銀色夏生になれなかったよ HOKURIKU TEENAGE BLUE 1980 Vol.13 沢田研二『晴れのちBLUE BOY』 大澤誉志幸『そして君は途方に暮れる』
■ 沢田研二『晴れのちBLUE BOY』作詞:銀色夏生 作曲:大澤誉志幸 編曲:大村雅朗 発売:1983年5月10日
■ 大澤誉志幸『そして君は途方に暮れる』作詞:銀色夏生 作曲:大澤誉志幸 編曲:大村雅朗 発売:1984年9月21日
1983年、銀色夏生の鮮烈な登場。
一聴して「これはすごいモノが来たぞ!」と思った。
最初に聴いたのはテレビだったかラジオだったか、もはや覚えていない。けれど、その時の「今、自分はまったく新しいモノに触れている」という興奮は忘れがたい。
1983年5月リリースの沢田研二39枚目のシングル『晴れのちBLUE BOY』。アダム&ジ・アンツのようなジャングル・ビートのアレンジや曲も面白かったが、衝撃を受けたのは詞だ。
「青いシーツのジャングルで 後ずさりしすぎたライオン」という歌い出しからして、正直、すぐにはうまくイメージを結ばない。
Bメロで「あの娘はラジオつけっぱなしで あの娘は窓から出てって」ときて、わりと普通の歌の文句っぽくになったかと思いきや、ふたたび「フライパンはハムエッグより 僕の頭とよく会った」なんていう、わかるようなわからないようなフレーズが飛び込んでくる。
極めつけはサビである。
「言いたいことはヤシの実のなか 僕は花火よりひとりぼっち」
「なんだこれ、すっげー!」全体を通して何を歌っているのか、よくわからない。それなのに、聴き終えて僕ははっきりと打ちのめされていた。一体、何にそれほどまでに衝撃を受けたのか、自分でもよくわからないままに。
すぐに地元の貸しレコード店でレンタルして歌詞カードで作詞のクレジットを確認した。「銀色夏生」とある。一体どう読めばよいのかわからないし、男か女かも判断がつかない。「一体、どういう人なんだろう?」と思いつつ、まじまじと詞を読み返してみた。
すると初めて聴いた時の印象とは異なり「そこまで突拍子もないことを書いているわけではないな」ということがわかった。
基本的には、ちょっと不思議な女の子に振り回される男の子の歌だ。そう思って読めば「青いシーツのジャングルで 後ずさりしすぎたライオン」という比喩も、奔放な女の子の姿態に戸惑う男の子という図式が浮かぶ。「あ、だからジャングル・ビートのアレンジなのか」と、ついでに編曲の意図も腑に落ちた。
サビの「言いたいことはヤシの実のなか」にしてもジャングルのイメージと連なっている。イメージには統一性があり、突拍子もない表現にみえて、一個の詞として最初から最後までしっかり筋は通っているのだ。
歌詞を熟読してますます「この銀色夏生という人の才能はとんでもないな」という思いが一層深くなった。
阿久悠の劇画的なまでに派手なストーリー性もなければ、松本隆のような文学的な抒情性からも遠いカラッと渇いた世界観。行と行との関連も希薄。そのかわりポンポンと飛躍しながら、目まぐるしく展開していく。
先行する作家たちの影響がまるで見えない。「〇〇っぽさ」みたいなものがないのだ。これまでの歌謡曲の作詞の常識というか定石みたいなものを一切無視しているようにも感じられた。
軽やかに重ねられていくカラフルでポップなイメージの氾濫。今思えば、バスキアやキース・ヘイリングなど、80年代のポップ・アートにも通じるような、シリアスなメッセージをポップなイメージで包む感覚がそこにあったように思う。
「新しい」というのは、こういうことか。
それが当時の僕の感想だ。
意外と地味だったチャートアクション。
『晴れのち~』はすっかり当時の僕の愛聴盤になり、「最近勢いが衰えていたジュリーもこの曲で大復活する!」思ったのだが、大ヒットには至らなかった。オリコンの最高位は11位。売上枚数は10万枚に届かなかった。83年の沢田研二のシングルとしては物足りない数字だ。
当時、高校生だった僕の感覚では、82年の『おまえにチェックイン』『6番目のユウウツ』頃までは、ヒットチャート上位の常連という感じだった沢田研二だが、83年からなぜか潮が引くようにというか、急に地味な存在になったような印象がある。
実際、この後も、次作『きめてやる今夜』で10万枚台の売り上げを取り戻すが、続く84年の『どん底』『渡り鳥はぐれ鳥』はふたたび10万枚に届かず、以降彼のシングルの売り上げはさらに下降していく。
その頃(84年)には、少年少女のヒーローの座はチェッカーズや吉川晃司に移っており、時代の先頭集団からははっきりと脱落した感があった。
しかし、83年のシングル、井上陽水の手による『背中まで45分』などは、歌謡曲というよりシャンソンのような雰囲気と格調があり、今では(当時でも?)名曲と認知されている。新人作詞家を起用した『晴れのち~』といい、83年の沢田研二は作品主義というか、意図的にヒットチャート争いから降りたかのような印象もある。
たった一冊のノートで変わる人生。
正確な号はわからないが、たぶん翌84年の夏ころだと思う。当時の愛読誌、『宝島』を開くと、銀色夏生のインタビューが数ページにわたって掲載されていた。ほとんど音楽雑誌と化していた当時の『宝島』だったが、それでも作詞家を大きく取り上げることは稀だったので驚きつつ読んだ。
内容にはさらに驚いた。まず、銀色夏生が年若い女性だったこと。歌詞のトーンから女性だろうなとは思っていたが、まだ20代前半の若さだとは思わなかった。
一番の驚きは、作詞家となったきっかけについてだった。大学4年の頃、詞を書きためていたノートをレコード会社に送ったことから、作詞家デビューの道が開けたのだという。そして、そのノートの中にはすでに『晴れのちBLUE BOY』も含まれていた、と書かれていた。
「そんなことって本当にあるんだ…」というのが正直な感想だった。何者でもなかった女子大生が、たった一冊のノートで自分の人生を変えてしまったのだ。まさしく文化系シンデレラ・ストーリーとでも言おうか。
「だったら僕だって」と、早速、大学ノートを一冊買った。ノートを開き、そして、自分の人生を変えるために何事かを書こうとしたが…。
ダメだった。何も浮かばない。
自分の中をどう突つきまわしても「僕は花火よりひとりぼっち」なんていうフレーズが飛び出してくることはなかった。
音楽は好きだけれど、歌は下手。ギターもすぐにあきらめてしまった。けれど、もしかして言葉なら、詞なら、自分にだって書ける可能性があるかもしれない。音楽の世界に、自分なりに入っていくことができるかもしれない。
一瞬、自分の前に開けたようにみえた夢の扉は、あっさりと閉じられてしまった。
1984年のさらなる飛躍。
84年の段階で、銀色夏生は僕の中では完全に邦楽界の中心人物のひとりになっていた。なんといっても、『晴れのち~』の作曲家であり、ソロデビュー後もタッグを組んで活動していた大澤誉志幸がこの年大ブレイクしたことが大きい。
最初に聴いたのは、化粧品のCMソングとしてテレビでも大量に流されていた4枚目のシングル『その気×××(mistake)』だったと思う。ハスキーで艶のあるボーカル、これまでの邦ロックになかったシャープかつファンキーな音像、作詞のクレジットをみると、やはりそこには銀色夏生の名前があった。
この曲で一気に知名度をあげると、次のシングルで早くも決定打が飛び出す。これも最初はカップヌードルのCM曲としてテレビから流れてきたのを聴いたはずだ。その後、数々のアーティストにカバーされ、いまやスタンダードナンバーとなった『そして僕は途方に暮れる』である。
大澤の代表曲であるとともに、銀色夏生の作詞家としての代表曲でもあるが、当時のチャートをみると、オリコン最高位6位、売上枚数28万枚と、意外にも特大ヒットというわけではなかった。
しかし、前述のとおり、今では編曲家、大村雅朗の最高傑作のひとつとしても名高く、詞、曲、編曲のすべてが高い水準で結びついた80年代のベスト曲のひとつと認知されている。
個人的な思い出として、僕はこのシングル盤を、当時つきあい始めたばかりの女の子にクリスマスプレゼントとして渡した記憶がある。今思えば、クリスマスに別れの歌を贈るのは完全にどうかしているが、そんな当たり前のことがどうでもよくなるくらいには、この曲が好きだった。
しかし、80年代後半以降になると、彼女は活動の軸足を作詞から文筆の方に移し始める。歌詞とも純粋詩とも少し違う独特の世界を読みながら、「彼女の言葉はもうメロディーを必要としていないんだな」と、少し寂しく思った。作詞家としての彼女の作品にもっとふれていたかったというのが正直な思いだ。
『そして僕は途方に暮れる』の元ネタ?
時はいきなり2000年代前半へと飛ぶ。
舞台は、ある作詞家さんの自宅。いくつものヒット曲を持つ彼が主宰する作詞教室に参加したあと、彼の自宅で飲みながら個人的にいろんな話を聞かせていただいた時のことだ。
そうなのだ。実は、その後も僕はけっこうしつこく「銀色夏生になる夢」を諦めていなかったのだ。
どういう話の流れでそうなったのかは思い出せないが、たぶん僕が『そして~』の歌詞が好きだとか、そういう話をしたのだろう。彼は本棚から一冊の本を取り出すと、ぱらぱらとめくり「あ、これだ」と言いながら、僕の目の前に置いた。
フランスの詩人、ポール・エリュアールの選詩集だった。「プロデューサーがね、彼女にこの雰囲気で書いてくれって頼んだらしいよ」と彼は言った。当時は彼もそのプロデューサーの作家チームの一員だったのは、僕も知っていた。
差し出されたページを読んで、驚いた。いくつかの意味で。
その詩に描かれていたのは、男と女の別れの場面。部屋を出ていく恋人をなすすべなく見送る男の独白だった。シチュエーションとしては『そして~』そのままだ。まずはそのことに驚いた。あの詞にこういう元ネタがあったとは。
けれど、そこに直接的な言葉の引用はひとつもなかった。場面設定と恋の終りの気だるい空気感だけを取り入れつつ、彼女独自の言語センスでもって現代日本のポップ・ソングに昇華していた。エリュアールの詩を読んだ後に『そして~』の詞を思い返すと、その道筋というか、彼女の手つきのようなものがみえるようだった。
言うまでもなく、その詞には銀色夏生にしか書けない世界が映しだされていた。
なんて見事なプロデューサーからの課題に対する満額回答だろうか。元ネタをなぞるようなマネをせず、そこからから大きく跳躍し、期待以上のものを彼女は提出してみせたのだ。その力量に何よりあらためて驚いた。
もしも僕が同様の依頼を受けて、こんな解答を依頼主に手渡せるだろうか?
「無理だ」
悔しいけれど、そう思うしかなかった。
『晴れのちBLUE BOY』を聴いてから15年以上。大学ノートの前で銀色夏生になりきろうとした17歳のあの日から今日まで、彼女との差は実際にはまったく縮まっていなかったことを、僕は思い知らされた。
銀色夏生になれなくても。
そして、2023年。
いまだに僕の元には夢の残骸のようなものが時々送られてくる。その封書には、「著作権使用料計算書」とは書かれているが、正直、郵送費の方が高いくらいだろうから、毎回申し訳ない気持ちになる。
自分なりに力は尽くしたけれど、結局、作詞家としての僕は、ほぼ芽が出ることなく終わってしまった。
作詞家として何者かになろうと奮闘した僕だったが、今になって思うことがある。
本当は、もっと自分自身になることが先だったのに、ということだ。他の誰とも似ていない、誰とも比べることのできない、唯一無二の自分自身を作り上げること。
それを成し遂げた者だけが、結果として時に「何者か」になるのだ。
今日も僕はノートを広げて、真白な空間に言葉を浮かべる。17歳の時のように。
でも、それは何者かになるためにではない。
誰でもない、自分自身に近づくために。
そこに向かうための時間は、こんな僕にもいくばくかは残されているはずだ。