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ライブでは手をあげたくない


2024年7月26日(金)朝の6:00になりました。

俺たちに関わるな!ライブにも来るな!レコードも買うな!

どうも、高倉大希です。




「手をあげろ!」

ステージの上から、MCがこう叫びます。


「うおおおお!」と盛り上がり、自分もまわりに合わせて高々と手をあげます。

ところが数秒経ったら、なんだか恥ずかしい気持ちになります。


無理をして手をあげている自分を、メタ認知することになるからです。

手なんてべつに、あげたいと思っちゃいないのです。


「みんな違っていい」は対立を覚悟することであって、「心をひとつに」はそれとは真逆の考え方です。繰り返しになりますが、多様性を心の教育で解決できると信じている教育は乱暴すぎます。共通の目的を探しだす、粘り強い対話の力こそ必要だと思っています。

苫野一徳、工藤勇一(2022)「子どもたちに民主主義を教えよう」あさま社


だから、ライブはすこしだけ苦手です。

手をあげることができない自分が悪いのだと、思い込んでしまうからです。


隣の人は手をあげているのに、自分があげないのはおかしいのかもしれない。

みんな手をあげているのに、自分だけあげないと輪を乱してしまうかもしれない。


どうしても、こんなふうに考えてしまいます。

音楽自体は大好きなのに、ライブだけはどうしても好きになれません。


強制的に展開される「歌合戦」の空間は、曲の選定や順番、聴き手としてのリアクションなどに暗黙のコードが走ります。その見えない空気のような慣習が抑圧的で、本来は創造的かつ主体的な表現行為である「歌うこと」が、儀礼的な「空気の読み合い」になりさがる。

安斎勇樹(2024)『キャリア目標を捨て、「探究テーマ」を持とう』note


とあるアーティストが、ライブ中にこんなことを言ってくれました。

「棒立ちでもいい、つまらなかったら帰ってくれてもいい」


この言葉を耳にした瞬間に、随分と救われました。

数年経ったいまでも自信をもって、このアーティストのファンだと言い切れます。


そのライブは妙な邪念を抜きにして、音楽そのものを楽しむことができました。

手をあげなくてもいいという安心感は、とてつもなく大きなものでした。


温かさを欲するか?窓の近くに寄るな。窓を開けるな。問題はこの忠告に従い窓を密閉したとすれば、なかの空気はすぐに淀み、最後には息が詰まってしまうということである。

ジグムント・バウマン(2017)「コミュニティ 安全と自由の戦場」筑摩書房


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棒立ちでもいい。

つまらなかったら帰ってくれてもいい。


いつかは誰かに、そう言える大人になりたいなと思います。

みんなが手をあげているからといって、必ずしも手をあげなきゃいけないわけではありません。






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