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お客様インタビュー・酒井充子さん(映画監督)

新聞記者からドキュメンタリー映画監督に。次回作撮影のため台湾に移住する酒井充子(あつこ)さんがご来店。
お皿を洗いながら耳を澄ましていると、お客様との楽しい会話が聞こえてきました。

お隣
ドキュメンタリー映画の監督さん?
どんな作品ですか。

酒井
代表作は台湾三部作「台湾人生」「台湾アイデンティティー」「台湾萬歳」で、かつて日本人だった台湾人の取材をしました。子供の頃に日本語教育を受けた、いわゆる「日本語世代」と言われる人達の生の声、本音を伝えたいと思いました。

私が台湾にひかれたきっかけのは「愛情萬歳」(監督・蔡明亮)という映画でした。この作品にすっかり魅了され
「主人公たちが生活する台北に行ってみたい!」
と聖地めぐりに出かけたのです。98年でした。当時私は新聞記者をしていましたが、もちろんプライベートで、です。

1994年公開

台北を見て回り、せっかくなのでこちらも有名な映画「悲情城市」(監督・ 侯孝賢)のロケ地、 九份にも足を延ばしました。するとバス停に立っていた時に一人の老人に流暢な日本語で声をかけられました。

「日本からですか? 私は子供の頃に日本人の先生にとてもよくしてもらったのです。お会いして御礼をしたいと思っていますが叶いません…」

バスが来たのでお別れしましたが、私は衝撃を受けていました。完璧な日本語、戦後50年経つのにも関わらず恩師を思うその心情…。台湾はすぐ隣の国なのに、私はそこに住む人達について何も知らなかった。
1895年から51年間台湾は日本に統治され、その間に教育を受けた人達は日本語を話す方が多い…知識がないわけではありませんでしたが、実際にお話して自分の無知を思い知りました。私だけではない、日本人はこのことを知らない。伝えなければ!

お隣
新聞記者でいらしたのに、どうして映画に?

酒井
私が勤めていたのは北海道新聞の函館支社で、函館には1995年から続く映画祭があります(函館港イルミナシオン映画祭)。ゲストの監督や役者さんに取材させて頂く機会があり、またボランティアとしてお手伝いもしていて、関わるうちに映画に興味が出てきた…台湾と出会ったのはちょうどそんな時でした。

だから初めから台湾についての映画を撮るつもりでした。
当初は劇映画のつもりでしたが、台湾でシナリオハンティングをする中で、このおじいちゃんおばあちゃん達をそのまま日本の人達に紹介したい、そのままの方が伝わるのではないかと思い、自然とドキュメンタリーという手法になったのです。今、目の前にいる人の顔のしわ、表情や声、しぐさ…このまま見てほしい。そして考えてほしい。

実ははじめは監督をするつもりもなかったりですが、どの段階かは忘れましたが「これは自分でやるしかないんだ」と分かりました。 ずっと一緒に映画を作っているカメラマンの松根広隆さんとは早い時期に出会いましたが、 撮影資金の調達に時間がかかったため、ひとりで台湾に通う日々が続き、一作目は七年ほどかけて完成しました。

「台湾萬歳」撮影風景
カメラマンの松根広隆さん(左)
「台湾アイデンティティー」撮影風景
松根さん(右)酒井さん(左)

新聞記者は2000年に退職しましたが、記者は人に会いお話を伺うのが仕事で、ドキュメンタリーはそこにカメラが入る…その違いだけ。やっていることは変わりません。
100時間くらい撮影して、編集の専門家さんにアドバイスを頂きつつ、どこを使うか決めていきます。私は周囲から驚かれるくらい思い切りがよくてほとんど悩まないのですが(笑)、撮影しつつイメージが出来ているのだと思います。どのシーンが一番印象に残るか、この方が一番伝えたいことは何か? 常に「どうしたら彼らの思いが伝わるか」だけを考えています。

お隣
映画の反響はいかがでしたか?

酒井
「台湾人生」のマスコミ試写をした時、 博識で有名な映画評論家で映画の登場人物たちと同世代の方が 、
「知らないことばっかり! びっくりしたわ」
と仰っていたのが忘れられません。
映画に出てくる人達は全員が歴史の生き証人。体験をありのままに語って下さったことで、はじめて明らかになったことが沢山ありました。彼らと出会えて良かった、もう結構なお年の方も多いので、間に合って良かったとも思いました。遺言を受け取ったようなものなのかもしれません。それをきちんと届けるのが仕事です。

お隣
埋もれていた歴史に光が当たったのですね。

「台湾人生」パンフレット

酒井
九份でおじいさんに声をかけられたとき、私も何も知らなかった。私は
「自分がまったく台湾のことを知らなかったこと。知ろうとしてもいなかったこと」
そして
「統治していたにも関わらず台湾について教えてこなかったこの国(日本)の教育」
の二つに強い怒りを感じました。この怒りが、映画を作る原動力になっています。知らなかった、では済まされない。

日本の歴史教育は近現代をきちんと教えませんが、戦前の日本が何をしてきたか、戦後の日本が何をしてこなかったのか、多くの方にもっと知ってほしい。台湾を通して自国について考えてほしい。

だから私の映画は答えを提示するものではありません。分かりづらいと言われることもありますが、まずは味わって、そして各々が思いを巡らせて頂きたいのです。台湾は親日国と言われますが、「親日」という言葉だけではくくることができない彼らの複雑な思いを汲み取りたいとも思います。

お隣
お仕事がら沢山の方にお会いになったでしょうし、様々な情報に触れておられた。どうして「台湾」だけにそれほど惹かれたのでしょうね?

酒井
私は台湾の観光地やグルメは、実はほとんど知りません。今でも人から教えてもらうくらいです。私が惹かれたのはとにかく「人」台湾人の魅力なんです。前世は台湾人だったのではないかと思うほど彼らに親しみをおぼえて、空港に降り立つと「ただいま」と言いたくなります。

これまではお年寄りとお話することが多かったのですが、若い人達も素敵ですよ。台湾人であることに誇りを持っている人が多く、政治的に常に難しい立場だからこそ、選挙にも積極的に参加する。考え方は様々ですが、自分の意見を持っています。
彼らともっと話したくて遅ればせながら台湾華語の勉強をはじめました。今は日本語教師の仕事をしています。

2023年の冬からは、しばらく台湾に住みます。次回作の撮影のためです。 蘭嶼(らんしょ) というタオ族の住む島が舞台なので、この近くに家を借りる予定です。
この島は 原発の低レベル放射性廃棄物の貯蔵施設 があり、住民運動も起こっている。今回はこれまでとテーマを変えて、台湾の今、あまり知られていない面にも光を当てるつもりです。

私は地元の方との信頼関係を築いた上で撮影に臨むので、いつも撮影開始までに時間がかかります。時には撮り始めるまでに何年もかかることもあります。ですから映画が完成するまではお時間を頂きますが、必ず見応えのある作品をお届けしますので、どうか楽しみにしていてください。

「台湾萬歳」撮影風景

酒井充子(さかいあつこ)さん プロフィール
1969年、山口県生まれ。慶応義塾大学法学部卒業後メーカー勤務を経て北海道新聞社入社。2000年から映画の世界に。09年日本語世代を取材した初監督作品「台湾人生」公開。以降「空を拓くー建築家・郭茂林という男」「台湾アイデンティティー」「ふたつの祖国、ひとつの愛ーイ・ジュンソプの妻」「台湾萬歳」を制作。日本と台湾の懸け橋となるべく奮闘中。


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青柳寧子
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