うつ病・パニック症…発症するまで
発症の経緯
うつ病とパニック症を患って16年…。
精神疾患を発症する要因は1つではない。
発症するまでの様々な些細な出来事が複雑に絡み合って発症に至る。
なので発症の形は人それぞれ…十人十色。
それでも「辛い」という一点では共通するのではないだろうか。
教員として働き始めて12年を経た頃…
「危ないかもしれない」と思い始めた。
…いや、思い始めたのはもう少し前。
同業者だった叔父がうつ病と摂食障害を患い闘った末、自死を選択した時。
「次は私かもしれない」と漠然と思った。
叔父の変わり果てた顔を前に、自身の未来を見たような気がして、生唾を飲み込んだ記憶がある。
自覚はなかったが、それ程、自分自身を追い込んでいた時期だった。
業務内容の特殊性
私が長く携わってきた特別支援教育…。
これはいくつかの種類に業務内容が分かれている。
特別支援学級の担任
通級指導教室の担当
主にこの2つに分かれる。
私はどちらも経験しているが、特に長く関わったのが「通級指導教室」だ。
自治体によって運営の仕方が異なるが、小学校の教員でありながら、下は1歳6ヶ月健診から支援を開始し、上は中学3年生まで、週に1回の個別支援と保護者面談を行う。
その特殊性は、幼児から中学生までを対象とすること、様々な障害に対応すること、加えて増加してきたのが、披虐待児と不登校児の支援である。通級指導教室は発達支援センターを兼ねていることも多く、子どもに関わる多様な知識と支援が求められる。当然、保護者支援は肝要であり、丁寧且つ繊細な対応が求められ1つの間違いも許されない。
どれだけ勉強しても臨床を重ねても
私の能力では
「とても追い付かない…」
毎日が緊張の連続だった。
20代中盤から関わり始めた特別支援教育。
学ぶことの多さとスクランブル発進が常にあることで、休日、深夜、早朝問わず、呼び出されれば迅速に駆け付ける緊張感の高い業務に消耗が著しかった。
眠れなくなる、食べられなくなる、体重が落ちていく…いずれも過覚醒のため気付くことさえなかった。
唯一おかしい…と感じたのは
電話の呼び出し音と玄関先のチャイム音、関係機関の担当者が乗る公用車のエンジン音に動悸と過呼吸が止まらなくなったこと。
ようやく心療内科の門を叩き、うつ病とパニック症の診断が降り、主治医からは休職を強く勧められた。しかし、視野の狭くなっていた私は毎週通院することを条件に半年以上、同じペースで仕事を続けた。
虐待というトリガー
丁度その頃、私は対応が難しい案件を複数抱えていた。
その中の1つがある虐待家庭の支援だった。
連日の虐待有無の確認、保護者面談、関係機関への連絡調整、児童相談所や児童精神外来への付き添い等…対応を続ける中、とうとう事件化してしまった(守秘義務のため詳細は控える)。
私の中で何かがパキッと折れる音がした。
それでも、30人を越える通級児がいるため変わることなく仕事を続けた。当然、事件に発展した家族の支援も継続しながら…。
24時間365日…休まることのない日々。
ある日突然のことだった。
通勤途中で初めて大きなパニック発作を起こした。運転中の車を停め職場に連絡することで精一杯。その後の記憶はほとんどない。
そのまま病院へ直行し本格的にドクターストップがかかった。私の許可を得て、主治医から学校長へ直接休職させる旨の連絡が入ったはずだ。
診断書は教頭が受け取って教育委員会に提出し、私はこの日以来、出勤することができなくなり休職となった。
恥ずかしながら、この頃のことはほぼ覚えていない。
「虐待」に対して私は過剰な使命感を持つ。
それはおそらく自身の経験から放って置けなくなるのだろう…今ならそう思う。
ただ、うつ病を患った当時、私はまだその事に…その奥にある深層心理に…気付いていなかった。
何故なら…私は
18歳までの、高校生までの記憶が
つい最近まで…なかったからだ。