【桃太郎】 第五話「師弟」
「でっ、でかいっ……!」
桃太郎たちの前に立ちはだかったのは、雲をつくほどの巨体を揺らす、クマであった。
クマの腕が、桃太郎を襲う。
ぼやんっ、その爪先は鈍く光っていた……。
近頃、桃太郎は、犬のシロと猿のエテ吉の三人で狩りに出かけるのが日課となっていた。
エテ吉は、湯治場での一件以来、キヨを描いた艶絵をせっせと桃太郎へ届けていた。
そのうち、共に飯を食うようになり、やがてエテ吉も離れで寝泊まりするようになっていた。
「おい、桃、今日はどうすんねん?」
頭の後ろで腕を組みながら、エテ吉は言った。
「そりゃ、大物の鹿よ」
「あのなぁ、そういうのは馬鹿の一つ覚えっていうねんぞ。大物、大物って、クマが出てきよったらどないすんねん」
「はい、桃の言うとおり大物を狙いましょう!」
輝きを増す、シロの瞳。
「忠犬か!」
「犬ですから、何か!」
普段、おとなしいシロも、桃太郎を馬鹿にされると声を荒げる。
「……アホ垂れの犬畜生が……」
「エテ公に言われたくないんですけど!」
「なんやシロ、もういっぺん言ってみろ!」
「しっ、静かに!」
あわや掴み合い寸前の二人を、桃太郎は鋭く制した。
いい頃合いの間合いに、鹿が草をはんでいる。
大物である。
桃太郎は、矢を弓につがえると、
ヒュッ、と放った……。
* * *
アイとシユは、殺しのカドで、郡司の前に引っ立てられていた。
「アイにシユ、その方ら、里長を殺したのはまことか?」
二人は、押し黙っている。
記憶が頭をぐるぐると巡る……。
——里長の振り下ろす鞭に、無我夢中でしがみついた。
そんな兄を見たシユが、里長の腕にしがみつき、力の限り噛みついた。
あっと叫んだ里長が、倒れ込む……。
鞭を奪ったアイは、それを里親の首に……。
気がついた時は、血まみれの棍棒を握り締め、突っ立っていた。
鳥の声が朝を告げていた——
「どうなのだ……!」
声を荒げる郡司に、二人は同時に答えた。
「知りません」
その時、二人の頭にツノが生えた。
「本当か?」
「知りません」
また、もう一本、ツノが生えた。
* * *
その日の朝、桃太郎一行は、意気軒昂で山を引き上げていた。
これまでにない大物を仕留めたのだ。
「オレの奇襲が鹿野郎をびびらせたよなあ。日頃、覗きで目を鍛えとるからなあ。そう簡単に獲物は逃がさへんでえ」
そう胸を張るエテ吉にシロは言下にいう。
「いえいえ、桃の弓の腕前が一番です」
「忠犬か! つっこみも覚えろや!」
桃太郎の弓に驚いた鹿……。
エテ吉は、巧みに木立を、ひらり、ひらりと飛び移り、上から鹿を急襲する。
そして、その背にしがみつくと首を締め上げる。
そこにシロが追いつき、腹をがぶり、鹿がずてんっ、と転がる。
最後に、桃太郎が、刃で首の動脈を断ち切って、狩りは無事に終わった。
今回も、三人にとって定石どおりであった。
雲取山の中腹あたりまでやってきた。
この細道のあの角を曲がれば、あとは坂を下って半刻ほどすると小屋に着く。
その角を曲がった時、急に辺りが薄暗くなった。
三人は、光を求め、顔を上げた。
……クマと目があった。
熊。
あんま施術中の、熊一の熊である。
さておき、三人は、あまりのことに固まってしまった。ようやく桃太郎が言葉を絞り出す。
「でっ、でかいっ……!」
それと同時に怒声を放ったクマは、桃太郎めがけ前足を振り下ろす。
咄嗟に桃太郎は、後ろへ飛び退いた……。
* * *
アイとシユは、遠流に処されることになった。
状況は、二人による犯行を示していたが、目撃者がないこと、子供であること、それと……。
判事の最中に、この二人の頭からツノが生えたのである。
郡司は、きみが悪かった。
何かの凶兆ではないか?
京から遠ざけたほうが良い。そんなことが頭を掠めた。
そこで、本来なら死刑のところ、罪一等を減じて島流しとなった。
こうして、兄のアイは八丈島に、弟のシユは佐渡島に流された。
* * *
「言わんこっちゃない! 悪い予感が当たってもうたやないか!」
「も、桃は、悪くありませんっ! エテ吉が余計なことを言うからです! さあっ、桃を助けますよっ!」
「ほ、ホンマおまえは、忠犬かっ!」
クマの獲物たちは、右往左往と山を逃げ回っていた。
桃太郎に先行するシロとエテ吉が、クマに上から、横合いから、石を投げたり、激しく吠えたりして、その気を引いていた。
その隙に、桃太郎がクマとの間合いを開けるのだ。
でもまた、すぐに詰められてしまう。
そんな攻防が四半刻も続いていた。
「もう駄目だあっ……!」
桃太郎の顎はすっかり上がっていた。
限界がきた。木の根に、もつれる足が絡め取られる。
どかっと、顔面から倒れ込んだ桃太郎は、すぐに振り返った。
……追いついたクマが仁王立ちしている。
「桃!」
シロとエテ吉は絶叫した。
クマは腕を振り上げる……。
その刹那……。
しゃんっ!
クマの肩口に稲妻のような閃光が、縦に走った。
クマの腕が、どさりっと地に落ちる。
しゃんっ!
息つく暇もなく、首元に閃光が、今度は横に走る。
その首が宙を舞って、ごろんと地に転がった。
クマはそのまま、仰向けに、どしんっと倒れてしまった。
宿木で休む鳥たちが、一斉に飛び立つ。
そして、倒れたクマの代わりに現れたのは、クマに匹敵する巨体で胸を張る、白頭巾を被った僧侶であった。
野太い眉を硬く結び、その手には先ほど閃光を放った薙刀を握りしめている。
弁慶、その人であった。
* * *
もう何年経ったであろうか。
一年ほどのような気もするし、百年ほど経ったような気もする。
八丈島の牢獄で、粗末な食事を力なく喰む。
アイは怖くなっていた。
記憶をたぐり、来る日も来る日も、ここに来てからの暦を数えていた。
心が消えてゆく……。
弟がいたような、気がする。
人を殺したような、気がする。
食事の味が、しない……。
八丈の荒浪が、アイの心を漂白してゆく。
——果たして、自分は、人であったのだろうか?
ただ一つの記憶にアイは、縋っていた……。
* * *
「ちょっと待って!」
仕留めたクマを引き摺って、その場から引き上げようとする弁慶の背に、桃太郎は叫んだ。
「ひょっとしておっさん、弁慶か……?」
立ち止まった弁慶は、首だけで振り返った。そして、軽く鼻を鳴らすと、また歩き出した。
「俺を弟子にしてくれ! 弁慶、いや、師匠っ!」
柿珍念に弁慶のことを聞かされて以来、考えていたことを思い切って言ってみた。
一方、弁慶は「師匠」という言葉に反応した。
昔から荒くれ者で、周囲からは疎まれ、どこか世間を斜に構えて見ることが、いつしか弁慶の癖になっていた。
人から師と呼ばれるなど思いもよらなかったのだ。
「なあ、師匠、俺、強くなりたいんだ…」
本日、二回目の「師匠」。
弁慶は、桃太郎に向き合った。
「強くなりたい? 惚れたおなごでもおるのか?」
桃太郎は紅くなった。
青臭い少年の瞳に、弁慶はつい絆された。
「名はなんと申す?」
「師匠! 俺は、雲取山の桃太郎!」
「師匠! ボクは、雲取山のシロです!」
桃太郎とシロが元気よく答える。
——え?
エテ吉にとっては寝耳に水であった。
弁慶に弟子入り。冗談ではない。
——ずらかろう……
そんな思いが脳裏をよぎる。
一方、狩りや覗きのあのひとときを捨てられるのか、と言われれば二の足を踏んでしまう。
——なんやねん……。
エテ吉は、空気を読む男でもあった。
「し、師匠、オレは、嵐山のエテ吉……」
「師匠」の乱れ打ち。
弁慶は、すっかり気をよくした。
「いいだろう、それがしは武蔵坊弁慶! これからは、師匠と呼べい!」
「はい! 師匠!」
師弟はこうやって出会った。