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「共感できないけどおもしろい」はいくらでもあるんだぜ
2024年12月8日(日)朝の6:00になりました。
本日の18:00に、新しい「お知らせ」を投稿します。
どうも、高倉大希です。
登場人物に共感するということが、ほとんどありません。
気持ちは想像できるのですが、自分と重なることはないわけです。
だからと言って、その作品がつまらないとは思いません。
「共感できないけどおもしろい」は、いくらでもあるからです。
どうにも、共感というものが重要視されすぎているような気がします。
共感できるかどうかと、おもしろいかどうかはイコールではありません。
よく言われたことは、「フム、フム、と納得しながら読んでますよ」と言う類のほめ言葉であった。ほめられると嬉しくて、よい気になって書き続けてきたが、よく考えてみると、その人が「フム、フム」とうなずくのは、もともと自分の知っていたことが書いてあるのだ、ということに気づいたのである。
日々文章を書いていますが、べつに共感してほしいとは思いません。
理解してほしいとも、同意してほしいとも、思ったことはありません。
読んでくれた人が、考えはじめるきっかけになったらいいな。
強いて言葉にするのなら、読み手に思うことはこれくらいです。
共感できておもしろい。
それと同じくらいに、「違っていておもしろい」が存在しているはずなのです。
最終的に、聴き手と語り手の両方が「こんな話、するつもりじゃなかったのに」と思えるような場所にまでたどり着く取材が、ぼくの理想だ。あとはライターの自分が、うまくまとめてくれるだろう。
「とても、勉強になりました」
「思っていたことを、言語化してくれてありがとうございます」
ときどき、こんなコメントをいただくことがあります。
ありがたい限りなのですが、いつも困ってしまいます。
せっかくなのだから、あなたの考えも聞かせてくれよ。
返す言葉がなさすぎて、ついついそう思ってしまいます。
意見が違うのは当たり前で、だからこそ感情の問題にしないで、互いの着地点を見つけるのが対話なんですよね。(中略)対立することが問題なのではなく、対立してからどうするのか、というところが大事なんですけどね。
相手の気持ちを想像することと、共感することもよく混同しがちです。
相手の気持ちを想像することは大切ですが、べつに共感できなくても構いません。
なんならむしろ、共感できない方がおもしろいのではないかとすら思います。
互いの違いをすり合わせることで、新たな発見が得られるかもしれないからです。
「想像できるけど共感できない」は、いくらでもあるんだぜ。
「共感できないけどおもしろい」も、いくらでもあるんだぜ。
毎朝6時に更新します。読みましょう。 https://t.co/rAu7K1rUO8
— 高倉大希|インク (@firesign_ink) January 1, 2023
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