「僕の母」②
【最後の二日間】
親の死に目に会えないことは、親子にとっての悲しい不幸だとよくいうが
その点において僕たちは幸せであったと思う。
令和6年 12月31日
郷里に戻り、母が入院している病院へ父と共にお見舞いへ訪れた。
母は既に持病の心臓病が悪化しており、しばらく入院生活を続けていた。
久しぶりに会う母は嬉しそうな顔をしており、ところどころ記憶や意識がぼやけてしまっている節は見られたが、二時間くらいの面会の最後に「またくるね」と僕が手を振ると笑顔で手を振替してくれていた。
心配していたが、思っていたよりも元気そうだった母を見て安心して家に帰り
実家でヴァイオリンを遊びながら束の間の休息を過ごしていたところ
病院からの「すぐにきてください。今夜は病院内に泊まっても大丈夫です」という電話を父が受け取った。
これが最後になる予感を僕は隠しきれなかった。
そして、その予感を裏切ることなく母が院内で亡くなる令和7年の1月2日の木曜日までの二日間。重く過酷な最後の闘いが始まろうとしていた。
【夜戦】
「これが最後になるかもしれない」
そんな思いを抱きながら、僕は父と共に母のいる場所へと向かった。
ところで、仏教や哲学はインテリぶるためのファッションではない。
生命の尊厳と向き合うにおいて極めて重要な教えだ。
ブッダは自らの死が近づく姿を前に困惑する弟子たちを前に「悲しむ必要はない」と言いながら涅槃の境地を説き
セネカは自らがかつての教え子ネロにより理不尽な処刑に晒されることになった時にも「臆することはない。我々はこういった時のために哲学を学んできたのではないか」と最後の教えを残し、自らの意思で処刑へと進んでいった。
僕は私生活では酒と女の子とに浸りまくっているどうしようもない人間なので、彼らの如き聖者賢人の生き方をすることは難しそうだが、彼らの持つ根源的な力強さには心を救われっぱなしである。
だから僕は「悲しむ必要はない。もうすぐ母は魂の帰る場所で安寧に浸かれるのだから」という思いを握りしめながら、静かに母と対話をした。
病室につくと、真っ暗な世界の中で白く灯った電灯に包まれて
母は少し苦しそうに息をしていた。
「きたよ。大丈夫かい?」と僕や父が尋ねると
「苦しい」と答えた。
精神薬の影響などでかつてはふくよかであった母も
その時には青白く痩せこけており、髪は全面白髪であった。
そっと母の額を撫でたり、手の甲をさすると、心なしか嬉しそうにしてくれた気もするが、それでもやはり苦しそうであった。
このとき僕は風邪を引いていたため、なるべく咳などをしないように
具合が悪い姿を見せないようにと必死に元気な姿を見せようとした。
なにより、自分などよりも遥かに辛い母が戦っているのだ。
赤く染まりながら時折ピーピーピーと鳴る酸素濃度計測器や、心拍数の計測器。
この、生命の警笛と濁音に塗れた母の咳を聞きながらこれから僕と父は二度の夜を過ごすことになる。
【1月1日】
31日の夜の時点で僕は「もう後数分かもしれない」と思っていた。
しかし、その予想を良い意味で裏切り、母は「3歳までしか生きられないかもしれない」と言われた時と同じように、またしても苦境を乗り切った。
酸素濃度計測器はやがて落ち着きを取り戻し、静寂に包まれた空間の中で時計が1月1日を指した。
父は大いに喜び「年が明けたぞ!あけましておめでとうございます!」と母に語りかけた。僕も続いて「あけましておめでとうございます」と語りかけた。
僕が最も驚いたことは、次の瞬間だった。
スマホのカメラで動画を回し「おかあさん、新年の挨拶をして」と伝えると
母は元気だった頃のような満面の笑顔で「あけましておめでとうございます。ことしもよろしくお願いします」と語りかけてくれた。
僕は心の底から驚いた。こんな姿になっても、笑顔で話せるのかと驚いた。
少しして僕は、父母に届くように呟いた。
「3人で過ごせるなんていつぶりだろう。まるで旅館にでも泊まってたときみたいだね」と。
それから僕は看護婦さんが用意してくれたソファーで眠りにつき
父は一睡もすることなく、母を見守りながら朝を迎えた。
朝目が覚めると
昨日よりも落ち着いた雰囲気になっていた。
昨日よりも元気になった母をみて安心した父は
家にある御節が腐ってしまっては母が戻った時に食べられないという理由で
一度家に戻った。
僕は母と二人きりになり、まるで幼少期学校へ行かずに二人で過ごしていた日々のことを思い出しながら、その場で手紙を書いて母に見せた。
「聞こえてるかい?見えているかい?」とベッドに横たわる母に話しかけると
「見えてるよ」と返事をしてくれた。
僕は「いまいろんな人の役に立てているよ。先生って呼ばれながら勉強を教えたり、生き方を教えたり、いろんな人の役に立ててるんだよ。産んでくれて本当にありがたいよ」と伝えて
「産んでくれてありがとう。今とっても楽しく元気にみんなの役に立ちながら生きています。これからも楽しく生きていきます。産んでくれてありがとう。」と書いた手紙を母に見せ「見える?」と尋ねた。
母は無言で頷いていた。
このときに母がどう思ってくれたかはわからないが、これは僕が母にできる
そのときの最大限の感謝の表明だった。
「僕の母」③へ続きます。