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2024年アニメ映画評55・「劇場版 忍たま乱太郎 ドクタケ忍者隊最強の軍師」
ご長寿忍者アニメの劇場版。本作は三回目の映画化で、一作目は1996年、二作目は2011年。前回からは十年以上経っている。「忍たま乱太郎」自体が2024年で放送33年目のご長寿アニメなのだが、「サザエさん」や「ちびまる子ちゃん」、「おじゃる丸」同様、映画化は殆どない。本作は、くだらなさも含めて結構面白く、7点だけれど、事前に知っておくべき情報が意外と多いから、観るハードルは高いかも。最低限、「忍たま乱太郎」の基礎知識と、六年生およびタソガレドキ城関連のものが必須。
「乱太郎」の映画はどれもかなり完成されていて、微妙な作品を生み続ける新「ドラえもん」に見習って欲しいが、十年に一回の映画化と毎年恒例作を並べるのは良くないか。アニメーションのレベルは一作目が抜群で、アングルの大胆さや動きのメリハリなど、数多あるアニメの中でも高クオリティ。ただ、筋はやや纏まりに欠け、子供向けゆえの肩透かしな展開がある。本作と二作目はシナリオ面で一作目を抜き、個人的には本作を推す。
諸泉尊奈門との決闘中に土井先生が失踪し、忍術学園の六年生が探索に出る。発見された土井先生は記憶を失っており、天鬼と名乗ってドクタケ城の軍師になっていた。稗田八方斎によって忍術学園を悪の巣窟と思い込んでいる彼は六年生を撃退する。土井先生裏切りの報を受けた忍術学園は、ドクタケがタソガレドキに攻め入ろうとしていると察知、タソガレドキが最悪、土井先生抹殺に走ることを危惧する。一方、土井先生の所在を知った一年は組は救助のためドクタケ・アジトに侵入するが、そこは張子の城塞で本命は別にあった。その後、抜け道を見つけた乱太郎・きり丸・しんべヱは本命のアジトへ行くも八方斎の策略で土井先生の手でに殺されそうになる。しかし、三人の、特にきり丸の説得で彼は記憶を取り戻し、八方斎を倒した。そして、忍術学園は戦のが始まらないよう後始末をする。
映像は、一作目に劣るが、それでも十分なクオリティで、序盤の六年生VS土井先生や、終盤の雑渡昆奈門VS利吉+αは、脚色されているものの、リアルな忍者のアクションに近くて非常にいい。やや寄りが多いため、巧みで稠密な動きという快楽は薄いが、カメラワークは割と工夫されている。六年生が土井先生を探す段も、流行りのMV演出にせず、サイレントにしたのは英断。切羽詰まった箇所だからMVにすると興が削がれる。また、殺人シーンを彼岸花で象徴的に表現した箇所はやや凡庸ながら美麗である。
一緒に暮らす土井先生ときり丸は戦災孤児で、戦国時代を舞台にする「乱太郎」の負の部分を担う存在である。本作の焦点の一つは、彼らの関係を基軸に戦国の無残さを描くことで、天鬼となった土井半助が八方斎の言う正義に感化されるのも、戦災孤児であるがゆえに人一倍平和と正義を希求しているためだと考えられる。対して、同レベルの実力を持つ雑渡昆奈門と対比的で、彼は利他的な平和思想よりも城の利益に忠実だが、一方、非常に忍者らしい怜悧冷徹な人物という点では天鬼と共通する。両者の比較から、天鬼という人格が、目的のために非情を突き詰めたペルソナであることが分かる。普段の温厚な様相は、いわば恵まれた環境の賜物なのであり、土井先生は本質的に冷血へ振れる素質を持っていると言える。となれば、本来の彼の才覚は教師より軍師の方に寄っているのだろう。つまり、本作の天鬼とは、土井半助の忍者的側面の顕現にして、ありえた彼の未来なのであり、それが実現しなかったのは忍術学園という存在のおかげなのである。こうした彼の二面性(冷血さと利他性)はどちらも戦災孤児に根を持っている(冷血でなければ生き残れないが、平和を祈らなければ生きている意味がない)と言え、戦の齎す精神的苦痛を体現していると言える。
一方、雑渡昆奈門も極端に冷血というわけではなく、本作でも忍術学園とは可能ならば争いたくないと思い、顔馴染みの利吉相手には手を抜いている。また、テレビ版や二作目で分かる通り、赤十字的性格の善法寺伊作にビジネスライク以上の感情を寄せている。土井半助に怜悧冷徹な雑渡昆奈門要素があるように、彼にも土井的な甘さや倫理があり、主君を持つ忍びとは言え、完全に無情な人になっていない。これらは彼の中で混在一体に存在していると言えるが、伊作への強いに関心を鑑みるに、心底では、慈愛と正義を重んじる生き方に憧憬があるのかもしれない。
先述の通り、本作主眼の一つはきり丸と土井先生によって体現される戦国社会の残虐さである。侍に親を殺されたきり丸は土井先生に養育されているが、本作では、自身も戦災孤児だったからこそ、きり丸を受け入れたと明かされる。一つ屋根の下で暮らす二人は特別な関係にあるが、それは、六年生と対峙した天鬼が豪も記憶を取り戻さなかった点からも窺える。ただ、しんべヱや乱太郎のトンチキなやり取りにも記憶を刺激されているから、手のかかる一年は組は、全般に大なり小なり特別な存在なのだろう。きり丸は特に重要で、同じ境遇だからこそ土井先生は彼にシンパシーを抱く。二人の関係と類似するのは山田伝蔵と土井先生のそれで、山田先生は彼を養育していたことがあり、きり丸ー土井先生の関係はこれの反復と言える。土井先生がきり丸を養育するのは、彼に家族的関係があったからでもあり、こうした設定はDVの連鎖を反転した善意の連鎖と取れる。本作では世代を超えた善の授受が描かれ、過酷な戦国時代にあってそれは格別の感興を呼ぶ。同時に、家族が、土井半助に天鬼ではなく忍術学園教師の道を選ばせたと言え、本作では明暗の未来を切り分ける家族の重要性が描かれる。
にしても、メイン三人を除けば団蔵はかなり贔屓されていて、映画三作いずれでも重要な役回りを与えられている。やはり、馬借頭の子供という属性は話を回す上で使いやすいのだろう。あと、ゲスト声優でなにわ男子の大西流星と藤原丈一郎が出ていたが、正直、全く気付かなかったし、印象に残らなかった。上手い下手以前に、出番が圧倒的に少ない(キャラ自体は出張っていたが、全然喋っていない)。