『消費社会とはなんぞや』

消費される作品と、心に留まりつづける作品の差を生むのは、その作品が持つ哲学的強度の違いであると感じた。

哲学と情緒が深いところで融合した作品は
見る人それぞれによって異なる姿で作者の幻想を映す。

そしてその幻想を見ることができる時点で既に鑑賞する人の精神世界は作品と融和している。

哲学的強度の高い作品は簡単には破られないので、なにかしらの努力や体験を鑑賞する側にも与えるが、それゆえに鑑賞者の態度は「単なる感想の表明」ではなく「能動的な作品への没入」にならざるをえない。

ここに消費される作品と、心に留まり続ける作品の差がありそうだ。

それと同時に、「じゃあ消費される作品は情緒や精神世界に働きかけないものなのか」と尋ねられれば、一概にそうでもないだろうと思う。

「消費」という言葉には「大衆」の影を感じずにはいられないが、大衆を侮蔑するのは情緒の世界の否定へ繋がりかねない。

むしろ、言うなれば文化を生み出すものはいつの世も大衆だ。
大衆あってこその文化である。

従って、この「消費」の時代に大衆を説得することこそ、尊厳の消費へのなによりのカウンターになるのではないだろうか。

消費は一時的なものに過ぎない。
作り手は一作に己の霊魂の全てを込める。

消耗の激しい現代社会において、「わかりやすい」ことは本当に良きことか。

「わかりやすい」ことは本当に「善」であるか。

日本人総クリエイター時代と謳われる現代、
僕はそうは思わない。

クリエイト(創作)とは、さながら出産の如く本来痛みを伴うものだ。
単純明快な、なぞなぞの応酬がクリエイトであるという論調には反旗を翻せざるをえない。

我々の知は、我々の精神は
消費主義と資本主義に丸呑みにされるほどに弱々しいものではないはずだ。

我々の尊厳は、魂はどこにあるか。
どうあるか。
作り手としてこの課題は今後も考えたい。

創作に魂を捧げる、詩人として。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集