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人前だと写真が撮れない


2024年11月7日(木)朝の6:00になりました。

鍋やフライパンを、冷蔵庫に入れなくてもよい季節になりました。

どうも、高倉大希です。




人前では恥ずかしくて、写真を撮ることができません。

「こいつはこういうのが好きなのね」が、もろにバレてしまうからです。


場合によっては、相手の足をわざわざ止めることになります。

「待ってもらってまで撮りたいか?」と、ついつい思ってしまうのです。


だから、いつだってカメラを持ってはいるけれど。

誰かと一緒にいるときに、写真を撮ることはありません。


どうしようもないことを好きなように書く。その瞬間は純度の高い阿呆になれる。それを繰り返すと、自分が阿呆の膜に覆われていく。阿呆の膜に守護されている時だけは恥ずかしいことから解放される。

又吉直樹(2023)「月と散文」KADOKAWA


自分だけが、知っている。

そんな特別感がほしいという気持ちも、どこかにはあるのかもしれません。


「ああ、あのときに撮った写真ね」と、思われたくないわけです。

自分だけが知っている、自分だけの写真です。


そんなことを言っているものだから、写真がなくて困ります。

フォルダを遡ってみても、誰かと共有できる写真がまったくもってありません。


写真はそこに存在している世界じゃなくて、撮る人が『こうあってほしい』と思う文学の世界だから、国民性みたいなものも見えてくるんだ。

ワタナベアニ(2024)「カメラは、撮る人を写しているんだ。」ダイヤモンド社


「いやいや、写真なんて気軽に撮ってしまえばいいじゃない」

そんなふうに、言いたくなる気持ちもわかります。


「いやいや、べつに誰も気にしちゃいないよ」

そんなふうに、言いたくなる気持ちもわかります。


わかりはするのですが、やっぱり恥ずかしいのです。

こればかりは、100%自意識です。


生きることは、ある意味で何かをさらけ出しているわけで、恥ずかしいことでしょう。生きることじたい、恥さらしみたいなもんです。でも、それを恥ずかしいと決めつけてしまったら、窒息しちゃいますよね。絵を描くことも、「さらけ出しながら生きていく」というのと同じこと。それでいいんじゃないかな。

横尾忠則(2021)「YOKOO LIFE」ほぼ日


だから、カメラを構えている姿を見たことがある人はかなりレアです。

よほど気を許しているか、よほどどうでもいいと思っているかのどちらかです。


Instagram が好きになれない理由は、これです。

facebook が好きになれない理由も、これです。


これからも、撮り続けます。

自分だけが知っている、自分だけの写真です。







サポートしたあなたには幸せが訪れます。