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ゆがめられる教育~その2~

  前回のNOTEの記事(「ゆがめられる教育」)で、わがマチが学力偏重の教育行政を推し進めてきているという現状が、2014年の教育委員会制度改革に端を発しているのではないかということを書いた。
  教育現場の状況をみると、学力テストの数値の向上を目的にする教育が行政によって押し付けられ、それが当たり前になってきており、これは行政の教育への不当な介入であると言わざるを得ない。

 では、わがマチのようになぜ政治が教育に介入するという状況が生まれてきているのか。前回のNOTEの記事同様、今回も『崩壊する日本の公教育 鈴木大裕 集英社新書(2024)』から学んだことを中心に書いてみたいと思う。

 その転機となった事件がある。2006年の教育基本法の改定である。改定前の旧教育基本法では、戦前の教育勅語からの脱却がめざされていた。教育勅語では教育は国家支配のための道具であり、戦後、「教育は国家から施されるものではなく、すべての国民には自由に教育を受ける権利がある」という理念で制定されたのが改定前の教育基本法であった。

 ところが2006年の教育基本法改定ではこの理念が大きく転換される。



 (改定前基本法第10条)
 「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負
        って行われるべきものである」
 (改定後基本法第16条)
 「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定める
       ところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体
      との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適切に行われなけれ
      ばならない」

鈴木著「崩壊する日本の公教育」


 2つの文を比べると改定後の16条で「旧基本法の『国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである』」の部分が削除されている。
 鈴木氏は、前述の著書で


「教育における責任は、あくまでも教育が行われる環境を整える教育条件整備に専念することであり、『何を教えるか』などの教育内容には立ち入らないという制約的意味があった」とし、「国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきもの」という部分が削除されたことにより、教育内容への介入を許す根拠となった。


という趣旨の内容を述べている。

 改定前の教育基本法に記されていた「国民全体に対し、直接に責任を負って行われるべきものである」という文言の削除がなぜそれほどまでに重大なことなのか。

 この規定は、「教育は子どもの内面的価値に深くかかわる営みだけに、”教育者“は、政府や教育委員会を通して”間接的に“責任を負うのではなく、子ども、保護者、国民に”直接に責任“を負って携わるものの、良心と自主性に基づいて教育を行う」ということを言い表していると言われている。

 つまり、教師は、「国から(あるいは教育委員会から)言われたからこういう内容を指導しています」というのではなく、「何を教えるか」などの教育内容は主体的かつ創造的に考え、指導することができるということなのだ。

 教育基本法の改定により、国は教育の”内容にまで”安易に口を出すことができるようになってしまった。
 なぜそうしたことが起こってきたのか。その背景についてはまた後日に譲りたい。

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