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素材で勝負ができるような毎日ではない


2024年10月25日(金)朝の6:00になりました。

コールドシャワー生活をしていますが、意識はとても低いです。

どうも、高倉大希です。




思っていることをそのまま書いているかというと、そんなことはありません。

何かがあったからそれについて書いているかというと、そんなこともありません。


思ったことも、あったことも、すべては素材のひとつです。

素材で勝負ができるような、立派な毎日ではありません。


だから、書いていることを真に受けられるとすこし困ってしまいます。

目に見えている文章は、編集を経た結果です。


僕らが話をするのを聞いて、どうしてそんなおもしろい経験ばかりしているのだろうと、一般の人は思うかもしれない。けれど、それは違う。僕らだって、普通の人と同じように平凡な普通の毎日を生きている。その日常の中から、素材を見つけ出し、料理しているだけなのだ。

島田紳助、松本人志(2003)「哲学」幻冬舎


よほど、刺激的な生活を送っているのだろう。

毎日書いていると、ときどきこんな勘違いをされてしまいます。


朝起きて、仕事に行って、帰ってきて、寝る。

なんの変哲もない、地味で平凡な毎日です。


何ならむしろ、ひまを持て余しているくらいです。

ひまじゃなきゃ、毎朝6:00に文章なんて書きません。


私たちの日常的な推論が、形式よりも内容に依存することは、ここであらためて強調きておいたほうがよいと思われる。特に、論理的に考えたほうがよいときに、内容によって論理的なおかしさに気づかないで、勘違いをしたり、人に言いくるめられてしまうことは少なくない。

市川伸一(1997)「考えることの科学」中央公論新社


たしかに、意図してイベントを発生させることは可能です。

生活を刺激的なものにするための努力も、できなくはありません。


ただ、そこには際限がありません。

平凡な日常との差分に、悩み続けねばならなくなります。


だからどちらかというと、目の前の素材を料理する腕を磨きたいなと思います。

料理の腕次第では、あらゆる素材がおいしくなります。


先生がおっしゃった、「人間というのは物語をつくって生きている」、あるいは「人間というのは物語らないとわからない」ということ。ほんとうにそうだと思いましたね。

河合隼雄、柳田邦男(2013)「心の深みへ」新潮社


冒頭の言葉に合わせるならば、編集というやつです。

結局は編集じゃないかと、つくづくそう思わされます。


「どれだけ嫌なことがあっても、ラジオで話せるからラッキーです」

とある芸人さんが、こんなことを話していました。


編集ができれば、毎日の意味が変わります。

アンラッキーかどうかを決めるのは、できごとそのものではありません。






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