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失われた待ち時間を求めて
2023年9月4日(月)朝の6:00になりました。
鬱くしき人々よ、0.5生懸命に勝て。
どうも、高倉大希です。
新刊の発売日を、楽しみに待つ。
新曲の初オンエアを、楽しみに待つ。
ドラマのつづきを、楽しみに待つ。
あの人に会える日を、楽しみに待つ。
楽しみに待てるものがある。
これだけで、明日を生きることができます。
けっきょく、自分の世界というのは「普段なにを見ているか」や「普段誰と会っているか」によって決まってくるものだと思います。
近年は、そんな楽しみに待つ時間が失われつつあります。
あらゆるものが、簡単に手に入るようになったからです。
動画配信サイトを開けば、1話から最終話までを一気に観ることができます。
漫画喫茶に行けば、1巻から最終巻までを一気に読むことができます。
ストリーミング再生を利用すれば、新曲をすぐに聴くことができます。
何度かクリックするだけで、翌日には荷物が届きます。
文明が進歩するということは、自分の頭で考えなくても様々なことが出来てしまうということです。
ここで終わらせたら、つぎを楽しみに待ってくれるだろう。
本来ならばつくり手も、待つ時間を想定して展開を考えていたはずです。
ところが、前述のような受け取られ方をすると、そこに待ち時間がありません。
表現に含まれていた待ち時間は、はじめからなかったことになってしまいます。
前に進むことが目的化し、表現がただの情報として処理されます。
つくり手の視点に立つと、これほどに残酷なことはありません。
世の中には秩序ないし規則性があって、その規則性をあてにできると思い込んでいる状態が信頼だという定義です。
そういう意味でも、定期的に更新されるコンテンツには大きな意義があります。
だれかの楽しみに待つ時間を、つくることができるからです。
このnoteを毎朝6:00に更新している理由のひとつも、ここにあります。
毎朝更新される文章を読むことを、楽しみに待っている自分がいます。
読みたいことを、書けばいい。
そんな文章が、だれかの楽しみに待つ時間をもつくることができているのなら、それほどうれしいことはありません。
楽しみに待てるものがある。
これだけで、明日を生きることができます。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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