2024年アニメ映画評15・「ソウルフルワールド」
「私ときどきレッサーパンダ」「あの夏のルカ」同様、コロナ禍で上映中止となったピクサー映画。本来なら2020年に公開されるはずだった。本作でピクサーの特別上映三作品コンプリートである。振り返って見ると、ピクサーは現代のディズニー作品に比べて安定感があり、着想も中々独創的だった。ただ、どうにも爆発力がなく、あまり感動しなかった。その点では、当たり外れが大きいものの、ディズニーの方が当たりの時の感銘が大きい。スコアは6点くらい。特別上映三作の中では本作が一番微妙。
冒頭、ジャズ・ピアニストを目指すジョーは、有名ジャズ・シンガーとの共演が決まった夜に死亡する。何だか「幽遊白書」なり、異世界転生系なりを想起させる始まり。ジョーは冥界に運ばれる途中で逃げ出し、運よく、生まれる前の魂がいる世界へ潜入。そこでは死んだ人々が生れる前の魂をマンツーマンで教育し、個性と才能を目覚めさせてから現世に送り出していた。上手くメンターに扮したジョーは、何百年もこの世界に留まっている22番のメンターとなるが、彼女は生に意味が見出せず、ジョーの意見にも馬耳東風。しかし、二人はひょんなことから地上に落ち、ジョーは猫の体に、22番はジョーの体にそれぞれ入り込んでしまう。
本作は生きる意味を探求する物語で、22番が生れてもいい理由を見つけ、ジョーが本当の生の悦びに気がつくことにより、生の意味が明らかになる。ただ、二方向の展開がうまくいってない感じだ。
ジョーに関しては、ささやかな現実を大切にという主題が描かれるが、彼が現実を蔑ろにし、その素晴らしさを忘れている箇所に乏しい。夢が叶わない鬱屈を描くことで、現実の美しさを忘れているように描いているが、そこから上記結論に繋げたいのなら、夢が叶うのは悪手ではないか? 夢破れて尚、世界を美しいと言うからこそ、日常の美しさに気づく場面に説得力が出るのだろうし、小さな喜びの価値を強調するなら、現実への退屈感や鬱屈感を持続させた方が良かったろう。また、同種の描写として、口うるさい親に苛々するショットや、ジョーの肉体に入った22番が些細なことで興奮するのをジョーが咎める場面があるが、あれは大物アーティストとの共演が決まる=夢がかないそうになって精神が異常な状態なので、そこを切り取って日常の価値を忘れていると言われても詮方ない。普通でない精神状況を取り上げて日々を大切にすべきと述べても説得力は薄い。
また、生は苦しいと知りながらもなぜ生まれたいのか、という22番の問いには答えが出ておらず、スルーされている。彼女が生まれてもいいと思ったのは、現実が辛いという妄想に比して、案外世界が悪くなかったからだが、喜びは実地で味わったのに、辛さはそうではないのでアンバランスな構成である。要するに、人生や生活の辛さを実感していないため、世界は素晴らしいから生まれてもいい、という結論が空想主義的で空疎になっているのだ。
余談だが、生まれる前の魂がいる世界は、恐らくヘブライ人の伝承にあるガフの部屋がモデルだろう。また、キリスト教では一人の命が生れると同時に、それに関わる天使が生れるという伝承があり、こちらの方も意識しているかも。生命の素という点で似た話は岩手県にもあり、ホゼという光の玉が女性の体に入ることで妊娠すると伝わる。また、芥川龍之介「河童」では、出生したいか否かを親が生まれる前の胎児に尋ねる。
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