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もやもやした感情、ズキズキした感情と、どう向き合う?

生きていると、時々、自分でも扱いの困る(自分の)感情に見舞われることがある。

明らかに、一大事的な問題を抱えた時に起こる感情は、扱いに困るということはそんなにはない。
なぜならば、自分の思いが明確だからだ。
その思いに従って、思う道を進めばいい、ただそれだけのように感じる。

しかし、もやもやした感情、ズキズキした感情、これはそうは上手く扱えない。
なぜならば、自分の思いの方向性に、迷いを生じるからだ。
緊急性のない思いだからこそ、割り切れずに、悶々と抱えてしまうことがある。

もやもやするということは、その事象に対して、納得が行ってないからである。
しかしながら、世の中には、納得が行かないことなんて少なからずある。
その全てに納得が行くまで、とことん付き合う必要もないのである。
時間が山ほどあるというなら別だが、時間が有限の世の中にあって、もやもやする、納得が行かないというだけで、とことんまでは付き合い切れない。

ズキズキするということは、その事象に対して、傷付いているからである。
しかしながら、世の中には、傷付くことなんて少なからずある。
その全ての傷が癒えるまで、とことん付き合う必要もないのである。
時間が山ほどあるというなら別だが、時間が有限の世の中にあって、ズキズキする、傷付いているというだけで、とことんまでは付き合い切れない。

さて、ここで問題になってくるのは、自分の感情との向かい合い(割り切り)方だ。
いつまでも、自分の中に沸いた感情の全面解決を望み続けるということは、時間の無駄になるだけではない、自分の感情の傲慢さを放置し続けることになるのではないかと感じる。

もやもやする、ズキズキする、という感情は、納得が行っていない状態、傷付いている状態、すなわち、弱っている状態と言えるが、その弱っている状態の完全修復は、ほぼ不可能だということを、認めることが必要であろう。
感情とは、人と人との関係性の中で、沸き起こりやすいものだ。
故に、感情の解決方法は、他者への要望となりやすい。
すなわち、他者を変えたいという願望が含まれているということになる。

他者を変えるなんて、生きてる人間の誰にもできるものではない。
他者を、自分の感情のもやもや・ズキズキ解消の為に、変えることを望むこと、変わることを期待することは、ただの傲慢なのだ。

私のこれまでの生きづらさは、迷いやすい、傷付きやすいとう、感情的弱者の立場から、他者への依存的傾向を増幅させてしまったことにあったのではないかと推測をした。
自分の中にある傲慢さに気付くことは勇気が要るが、それをやることで、自分を要らぬ呪縛から解き放つことができるのだと感じる。





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