【桃太郎】 第三話「幼馴染」
「いけっ! シロ!」
「はいっ!」
桃太郎は、愛犬のシロに叫んだ。
獲物の鹿は、桃太郎に胸元を深々と射られ、這々の体で逃げ惑っていた。
猛然と駆ける、シロ。
すぐに鹿に追いつくと、飛び上がって、その首元に、がぶりと噛み付いた。
たまらず鹿は、どおっと倒れ込む。
「でかした! シロ!」
追いついた桃太郎が、刃でトドメを刺し、シロの頭を撫でた。
嬉しそうなシロ……。
今朝、首を捻りながら熊一が、腰が痛むという。
その熊一は、いい機会だから一人で狩りに行ってこい、そう桃太郎に言った。
それで、シロとともに山に分け入っているのだ。
桃太郎、十歳。
シロ、二歳。
初めての熊一不在の狩りで、案に違い、いきなり鹿を仕留めてしまった。
桃太郎は鹿を担ぐと荷物をまとめ、シロとともに悠然と凱旋の途についた。
小屋が見えて来た。
なにやら様子がおかしい。
はうっ……! ひゃっ……!
——まずい、ばあちゃんに何かあった!
それは、尋常では無い、ヨネの叫び声であった。
桃太郎は、担いでいた鹿を放り投げると、脱兎の如く駆け出した。そして小屋の引き戸を勢いよく開け放つ。
「どうした! ばあちゃん!」
素っ裸で横たわる、熊一。
同じく素っ裸で熊一に跨る、ヨネ。
目をぱちくりさせる、桃太郎。
行儀よくお座りする、シロ。
庭では、ニワトリが忙しなく右往左往している。
「おっ、桃、ど、どうした」
熊一は、着物を引っ掛けると、慌てて土間に降りて来た。
「じいちゃん、腰は大丈夫なのか?」
心配そうに尋ねる桃太郎に、熊一は、言い切った。
「なに、ばあさんに、唐土(もろこし、中国)から伝わった、あん摩をしてもらってたのよ。ほうれ、このとおりじゃ!」
ぶるん、ぶるん……。
勢いよく腰を回す熊一をよそに、今度は、ヨネに声をかける。
「ばあちゃん、大丈夫か? 盗人でも入ったのかと思ったよ。それともどこか具合が悪いのか?」
「な、なにいってんのさ、桃。あれが、唐土のあん摩の掛け声よ。ちっとも変じゃないよ」
ヨネもまた、言い切った。
じいちゃん、ばあちゃん……。
桃太郎には、父、母とは呼ばせていない。
授かった経緯、年があまりにも離れていること、さまざま悩んだ挙句、この呼び名に落ち着いた。
「そうなのか……」
釈然としない桃太郎の肩に熊一は手をおいた。
「さては、桃。お前、一人だけの狩りに怖気付いて、逃げ帰って来たか?」
熊一は目を細めた。
桃太郎は同じ年頃の子より体躯が良い。だが、まだまだ子供なのだ。決してそれを責めるようなことはすまい。
そう頷いた熊一だが、桃太郎の背中越しに見える、丸々と太ったオス鹿に目を剥いた。
「桃、まさかお前……」
「ああ、じいちゃん。一人で仕留めたよ。シロに手伝ってもらったけどな」
傍のシロの頭を撫でながら、桃太郎は胸を張った。
「こりゃ、たまげた! お前は自慢の息子じゃ」
「まぁ、桃、良くやったわね!」
熊一とヨネは、涙ぐみながら桃太郎の頭を乱暴に撫でた。
桃太郎は、恥ずかしそうにしながら、シロの頭をまた撫でた。
そして、熊一は、桃太郎を褒めると、決まって説教を垂れる。
「いいか、桃。人間、嘘をついたらお終いじゃ。最後には鬼になる」
あっさりと自分のことを棚に上げる、熊一。
「鬼!」
「そうじゃ。八丈島の南海に鬼ヶ島があってな。そこに御殿を建てて住んでおる」
「鬼になるとどうなるんだ」
「人を食う。十年ほど前にも伊豆の下田にやってきて、人を喰らいよったわ」
「本当か?」
「ああ、極悪じゃろ」
皆、唐土のあん摩の件はすっかり忘れていた。
そんなこともあってか、それから程なくして、小屋の隣に桃太郎の離れが建てられた。
「桃、キヨちゃんによろしくね」
ある日、桃太郎は、ヨネからお使いを頼まれた。
集落に干し肉を持っていって、穀物と交換してくる、いつものお使いであった。
ヨネは、桃太郎が木立の影で見えなくなったのを確かめると、
「あんた……」
と言って、引き戸を閉じ、そこにつっかえ棒を立てかけた……。
* * *
兄弟たちにとって辛い日々が続く中、隣家のセツが流行り病に罹ってしまいました。
人々は病を恐れて、村はずれの小屋にセツを移しました。
村人が交代で小屋に食事を運びました。
でも皆、きみが悪いと言って、それもやがてほそぼそとしたものになりました。
アイとシユは、それを見かねて、里長の倉庫から滋養のありそうな鶏卵や干し肉を掠め取ると、セツの小屋にたびたび運びました。
——いつもありがとう。でも、もうすぐわたしはお星さまになるの。だからお願い、約束して。ふたりには、自分にも人さまにも嘘を吐かずに、正直に生きてね。
わたしのこと忘れないで……。
アイとシユは、涙を浮かべながら、握ったセツの手に力を込めました。
セツの暖かみが腕を伝って、二人の心に届きました。
ほどなくしてセツは、誰にも看取られず、星になりました。
* * *
キヨは、熊一の親戚筋にあたる。そして、桃太郎と同じ歳であった。
「桃、楽しそうですね」
シロは大股で歩く桃太郎の後を歩きながら言った。
「べ、別に楽しくねぇし。ただのお使いだよ」
桃太郎は素直であった。
二年前、雪の降る日、凍えて死にかけていたところを、桃太郎に助けられたのがシロであった。
シロは、あの時、本当であれば死んでいた身なのだ。
やがて集落に到着した。
早速、キヨの家に向かう。
「あら、桃じゃない。どうしたの?」
キヨの家の前に来た時、後ろから呼び止められた。
当のキヨであった。
くりっとした瞳に、ぷりっとした唇。髪は結い上げている。
「お、おう。久しぶり」
「元気そうだね。いつもの用事かな?」
赤くなった桃太郎をからかう様に覗き込むキヨ。
シロは、この光景を見るのが好きであった。
「み、見てみろよ、この鹿。俺が一人で仕留めたんだぜ」
「そうなんだ! すごいね!」
本当は、シロに手伝って貰ったのだが、見栄を張ってしまった。無論、シロはなにも言わない。
キヨは、干し肉を受け取ると米を桃太郎に手渡した。
「強い男の子は、好きだよ……」
好き……。
桃太郎は、頭の中が真っ白になった。継ぐべき言葉が、頭をひっくり返しても出てこない。
胸がとても息苦しくなって、ただ、身体だけが一歩、前に出た。
眼前の、手の届くところにキヨが佇んでいる。
「キ、キヨ、俺……」
絞り出すように言った桃太郎に、察したキヨは目を伏せた。
「……俺、お前の……」
言いかけた桃太郎を制するように、キヨは、はっと息を呑んだ。
「ち、ちょっと、桃……」
彼女は桃太郎の股間を指差した。
はだけた着物、そして褌から、むくむくと釈迦如来が顔を出している。
「あっ、ご、ごめん!」
そう叫ぶと、股間を抱えて次の家に駆け出した。
「はぁ、やっちまったなあ……」
夕方、家路に向かう桃太郎はため息交じりに言った。
キヨの前で、元気になった釈迦如来を見られてしまった。
「大丈夫ですよ、桃太郎。キヨさんは寛大なお方です」
「そうかあ? ……なあ、シロ、キヨは俺のこと好いてると思うか……?」
「桃、それは自分の言葉で確かめないと駄目ですよ」
「……それもそうだな」
そんなことを言いながら秋川にかかる橋を渡る二人に、
「おい、桃太郎か?」
と声がかかった。
ここ奥多摩から東へ五里ほどいった五日市の僧侶、柿珍念であった。