翻訳の不可能性
翻訳ができるかどうか。これは、いろいろな書籍で論じられている。
特に新しい話ではない。
翻訳前の言語を原語、翻訳後の言語を訳語とする。
翻訳をする際に、原語のニュアンスを最大限くみ取ろうとすることが当然の思考法ではあるが、そうすると訳語の持つニュアンスを反映させられない。
訳語に沿った翻訳にすると、つまり意訳を意識しすぎると原語の意味をくみ取れないので、翻訳とは言えなくなる。
言語間の意味の差異、文化や環境、時代背景の違いにより、原語のニュアンスをそのまま訳語に落とし込むことができない。そのため、翻訳は本来的には不可能である。
その原理的には不可能な中でも、ある程度意味をくみ取り翻訳する必要があるのではないか。
例えば、いただきます。
字義通り取れば、今から食事をとりますという意味だが、もちろんそんなことではない。
英語に無理やり訳せば、「I appriciate all ingredients and everyone who was associated with these foods, and I will be eating the meal sincerely. 」
といったところだろうが、このように丁寧に訳したとしても、いただきますに含まれる、すべてのものに感謝していただくという日本人の感覚を完全には訳せていない。
これを、itadakimasuと表現しても、英語に翻訳したことにはならない。
その意味で、翻訳できないが翻訳するという試みを際限なく続けていくしかないのである。
翻訳のむつかしさを考えていると、夏目漱石の逸話で、「I love you.」を「月が綺麗ですね。」と訳したという話は、事の真偽はいったん置いておいて、翻訳の奥深さを突いていると感じざるを得ない。
逆に、「月が綺麗ですね。」を英語に訳せば、「I sincerely love you.」あたりだろうか。「Your zodiac sign is beautiful.」でもよさそうだ。