「何をしたか」ではなく「どんな変化を生んだか」で語らなければならないことに気がついた
2023年1月28日(土)朝の6:00になりました。
会社は学校じゃねぇんだよ。どうも、高倉大希です。
かつては「何をしたか」を一生懸命に語っていました。
「週に1冊ずつ本を読みます!」と宣言して、感想をシェアしてみたり、
「こんな実践をしました!」と、変わった取り組みをシェアしてみたり。
そうすると、誰かが「がんばっているね!」と褒めてくれました。
それを聞いて、「よし、もっとがんばるぞ!」と思っていました。
ところが、ある日、いつものように一生懸命「何をしたか」を語っていると、上司からこんなことを言われました。
「それで何が変わったの?」
この質問に対して、何も答えることができませんでした。
なぜなら、「何をしたか」そのものに満足してしまっていたからです。
極端な話、成果が求められる仕事において、個人が「何をしたか」なんて知ったこっちゃありません。
若手が週に1冊の本を読んだ。
「だからどうした?」という話です。
これは決して、がんばっている人に対する批判でも嫌味でもありません。
極めて純粋な「だからどうした?」という疑問です。
その行為によって、どんな変化を生んだか。
その変化が、どう成果に繋がったのか。
ここを語ることができなければ、どうしようもないのです。
上記のような認識の過ちに気がつくことももちろん大事なのですが、何気に怖いのが「がんばっているね!」というまわりの人の優しい声です。
このような声をかけてくれる人たちに悪意はありません。
悪意どころか、がんばりを認めてくれているただの「よい人」です。
しかし、このような「よい人」が、若手の勘違いを促進させてしまう可能性を秘めています。
組織にとっては「だからどうした?」というがんばりに、貴重な時間を費やすことになってしまいます。
もちろん、的を外しつづけることで、的の輪郭が捉えられるようになっていくところもあります。
ただ、それがわかるのは「的を外している」という自覚があるときです。
もしかすると、あなたの優しさから生まれた「がんばっているね!」が、誰かの的にモザイクをかけてしまっているかもしれません。