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「僕の母」①
【はじめに】
令和7年1月9日
母は骨になった。
いつかこんな日が来ることを、僕は幼い頃からずっと意識してきた。
僕の母は生まれつき重たい心臓病を患っており、生まれた時点でお医者様から「3歳まで生きられるかどうかわからない」とまで言われていたそうだ。
しかし母はそんな逆境を力強く跳ね除けて64年間の人生を生き抜いた。
そんな母は身体の面だけでも生きるのに大変なハンデを背負っていたのに
僕を産んでくれたころには統合失調症や解離性や不安神経症など数々の精神疾患も患ってしまっており、きっともうこの時点でボロボロの状態だった。
だから実は僕は、生まれて以来一度も「万全な状態の母」を見たことがなかったことになる。
昨日のお別れ会にあたって父が整理してくれた母の写真を見ると、そこには明るい笑顔を浮かべる母の姿が何十枚と輝いていた。
傷だらけの心身を引き摺りながらも常に絶やさず笑顔でいた母は、きっと幸せだったろうし、そしてなにより心底根性のある人だったのであろう。
【ぼくの幼少期】
他のエッセイで既に書いたことかもしれないが、僕は保育園には数えるほどしか行っていないし、小学校も2〜4年の期間は殆ど行っていない。
当時の言葉で表現するなら『登校拒否児童』というヤツだった。
5年生になってからやっとどうにか及第点の登校日数になれたというとこだろう。
なぜ学校に行けなかったのかというと、前述したように母は複数の精神疾患持ちであり、極度の心配性であったため、僕が学校にいくことに対して「殺されてしまうのではないか」「登校途中で車に跳ねられたり、不審者に連れ去られて殺されてしまうのではないか」という不安を抱き、必死になって僕の登校を制止し家に匿った。
したがって、遊びに関しても300メートル圏内くらいの極々近所に面する家の子としか遊びの許可は降りなかったし、家庭内においても映画館やディズニーランドなど、多くの家族が体験するような遊び場にいったいことはなかった。
たまに僕が制止を降りきって学校へいくと、パジャマ姿のままクラスへ訪れた母が
僕を強制的に連れて帰るようなことも何度かあったし、その時の光景や僕らを気味悪がり冷たい視線を送ってくる周囲の人々の様子を今でもはっきりと覚えている。
そんなことを繰り返しているわけだから、当然学校にいけば激しくいじめられる。
同時に、遊びや体験の少なさは大人になっても影響を及ぼし、非常識人としての位置付けを強固なものにする。
それでも29歳になる今まで生きてこられたのは、母譲りの逞しさと、父譲りの論理性と、そして他者の言葉を借りていうのであれば「カリスマ性」というやつだろう。
学校ではいじめという辛い体験があったが、家の中が安全かと言えばそうでもない。
幼い頃は父と母が僕の教育に関する方向性を巡って怒鳴り合いやの大喧嘩をする二人を取り持つためひたすら阿呆なことや空気を読めないふりをしてどうにか場を慰めようとしたり父のいないところで涙する母を励ましたりしていた。
とはいえ解離性症状が出たとき僕に対して「お前は誰だ」と母が悍ましい表情で問い詰めてきた時だけは本当に怖くて剽軽に振る舞うことはできなかった。
前述した「カリスマ性」というやつはおそらくこの辺りの生育歴に由来するものだろう。
ヤングケアラーのような幼少期を過ごした者は、必然的にメタ認知やエンパシーが発達しやすくなりやすい。
それが僕の持つAD/HDと組み合わさることで、空間を調和させつつ自らの特異性を存分に発揮するという特殊な能力を生み出したのだと思っている。
そうやって今見ると相当に過酷な幼少期を過ごした僕は
「普通」というものが大嫌いになり、それを心底羨むようになり
当たり前の生活習慣や家族の団欒や学校で友達と過ごすことなどを経験してきた
普通の人たちの無自覚な暴力に勝手に傷つく人間となった。
しかし、そんなことは周りの人たちからしたら知ったことではない。
「勝手に傷ついておけ」という話である。
無論、日常生活でいちいち僻むような反応を示すことはないし、表情にも出さずに
さも「そういうもんだよね〜。わかるわかる」といった感じの至って健常な演出をして過ごしている。
だからこそ僕には表現が必要なのだ。
徹底された抑圧は、表現の精神世界において放流されなければ
遂に僕は犯罪者にでもなってしまうだろう。
【母の人生】
母は長女であり、名を「徳子」という。
昨日のお別れ会でわかったのだが、その名に恥じることのない人徳に溢れた人であったようだ。
僕は母の万全だった姿や、幼少期について詳しく知らないから昨日のお別れ会に
参列してくれた方々が語る言葉や、多くの人が深く涙を流す姿によって在し日の母の姿を初めて感じられた。
母より年下の人はみな「本当のお姉ちゃんみたいに優しくしてくれてありがとう」と涙ながらに語り、年上の人は「いつも可愛い笑顔で語りかけてきてくれてありがとう」とこれまた涙を添えて語ってくれていた。
母には二人の実の妹もおり、もちろん二人からも温かい涙を受けていた。
父との旅行で、長野に聳えるかの雄大な穂高岳を前にし
「あの山のように多くの人に愛される人になってほしい」と願い僕に名をつけてくださった我が母よ。
僕の死後どれだけの人が僕のお別れ会に来て涙を流してくれるかはまだわからないが、貴女は多くの人に愛されて、その人となりはまさに「徳」の名の示す通りであったようです。
「僕の母」②へ続きます。