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Diversityの拡大解釈
Diversity=多様性
私が小さい子に説明するとしたら、
金子みすゞさんの言葉をかりて、
みんなちがって、みんないい
そう伝えると思う。
世界にはいろいろな人種、宗教、考え、があって、どれが合っているとか間違っているとかではなく、それでいい。それがいい。
ところが、最近Diversityの拡大解釈が目立っているように感じてならない。
様々な性質が混ざり合っている、混沌とした状態が当たり前なんだよ。その意識を浸透させて、この世界から差別がなくなるようにというのがDiversityの考え方を理解するメリットであると思う。
しかし現実は、Diversity=多様性=個性=自由な表現と変わっているのではないか。
自由な表現に関して言えば、社会的な風潮によって選択肢を狭められたりせず、フラットな状態で最善な選択肢を取ることができることが大切であると考えている。
その一例として、生物学的な性別に結び付くイメージをなくしていくことが挙げられる。
日本でも、スカート•ズボン、ネクタイ•リボンを男女問わず選択できる校則が最近だと少しずつ取り入れる学校がある。
この事例の場合、そこに評価が入ってしまうと一気に意味がなくなってしまうのだ。
Diversityの拡大解釈では、評価という部分がキーワードになると思う。
いわゆるマイノリティとなった人を評価する、あるいはそれが個性であると何らかのビジュアルで推す。このように、それぞれがとる選択肢に対して、評価することがあってはならないのではないか。
マジョリティが悪いわけではない。
目立つ=個性ではない。
それをみんなが理解する必要があると思う。
人と違えばいいんだ。目立つことがいいんだ。
勘違いが起こると、選択する際の意思ではなく、結果として自分が受ける評価を意識した選択をとることになる。
その過程で、手段を選ばず人を傷つける場合もあることを忘れてはならない。
Diversity & Inclusion
この本質が今問われ直されている。