建築家・磯崎新をめぐる二つの書物 『深夜特急』と『磯崎新の都庁』
建築家 磯崎新(1931-2022)
「あなたの代表作はなんですか?」
と問われれば
「私の代表作は次作です」
と答えるのが建築家というものだ、という格言めいたものをどこかで耳にしたことがある。
自分がそれまで残してきた過去の業績にはこだわらず、常に新しい次の作品を目掛けていく。
もし建築家がそういうものであるとすれば、91年という天寿を得た磯崎新はとても幸運だったと言える。
永く生き続け、作品を創りつづけていくことこそが、建築家の使命だ。
実績を作り名を高めてこそ、時間と金のかかる建築界でやっと真価を発揮することができるのである。
とはいえ、私は磯崎新の建築家としての名声はよく知っているものの、実際に彼の建築を見て感動したことはない。
毎日のように見ていた「つくばセンタービル」も、代表作とされる割には拍子抜けするほど駅前の新興開発地の風景に溶け込んでいたし、増築部分を担当したという「日本大学お茶の水校舎」も、とくに目を惹く意匠とは言えない。
ル・コルビュジエの建築五原則のように、すでに現在の建築物の基準となったから魅力が色褪せて見えるのだ、と私を諌めた友人もいたが、茶色の矩形が存在感を示す福岡市の「西日本シティ銀行本店」も、一瞥しただけではその価値がわからなかった。
唯一「北九州市立美術館」には、訪れた価値を感じたのだったが、映画「図書館戦争」で目にした建築物が実際にあった、という実感を超えるものはなく、いわゆる「聖地巡礼」の一種としてしか記憶されなかった。
やはり磯崎新の建築は、海外に所在する巨大なサイズのものでないと本来の価値がわからないものなのかな、今ではそんなふうに結論めいたものを出している。
それなのになぜ、磯崎新という建築家に親愛の情を感じるのだろう。
それは、書物の中にある磯崎の姿に心惹かれるからだ。
非凡な文才を持ち合わせ、著作も多数ある磯崎新だが、彼自身によるものではなく、他の二人の作家によって書かれた姿が、私には印象深く残っている。
それが沢木耕太郎『深夜特急』と平松剛『磯崎新の都庁』である。
わずかな知識ながら、この2つの書籍から磯崎新の姿に少しでも近づいてみたい。
深夜特急 第4集 シルクロードより テヘランでの再会
『深夜特急』はノンフィクション作家の沢木耕太郎が、若き日に1年をかけてユーラシア大陸を横断した一大旅行について描いたものだ。
「バックパッカーのバイブル」と称されることもあるが、この作品を読むと誰もが、日常を抜け出す旅へと誘われる。
東アジアの一大都市香港から、東南アジアを周り、インド、シルクロードを経てヨーロッパへ至り、ユーラシア大陸の西端であるポルトガル・サグレス岬まで。
そんな長大な道程を辿る『深夜特急』で沢木耕太郎が出会う人物の中でも、磯崎新は独特の存在感を放つ。
磯崎がイランにいるという知らせを沢木はアフガニスタン・カブールの日本大使館で受け取った。
磯崎の帰国は迫っている。彼がテヘランを後にする前に会うため、旅路を急がなければならない。
前へ、前へ。
数カ月に及んだ長いインド滞在から、シルクロードを一路、西へ。前へと進む推進力。アクセルが駆動する。
沢木は中東の一大都市・テヘランを目指して進む。
すでに気鋭の建築家として世に知られていた磯崎新と、まだ無名のライターであった沢木耕太郎とは、ハワイで知り合い親しくなった。
旅立つ前に東京でささやかな壮行会を開いてくれた磯崎夫妻は沢木にとって恩人だった。
それならば、会いに行かないわけにはいかない。それに、二人に会うことができれば、豪勢な食事にありつくことができるはずだからだ。
磯崎新と会うことで。高級な「タダメシ」にありつけることを期待していたことを臆面もなく沢木が書いているのが面白い。
しかし、「磯崎夫妻がテヘランにいる」という以上の情報を沢木は持っていなかった。
それでも、何とかなりそうな気がした。
数ヶ月間東南アジア、南アジアを周った旅で、世の中何とかなるもんだ、という感覚が沢木に芽生え始めていた。
テヘランに着いた沢木は、日本人が泊まりそうなホテルに片っ端から電話をかけ、「イソザキ」という人物がチェックインしていないかを確かめてゆく。
数度の失敗のあと、幸運にも沢木は磯崎の滞在するホテルを探り当てる。
これは助かった、ようやく豪華な一食にありつける。
現金な話だが、これが沢木の正直な感慨だった。
貧乏旅行の途上である。そんなふうに思ったとしても仕方がない。
もちろん磯崎夫妻もそのことは知り抜いていて、シェラトン・ホテルのダイニングルームで豪勢な食事をご馳走してくれた。
「さあ、たんとお上がりなさいね」
と声を掛けてくれる磯崎夫人とは、彫刻家の宮脇愛子である。
久々の再会に、3人の話は大いに弾んだ。
旅行先では、日本語で込み入った話を出来る相手はなかなかいない。
それだけに、磯崎の話は沢木の心に深く刻み込まれるものだった。
磯崎がこの旅で考えてみたかったことは、「偶像」についてということだったという。
世界の多くの文化、例えばキリスト教にはイエス像への崇拝があり、マリア信仰もある。仏教において仏像の存在は切っても切れないものだ。
それに対して、イスラムは偶像崇拝を禁じている。
そんなことが可能なのか。
偶像拒否の精神、偶像不在の建築とはどういうものなのか、というのが磯崎の問いだった。
そして磯崎は、シルクロードの途上でマザリシャリフへ滞在したときの話を沢木に語る。
テヘランでの磯崎夫妻との再会は、沢木の旅に確かな航跡を残した。
若きライターと、気鋭の建築家との交わり。
ともにまだ見ぬ何かを追い求め、心を動かす何かを探している。
旅は常に途上にあり、終わりはない。
そして沢木は磯崎夫人から託された手紙を手に、シルクロードをさらに西へ、トルコ・アンカラへと向かう。
磯崎新は、『深夜特急』の結節点として重要な役割を果たしている。
平松剛『磯崎新の都庁 ―戦後日本最大のコンペ』
もう一冊、磯崎新に関する書籍を紹介したい。
こちらは建築家としての磯崎新に正面から向き合ったものだ。
さきに国内ではなかなか磯崎新の真髄に触れられないのではないか、と書いたが、東京のど真ん中で磯崎が巨大建築を手掛ける可能性があった。
他でもない、新宿副都心の東京都庁舎である。
今では当然のことながら、東京都庁と言えば高さ243m、完成当時日本一の高さを誇った丹下健三設計の建物を思い浮かべるだろうが、他の建築家が手掛け、全く別のものになる可能性があった。
完成の5年前、1986年に都庁の設計を巡って「新都庁舎コンペ」なるコンペティションが開催されていたのである。
参加者には、超高層ビルの建築実績が豊富な日建設計や日本設計といった大手建築事務所とともに、丹下健三、磯崎新の師弟の名があった。
磯崎新は若き日に丹下健三事務所で働いていた経験があり、この新都庁コンペは図らずも師弟対決となったわけだが、その顛末について詳細に書き記してあるのが、平松剛『磯崎新の都庁』である。
西新宿にあった旧淀橋浄水場跡地の再開発事業で、わりあい豊富な建設用地が確保できたことから、当然そこに超高層ビルを建設するというのが大方の見立てであり、コンペの参加者たちもその流れで建築案を構成していった。
しかし、ただ一人磯崎新だけは、高さ100Mに満たない中層ビルを提案し、コンペのなかでも異彩を放つ設計案を披露した。
丹下健三が、ノートルダム大聖堂を模したと言われるように、高層建築物のシンボル性を強く打ち出したのに対し、磯崎新はむしろ建築物の内部の空間性に重きを置いた。
この頃の磯崎はフランスの思想家ジル・ドゥルーズに影響を受けて「流体的生成」なる概念を打ち出していた。
上へ上へひと方向をだけを向いて伸びようとする高層ビルではなく、横長の矩形の巨大空間のなかで、人々が多様な使い方をできるようなデザインを目指していたのだと捉えれば多少は分かりやすい。
幾多の超高層ビルがすでに林立していた新宿副都心に、もう一つ同じようなビルを建てたって仕様がない。
高みを目指し垂直方向へ伸びようとする建築へのアンチテーゼとして、水平方向への意識を磯崎は打ち出した。
その規模は他に類を見ないもので、現在の第一本庁舎と第二本庁舎の区画にまたがる横型の巨大な矩形である。
もちろん磯崎案の都庁舎は実現することはなかった。
だが、幻の建築は、不思議な魅力を放つ。
もっとも有名なところではル・コルビジェの「ソヴィエト・パレス」がそれであり、大きな話題になったザハ・ハティドの「新国立競技場」の設計案も記憶に新しい。
実現しなかった建築、「アンビルド」に魅力があるのは、「ほんとうにこの案が実現したらどのように感じただろう」というワクワクするような期待が、その期待のままに保存されるからであろう。
建築というのはやはり絵画や彫刻とは違う、独特の魅力を持った芸術である。
空間を占め、サイズがある。
人間の身体と比較したときに、眺めるだけではなく、自分の身体をそこに置いてみる、という味わい方ができる。
もちろん住宅建築でもそうなのだが、巨大建築ともなればなおさらである。
磯崎はあの巨大な矩形の建築の中に、高さ約90メートル、長さ約300メートルもの吹き抜け構造を設けた。
都庁を外部から閉ざされた建物ではなく、内部から開かれた「シティホール」としての機能を持たせたいという思いからであった。
結局磯崎の提唱した中層の建築案はコンペでは見向きもされず、丹下健三の超高層ビルが勝利した。
もちろん現在の都庁舎のデザインは東京のアイコンになりうるものであるし、地上202m・45階にある展望室は無料で開放され、都民だけでなく外国人旅行者も集まる観光スポットになっているなど一定の役割を果たしている。
だが、磯崎新の都庁がもし建っていたら、どんな空間になっていただろうか。
今よりもはるかに都庁は市民に向かって開かれたものとなり、内部の空間は人々が自由に行き交う市民の憩いの場として誰もが出入りするようになっていたのではないか。
磯崎の描いた新都庁舎のデザインを見ていると、ついついそんな夢想をしてしまう。
【余談】
これは完全なる余談だが、この新都庁建設予定地は当時「新宿都有3号地」と呼ばれていた。
まさに新都庁コンペが行われていた1986年、絶頂期にあったBOØWYがここを会場にして豪雨の中で野外ライブを敢行している。
映像を見ると、確かに西新宿の超高層ビル群に囲まれた会場であることがわかる。
かつて丸の内にあった旧都庁舎は今では東京国際フォーラムに建て替わり、新宿都有3号地には新都庁舎が建った。
もちろん東京国際フォーラムも優れた複合施設であり、コンサートホールとしての機能は申し分ないが、もし都有3号地がライブ会場として残っていたら、新宿副都心ももっと足を運びたくなる街であっただろうな、と思う。