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ツッコミがいない世界


2025年2月14日(金)朝の6:00になりました。

遠慮なく、チョコレートをください。

どうも、高倉大希です。




村上春樹の作品は、要約すると何もなくなる。

彼の作品を読むたびに、いつもそう思います。


べつに何も起こっていないのに、数ページが費やされます。

しかもそんな文章を、ものの見事にすらすらと読まされてしまうのです。


なぜあんなにも、すらすらと読まされるのか。

いまだによく、わかりません。


「それもとびっきり上手く踊るんだ。みんなが感心するくらいに。そうすればおいらもあんたのことを、手伝ってあげられるかもしれない。だから踊るんだよ。音楽の続く限り」オドルンダヨ。オンガクノツヅクカギリ。

村上春樹(2004)『ダンス・ダンス・ダンス 上』講談社


登場人物たちの会話は、極めて独特です。

そんな会話をしている奴など現実にはいないだろう、と毎回のように思います。


Aが独特な発言をして、Bが独特な回答をする。

こうして会話劇が、前(なのかもよくわからない方向)に進んでいくわけです。


そんな会話を耳にして、「変だろ」とツッコむ人物は誰ひとりと出てきません。

登場人物たちにとっては、そんな独特な会話がいつもどおりのやりとりなのです。


「どれくらい私のこと好き?」と緑が訊いた。「世界中のジャングルの虎がみんな溶けてバターになってしまうくらい好きだ」と僕は言った。

村上春樹(2004)『ノルウェイの森』講談社


そう考えると、小林賢太郎が書くラーメンズのコントも同じです。

坂元裕二が書く、ドラマの脚本も同じです。


独特な会話に対して、ツッコむ人が出てきません。

そこで行われる会話の異様さが、その世界では受け入れられているわけです。


だからこそ、惹かれるのだろうなと思います。

あの世界に入ってしまえば、自分も受け入れてもらえるような気がするのです。


「特別なもの」を生み出そうとするとき、それがどんなふうに特別なのかを「普通」という視点から見極める必要があります。「特別」と「普通」、定規を何度も持ち変えるのです。そのために自分の中の普通さを死守するのです。

小林賢太郎(2014)「僕がコントや演劇のために考えていること」幻冬舎


ふたりで話すことが、好きです。

ふたりなら、多数派が生まれないからです。


仮に相手が変ならば、自動的に自分も変だということになります。

仮に相手が異様ならば、自動的に自分も異様だということになります。


本来は、そうだよなと思います。

変で異様が、普通です。






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高倉大希
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