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構造の呪物「仮面」: レヴィ=ストロース『仮面の道』

異なる民族間で継承された神話には秘かなる相互の連関がある.同じように仮面の造型の背後にも構造的なイデオロギーがある.では、その構造は芸術家たちの営みにも認めうるか.


『仮面の道』

 新潮社による叢書「創造の小径」の17冊目として出版された『仮面の道』(1977)は、同シリーズの最後から2番目にあたる本である[1].著者はクロード・レヴィ=ストロース.訳は山口昌男と渡辺守章による.原題は『La voie des masques』(éditeur d’art suisse Skira, 1975).

北米インディアンに伝わる異様な悪魔的相貌の仮面が語りかける声なき神話空間に分け入り、仮面が辿った謎の小径を遡りつつ造型文化の両義性と対立構造を解明する

裏表紙の紹介文.


『Admirable tremblement du temps』(原著)


新潮社刊.筆者蔵.


脱審美的な仮面の観照

 レヴィ=ストロースの試みは、仮面の造型を審美的記述とは異なったやり方で述べるところにある.北米の仮面は鑑賞者に得も言われぬ雰囲気、あるいは霊性を帯びた気迫を纏っていて、その背景にある「原初性」「宗教性」などを想像し、果たしてこの表現の根源とはなんであるかを思い巡らそうとする.構造主義を標榜する人類学者は、こういった態度とはかけ離れたところから仮面を鑑賞―観照する.ある民族の仮面をその民族における呪物としてとらえようとするのではなく、異種民族との相互の連関を念頭において解析するのである.少々長いが、本書の立場を説明した格好の部分なので引用しよう.

 これらの仮面を眺めながら、私はいつも同じ質問を発していた。なぜ、これらの仮面は、かくも突拍子もない形で、その機能に相応しくもなく造られているのだろうか、と。あるいは私が、仮面を不完全な形で見ていたのかも知れない。(…中略…)いかなる理由でロを大きく開け、垂れた下顎から大きな舌を突き出しているのか。なぜ一見、他の部分と関係のない鳥の頭がああして付いているのか。なぜ一体、これら全ての類型の不変的な特徴をなしているあの突き出した目があるのか。さらに、なぜ殆んど悪魔的と言ってよいあの様式が生れたのであるか。周辺文化のみならず、その当の仮面が生れた文化の中においてさえも他に類似物の見出せないあの特殊な様式が、である。
 このような疑問の全てに対して私は、仮面もまた神話と同様、これを一つの孤立した対象として、 それだけを、それだけで意味のあるものとして解釈することはできないということが分るまで、解答を見出すことができなかった。意味論的な観点から考えれば、神話が意味を持つのは、変形された神話の群のなかに組み込まれてである。それと同様に、ある類型の仮面は、造形的な観点だけから見れば、他の類型の仮面に対して成立するものであり、それらの仮面の輪郭や色彩を変形させながら、それの固有性を獲得するものなのである。その固有性が他の仮面の固有性と対立するための必要にして充分な条件とは、最初の仮面が一次的意味、あるいは二次的(文化的)意味として伝えるべきメッセージと、別の仮面が同じ文化あるいは周辺文化のなかで担うべきメッセージとの間に、 同じ対立関係が成立しているのである。従って、このような観点に立脚すれば次のことが確認されるはずである。つまり比較するために対置した異なる類型の仮面の、それぞれに付与されている社会的ないし宗教的機能は、単にそこにあるオプジェとして見た場合の仮面の造型性、図柄に託された意味、彩色などと同じ変形の関係にあるということである。それぞれの類型の仮面には神話が結びついているが、これらの神話は、その仮面の伝説的、超自然的起源を解明し、儀礼や、生産配分の関係、社会生活における仮面の役割を説明することを目的としている。だからこそ、神話の研究 (神話はやはり神話でもあるのだ)で有効性の証明された方法を芸術作品の領域にまで(しかしそれらは単に芸術作品であるだけではないが)適用しようとするこの仮説は、純粋に造型的観点から見た仮面そのものの間で支配的な変形関係と等しい変形関係が、各仮面の神話の間に究極的に見出すことができるならば、実証されることになるはずである。

クロード・レヴィ=ストロース.山口昌男、渡辺守章訳『仮面の道』(新潮社、1977).33-34.


新潮社刊.筆者蔵.


構造的な呪物としての「仮面」

 上図は新潮社版の裏表紙である.先の画像(原著と新潮社版のいずれかの表紙)と、この裏表紙を比較してみてほしい.そこで気づかれたことがあれば、本書の内容の骨子はあらかた理解されたも同然といえる.
二種の仮面は異なる民族における仮面だが、よく見ると造型が対照的であることがわかる〔片方の仮面の目、頬、舌は飛び出でて、もう片方の仮面の目と頬は窪み、口は空虚である〕.レヴィ=ストロースの研究によれば、前者サリシュ族のスワイフウェ仮面と後者クワキウトル族のクスウェクスウェ仮面は、相互に影響して造型的に逆転の結果を表出させたという.
興味深いことに、両者は仮面の造型だけでなく、それぞれの仮面のモデルである神の機能性もまた対照的である.どちらが原本でどちらが異本であるかは不明だが、相互が連関していることだけは確かなようだ.確かに、この研究は構造的に仮面を観照することによって成し得た報告である.

 我々がこの書物の冒頭から続けてきた調査によって、二つの重要な結果を手に人れることができた。神話がある住民から他の住民へと移ることによっ て逆転するのと同じく、同じ意味内容を持っ仮面の造型的様相もまた逆転する、ということを、今や我々は知っている。事実、サリシ族にとって富の贈与者であるスワイフウェ仮面と、クワキウトル族において同じ神話的・祭儀的役割を果しているゾノクワ仮面との間に見いだされる関係とは、まさにこのようなものであった。反対に、サリシ族のスワイフウェ仮面とクワキウトル族におけるその模倣面たるクウェクウェと呼ばれる仮面との間に見られるように、造型的要素が不変化のまま保有されるときには、二つの仮面のそれぞれが担う意味内容〔メッセージ〕が逆転している(前出、 一二八頁)。 いかにも注目に値する現象であり、それを一つの図(引用者注:下図)によって表わすことができるが、そこでは実線が造型的形態に、点線が意味内容〔メッセージ〕に照応している.

前掲書.175.


前掲書 175.
クワキウトル族のクウェクウェ面
前掲書 63.


開閉できる仮面
〔上図が開いた場合、下図が閉じた場合〕
前掲書 26.


ゾノクワ〔超自然的能力をつかう女性〕に扮した踊り手
前掲書 89.


首長の頭飾り
前掲書 14.

神話から芸術へ

 レヴィ=ストロースは本書を通じて脱審美的な視座から仮面を眺めた.神話と同様に、仮面の造型もまた構造的に解釈する余地を示したといえよう.ところで、最後になって著者は仮面の表現の土台となるイデオロギッシュな構造が、今日の「芸術」にも認められる可能性を指摘する.言うなればそれは、創造の小径は構造的である、ということだ.

 孤独を欲する芸術家は、おそらく唸り豊かな幻想を抱いているのであろうが、しかし、彼が自分自身に与えている特権は何ら現実性を持ってはいない。彼が、全く自己の内的欲求に従って自己を表現しているとか、独創的な作品を作っているのだとか信じているとき、実は彼は、過去、現在の芸術家に、現在活躍中か潜伏的な芸術家に対して答えているのだ。人がそれを知っていようと、知らずにいようと、創造の小径というものは、決して独りきりで歩むことはないものなのである。

前掲書.202.

付記: 3つの興味

 本書について、3つのことを付言しておきたい.まず、本書は冒頭で示したように復刊されている.それも増補版となって筑摩から刊行されている.筆者は未読なので書けることはないが、念のために記しておく.つぎに、本書は全体を通じてインディアンの仮面と神話に殆ど内容が割かれている.ただし、その冒頭は私小説的な筆致による、著者と仮面をめぐる懐古である.マックス・エルンスト、アンドレ・ブルトン、ジョルジュ・デュテュイと共に仮面コレクションを手がけたという逸話も面白い.最後に、山口昌男による解説の充実さを紹介しておきたい.山口はツヴェタン・トドロフが編者を務めた『構造主義とは何か?』(ユイス社)所収、ダン・スペルベルによる『仮面の道』批判と解説者なりの応答を寄せている.『仮面の道』の翻訳に至るまでの足取りも述べられていて、なかなか興味深い.



[1] 2018年に筑摩より復刊、ならびに増補されて出版された.クロード・レヴィ=ストロース、山口 昌男、 渡辺守章、 渡辺公三訳『仮面の道』(筑摩書房、2018).


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