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「共感できないけどおもしろい」はいくらでもあるんだぜ


2024年12月8日(日)朝の6:00になりました。

本日の18:00に、新しい「お知らせ」を投稿します。

どうも、高倉大希です。




登場人物に共感するということが、ほとんどありません。

気持ちは想像できるのですが、自分と重なることはないわけです。


だからと言って、その作品がつまらないとは思いません。

「共感できないけどおもしろい」は、いくらでもあるからです。


どうにも、共感というものが重要視されすぎているような気がします。

共感できるかどうかと、おもしろいかどうかはイコールではありません。


よく言われたことは、「フム、フム、と納得しながら読んでますよ」と言う類のほめ言葉であった。ほめられると嬉しくて、よい気になって書き続けてきたが、よく考えてみると、その人が「フム、フム」とうなずくのは、もともと自分の知っていたことが書いてあるのだ、ということに気づいたのである。

河合隼雄(1998)「こころの処方箋」新潮社


日々文章を書いていますが、べつに共感してほしいとは思いません。

理解してほしいとも、同意してほしいとも、思ったことはありません。


読んでくれた人が、考えはじめるきっかけになったらいいな。

強いて言葉にするのなら、読み手に思うことはこれくらいです。


共感できておもしろい。

それと同じくらいに、「違っていておもしろい」が存在しているはずなのです。


最終的に、聴き手と語り手の両方が「こんな話、するつもりじゃなかったのに」と思えるような場所にまでたどり着く取材が、ぼくの理想だ。あとはライターの自分が、うまくまとめてくれるだろう。

古賀史健(2021)「取材・執筆・推敲 書く人の教科書」ダイヤモンド社


「とても、勉強になりました」

「思っていたことを、言語化してくれてありがとうございます」


ときどき、こんなコメントをいただくことがあります。

ありがたい限りなのですが、いつも困ってしまいます。


せっかくなのだから、あなたの考えも聞かせてくれよ。

返す言葉がなさすぎて、ついついそう思ってしまいます。


意見が違うのは当たり前で、だからこそ感情の問題にしないで、互いの着地点を見つけるのが対話なんですよね。(中略)対立することが問題なのではなく、対立してからどうするのか、というところが大事なんですけどね。

工藤勇一、鴻上尚史(2022)「学校ってなんだ!日本の教育はなぜ息苦しいのか」講談社


相手の気持ちを想像することと、共感することもよく混同しがちです。

相手の気持ちを想像することは大切ですが、べつに共感できなくても構いません。


なんならむしろ、共感できない方がおもしろいのではないかとすら思います。

互いの違いをすり合わせることで、新たな発見が得られるかもしれないからです。


「想像できるけど共感できない」は、いくらでもあるんだぜ。

「共感できないけどおもしろい」も、いくらでもあるんだぜ。






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高倉大希
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