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小説

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#短編小説

【小説】誰が青い鳥殺したの

 足音が聞こえる。  私は振り返らなかった。振り返りたくなかった。ただぼんやりと窓際に立って、目の前の光景を眺めていた。手を伸ばすことはしなかった。虚しいだけだ。 「残念だったね」  声が聞こえた。私はようやく振り返る。仄暗い部屋の向こうであんたが私を見ていた。その視線が動いて、私の隣にあるものを捉える。違う、ないものを、捉える。 「逃げたのか」 「さあ」  私は短く答えて視線を戻した。真鍮の鳥籠が窓から差し込む光を反射して鈍く光る。昇ったばかりの朝日は、空の遠くで昨

【小説】駈込み産声

 べつに怒ってない、怒ってないってば、ほんとに。はるこちゃん知ってるじゃん、あたしが全然怒んないの。  ちがうよ優しいわけじゃない。あたし、怒るのがへたくそなんだと思う。通りすがりのおじいさんに杖でぶたれても怒れなかった。きっとおじいさんも大変なんだなあって思うだけ。お姉ちゃんのカレシが浮気してても怒れなかった。男の人って多分そういうもんなんだろうなって思って。友だちが待ち合わせに一時間寝坊したときも、課長のミスであたしの一週間分の仕事のデータが消えたときも、べつに怒ろうな

【小説】Permission to Dance(あるいは黒鳥)

 鍵を回すとかちゃりと音がした。私は留美と顔を見合わせる。にっと、その口角が上がった。扉を開けて、スタジオの中へ足を踏み入れる。真っ暗なそこをスマホのライトを頼りに進んで、お稽古場のドアを開けた。手を伸ばしてぱちりと電気をつける。暗闇が明るく反転した。  そこは、10年前から変わらない私たちのお稽古場だった。 「嘘、変わんない」  留美が声を上げた。靴を脱ぎ捨て、どさりと鞄を投げ出してお稽古場の真ん中へと躍り出る。くるくると回ってきゃいきゃい声を上げている。私も靴を脱ぎ

【小説】沐浴

 失うものの多さに、ときどきめまいがする。  両の腕で大切に抱えていたと思っていたものは、気づけばするりと滑り落ちていた。何も残らない。ここにあった、確かに抱えていたという記憶さえいつか薄れて消えてしまう。かつてはひとつ失うごとに、ほろほろ涙をこぼしたけれど。今はもう失うことに慣れてしまって、ときどき痛みのようなめまいを覚えるだけだ。 「今日は何をなくしたの、ぼうや」  ぴしゃん、と水面をたたく音。僕は水に浮かんだ黒髪が艶めいて揺れる様を眺めながら、つぶやくように言った

【小説】そのコーヒーは恋の味などしなかった

 ぱたりぱたりと、思い出したように雨は窓を叩いた。ほの暗い部屋に水のにおいが漂っている。私は一度席から立ちあがって、壁際まで歩いていって電気のスイッチを二つ同時に押した。ぱっと、研究室が明るく照らされる。振り向くと、ちょっと驚いたような二つの目玉が私を見ていた。すぐにそれは笑みに変わる。 「ああ、ごめんなさい。暗かったよね、ありがとう」 「別に、私はいいんですけど。暗くて困るの先生じゃないですか」  答えて、けれど私は元の席には戻らなかった。なんとなく壁際に立ったまま、先

【小説】夏夢

「どこまで行かれるんです?」  夏風が吹き抜ける。じわりと汗のにじむ炎天下、電車の到着を告げるメロディーががらんどうのホームに鳴り響いた。 「どこまででも」  セーラー服の少女は、大きなスクールバッグを抱えなおして婦人の問いに答える。 「行けるところまで」  ざあっと滑り込んできた電車の音が、少女の声を騒がしくかき消した。  *  何か考えがあったわけじゃない。ただすべて嫌になった。  真っ白なノートの上、私はひたすら益にもならない通分を繰り返す。黒い筆跡がゆ

【小説】藤下先生

「藤下先生が死んだって」 「あら、お気の毒なこと」 「なんでも交通事故だとか」 「あの人ったら車をびゅんびゅん飛ばすのよ、事故を起こして当然だわ」 「それにしても残念だね、いい人だったのに」 「もうびゅんびゅん、本当よ、驚くったら──」 「奥さんは大丈夫かしら」 「彼女は二年前にもお子さんを亡くしてるからなあ」 「あの子は……いや、あのときは大変だった」 「神さまも酷なことをなさるものね」 「いい人だったのに、いや藤下先生のことだが……」  声がひとつ、ふたつと輪になってり