まるネコ堂文章筋トレ、2回目
9時半開始。今日は大谷さんと2人。
最初に30分くらい、「書く」にまつわる話をした。
鼻息荒く「書く」ことを考える、というのは苦手だ。そういうモードになると、自分じゃない人格がでしゃばってくる。その人格がとうとうと語り始める。終わったあと身体がぐったり重くなる。身体に毒がまわる感じというのか。語られたことと自分の不一致というのか。
今朝は、何を話したいのかわからないまま、話したくなったことを思いつきで話すような時間だったのがよかった。私は、書く前の、何かわからない混沌とした時間に、作法や手続きという型を与えたかったんだ、という自分の「願望」がわかった。
一方で、その混沌とした時間こそ、自分のなかの、自分だけの試行錯誤が行われている時間だとしたら、それはもっと大事に扱ってもいいかもしれないと思えてきた。
今日はウォーミングアップに10分、その後60分、と2本書いた。書いている間、ZOOMのビデオはOFF、音声はつなげっぱなし。黙ってはいるけれど、なんとなく人の気配がしながら書く。ときおりこちらのキーボードを打つ音も聞こえていただろうか。
そのくらいの、少しの他者の気配と、その後読んでもらうという縛りが、集中力を高めてくれる。目の前のモニターに映る文字を通して、その向こうに広がる光景を真っ直ぐ見つめることができる。
前回は、立ち止まらずに書くことを意識した。後戻りせず走り抜けるように書いた。
今回は、自分の手の中にある種から、どんな芽が出るのか、どんな根が伸びるのかと、観察するような気持ちで書いた。特に60分の方は、何を書きたいのかがよくわからないまま書き出した。書いているうちに、言いたかったことがにょきっと現れてくれるといいなと思いながら。
今の私にとって、(仕事以外の)書くことは、山頂も、これから登っていく道もほとんど見えないまま、いつも雲に覆われている山道を歩くようなものだ。今自分がどこにいるのかが見えにくい。どこに向かっているのかも見えにくい。地図も方位磁石も、スマホもない。
だから、今できることをするしかない。今できることは、手の中の種に水をやること。見えている光景に言葉を与えることだ。
大谷さんとの会話の中で、ぼんやりしていた少し先の道がなんとなく見えてきた。以前、イメージフォーラムの「映像アート」の講座に通っていたときに、講師に言われたこととリンクした。そのときは、提出した映像はことごとくダメ出しをされたのだが、その講師から言われたコメントにヒントがあった。
この人(作り手)はこういう風に世界を見ているんだ、というのが大事。
やろうとしていることはいいと思う。映像による随筆だよね。
世界を赤ちゃんのように見ているのもいいと思う。
あとは、撮ったときの気分をまっすぐに伝えるように編集する。
余計なことをしない。
今、書くことでやろうとしていること(やりたいと思っていること)はおそらく、こういうことだ。映像アートとは逆の、文章による映像作品づくりだ。
だから、ビデオカメラで撮るように、描写をしなければいけない。カメラで撮るときは、何でも映せばいいというものじゃない。漫然とは撮らない。何をどう撮るかが明確だ。何のどんなところにフォーカスがあたっているのか。さらに、心の中をカメラで撮ることはできないから、心の中を作品に映したかったら、カメラに映る「もの」で、心を映さなくてはいけない。
私が以前カメラにせっせとおさめていたものは、日常の中の「Ah!」だ。日常で出会った特別な光景と、それに動いた自分の心。今はおそらくそれを映像ではなく、言葉で描きたいのだ。
前回は、筋トレ中に書いた文章をnoteに載せたが、今日はちょっと載せないでおこうと思う。今日は2回とも、大事な「Ah!」のピースを書いたから。
大事なことはなかなか書けない。書いたものがペラペラでカスカスなものになると、とっても悲しくなる。だから慎重になる。腰が重くなる。
そして書いたとしても人目にさらした時点で、その 「Ah!」が自分から離れていく。それはもう捨てたようなものだ。まだ捨てたくない。未練がある。もう少しつきあっていきたい。
今日の感想は、筋トレの余韻が残りまくってるまま書いているので、抽象的だけど、まあ、こんな感じです。
前回も、今回も、書いたものに対してどんなコメントをもらったのか、については全然載せていませんが、私はコメントを飲み込むのに時間がかかるたちなのです。メモした言葉を「ふふふ」とか「ふーむ」と思いながら、ちゃんと味わっています。ありがとうございます。
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