときに参考にしている『学問のしくみ辞典』の目次を見てみると、今彷徨っている森は大きくは「言語学」と「近現代の日本文学」というカテゴリーの中に入る。学問というくくりで分けた場合。

もちろん、その括りが独立して存在するわけではなく、哲学、歴史、宗教、心理学、社会学とも(それ以外とも)関連しており単純には切り離せない。だから、それらにまたがった全体像の地図を自分なりに描いていくといいのかもしれない。

さらに他の本からもヒントを得た。

本をよく読む人にとっては当たり前すぎて鼻で笑われるかもしれないが、大前提として、著者が何でその本を書いたのかをつかんでおくということだ。

NHKの「100分de名著」のテキストは、それを解説の先生がやってくれるので参考になる。

カントの『純粋理性批判』の解説テキストを書いた西研先生は、本を読むときの「目的」と「論点(問い)」を最初に掲示してくれる。

哲学が長い間メインテーマとして探求してきたのは、「究極の真理」です。

とまず一番大きな目的を大枠として示してくれた上で、

こうして、『純粋理性批判』の課題は、①科学が合理的な根拠をもって共有できる根拠、②なぜ人間の理性は究極心理を求めて底なし沼にはまってしまうのか、さらに③よく生きるとはどういうことか(道徳の根拠)、を明らかにするということになります。
哲学書を読むときは、それが何のために書かれたのか、つまり著者の問題意識を理解することが大切です。

この最初の枠の提示がすごくわかりやすくて、哲学書に限らず、本を読むときにいつも意識したいものだなと思った。だが、残念なことに思っただけで終わっていた。しかも、すべての本がそんな風に親切に書いてくれているわけではない。


吉本隆明の『共同幻想論』の解説テキストを書いた先崎彰容先生は、

『共同幻想論』を読むためには、吉本の二つの問題意識をきちんと理解しておく必要があります。まず、なぜ国家などの共同体に注目したのか。理由は敗戦体験です。戦時中の価値観の崩壊に直面し、吉本は激しい自己嫌悪に直面した。第二になぜ人はなにかを妄信してしまうのか、という問いをつきつけられた。詩人の感性を武器に、国家の本質に迫ろうとしたのです。
 そして最後に、三つ目の課題を吉本は見つけます。それが「関係の絶対性」という有名な言葉です。(略)

このような端的な抽出が、その後本編を理解するための「入れ物」、「地図」になってくれる。

では、どうしたら現状、全体像が見えていない自分が、そういう入れ物、地図を手に入れることができるのだろうか?

そんな悩める子羊の前に、ある人がおすすめしていた本がふと表れた。その本がさらなるヒントになりそうで、今読んでいる最中なので、読後にまた続きを書こうと思っている。ちょっと知り切れトンボ感があるが、今日はここまで。

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大前みどり
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